東アジア諸言語の形成 2 中国語(漢語)の位置 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 どんな言語でも、非話者から見れば変わり種といえるかもしれないが、中国語(漢語)はその一つといってもよいであろう。何しろ語形変化がまったくなく、時制もない。例えば「私は本を読む」も「私は本を読んだ」も「我看書」である。夏目漱石の引いている漢詩「采菊東籬下 悠然見南山」も過去とも現在ともとれ、英語に訳すには時制を決めなければならないが、漢詩ではその気遣いはない。中国からの留学生に聞いてみると、「別に問題はなく、不自由はしない。必要なら時間を示す言葉、例えば去年、昨日、明日などの語句を入れればよい」ということであり、もちろんそれで納得できる。それに振り返ってみると、厳密に言って、日本語にも印欧語のような時制があるわけではない。というと、日本語には過去時制を示す「~た」などがあるという反論があるかもしれないが、あれは相(mood)であるという。例えば母親が娘を見送って、「東京に着いたら、電話しなさい」などという。「着く」のは未来のことなのに、「た」が使われているが、これは未来における完了相を示しているにすぎない。これを英語に訳すときには、When you arrive in Tokyo, don't forget to call me. などということになり、あえて完了相にする必要はないが、これがロシア語であれば、完了体の動詞を使わなければならない。

 しかし、語形がいっさい変化しない孤立語というのはすごいと思う。英語もヨーロッパの言語の中では、語形変化がかなり簡略化されている言葉だと思うが、それでもまったくないわけではない。中国語には日本語の助詞のようなものもないので、まったくの無変化といえるようである。どうしてそのようになったのかは、さしあたり措いておくが、文字を持たない日本人が漢字を用いて日本語を表記するようになったとき、工夫しなければならなかった一つの問題は、これに関係している。つまり、日本語には助詞があるが、これを漢字でどう表記するかという問題である。もちろん、表記できないわけではない。漢字は意味を持つと同時に音を持つが、その音(万葉仮名)を利用すれば済むことである。例えば「~は」は、<波>字を用いて示すことができる。 他の音もすべて漢字の音を利用すれば問題は解決する。

 しかし、すべての助詞をその音に近い音を持つ漢字で表記すれば済むといっても、漢字は画数が多く、面倒である。日本語の助詞をいちいち複雑な漢字で表記するのは面倒くさい。そこで、やがて簡素な仮名(平仮名と片仮名)が発明されることになるが、私が感心するのは、その前に面白い試みが行われていたことである。例えば万葉集の中の「大和には群山あれど・・・」の歌の中の「には」が「庭」という漢字一字で記されているが、これなどにはちょっとしたユーモアが感じられて笑ってしまう。この表記を考えついた人の得意顔が浮かんでくるような感じがする。解説するまでもないが、庭の音は「テイ」だが、訓(意味)は「にわ」であり、その訓読みを助詞に転用したわけである。

 漢字は、今から3500年ほど前の発明とされているが、今日でもその音と意味の二つを同時に表現する体系の根本は変わっていない。そして、隣の朝鮮半島ではこの体系は今日放棄されてしまったが、わが国では、漢字との切っても切れない関係が続いている。助詞や助動詞などは仮名で書かれるが、実体詞の多くは漢字を用いて書かれている。もし日本語表記を簡潔な表音文字に切り替えたら、漢字学習に費やされる時間が節約され、どんなによいだろうかと思うことがしばしばだが、もしかりにすべての漢字を仮名で書いたら、その文章はずいぶんと読みづらいものとなるだろうと思ってしまう。

 

 それはともかく、漢字が表意文字にとどまり、表音文字に発展しなかったのは、印欧語のように語形変化を持たなかったからであり、また日本語をはじめとする膠着語とも異なり、音を示すだけの助詞などがなかったからのようである。これは、例えば同じ表意文字から始まったメソポタミアの楔形文字の歴史とも異なっている。この楔形文字を発明したのは、チグリス・ユーフラテス川の両河川の下流域を生息地としいたシュメル人であり、彼らはシュメル語を表記するために古拙文字(絵文字)を作り出し、それを楔形文字へと作り替えたとされている。今から5000年も前のことである。ところがこのシュメル人というのは、日本語と同じような膠着語を話す集団であり、つまりシュメル語は膠着語であった(同時に屈折語でもあったが、これは膠着語ということと矛盾はしない)。ちなみに現在の同地には、アラブ系の人々が居住しているが、これは紀元7世紀頃に同地に侵入してきた人々の子孫であり、昔からの居住者ではない。それはともかく、シュメル人がやがて表音文字を作り出し、やがてセム系のアッカド人がそれを採用したのは、まったく理に適っている。おそらく中国人が表音文字にこだわり続けたのに対して、シュメル人が表音文字体系に移行したのは、孤立語と膠着語という言語類型の差異のなせる業であったことは疑いないように思われる。中国語を表記するのに、表音文字は必ずしも必要なかったのである。むしろかなり複雑な音と声調を持つ漢語を表音文字で表すほが困難であったかもしれない。

 

 かなり徹底した孤立語(語形の無変化を特徴とする言語)としての中国語(漢語)がどのようにして形成されたかは、昔からの私の関心事の一つであったが、その秘密(の少なくとも一部)は、近年のゲノム解析によって明らかにされたように思われる。

 下の図は、そのゲノム解析の結果を示したものである。

 人間の各細胞核には、遺伝子をつつむ染色体が納められており、その染色体には、数十億という塩基配列が存在し、そこに何十億という遺伝子情報が含まれていると言う。ぞの遺伝子情報が集団間で、また個人間で異なるわけだが、生物学の教科書に書かれている通り、集団間または個人間の差異はきわめて少ない。人間とチンパンジーでさえ、95%は同じであり、現生人類の個体間では99%以上が一致しているとされているらしい。したがって相違といっても、そのわずかな違う部分を探し出して、いわば拡大して解析するということを行っているという。

 下の図では、東アジアの現生人類集団のそうした遺伝子型の相違を特殊な方法で可視化したものであるが、私などのように生物学の専門的な訓練を受けていない者にとっては、その<解釈>に若干とまどう点がある。

 そもそも人の遺伝子が相違してくるのは、変異(mutations)によるというのは、19世紀以降の生物学の進展の成果である。ところが、遺伝子の存在自体は予感されてはいたものの、それはまだ19世紀には実証されておらず、またその具体的メカニズムについてはほとんど知られていなかった。1867年にダーウィンの『種の起源』が公表されたときも、彼は、生物の進化が漸次的に行われることを前提に物事を述べており、実際に生じた変異の中のあるものは、自然選択によって生き延び、あるものは消え去ることを説いていた。この変異が突然の出来事であること(突然変異)を1900年に説いたのは、ド・フリース(De Vries)であり、この説は、20世紀に明らかになったゲノムの構造・メカニズムによって、間違いないことが示されたようである。つまり、ゲノム中のある部分の塩基配列が突然(親から子への遺伝時に)変化し、それが形質の変化をもたらすこともあり、条件次第で子孫に広く伝わっていくという経緯を取るということになる。

 こうした現在の考え方によれば、個人間や集団間に遺伝的な差異が生まれるのは、塩基配列の変化→形質の変化/無変化→親集団の中での変異種の拡大という経過をたどることによる。したがって複数の集団が長い期間、相互に分離した環境にあるならば、相互の遺伝的距離は拡大することになるであろう。

 もっとも、分離していた集団は、常に分離しつづけれるわけではなく、しばしば混ざり合う(交雑する)ことが生じる。だが、この交雑によって生まれた新集団もまた複数の集団に分岐することが生じる。これは、記録に残っている歴史の示すところでもある。だが、この交雑という現象は、より正確に言うとどういう現象であろうか? 20世紀の生物学、とりわけ遺伝学の知見に照らせば、次のことは明かとなる。一つには、交雑する前の二つの集団に属する人々の持つ形質は、交雑後、決して平均化することはなく、むしろ多様化することである。具体例で言えば、かりにブロンド人を含む集団(A)とブルネット人の集団(B)が交雑した場合、髪の毛はブロンドとブルネットの中間色になるのではなく、ブロンド人の個体とブルネットの個体を含む集団になる。また、かりに癖毛族と直毛族が交雑した場合、新しい集団には、癖毛人と直毛人(諸個人)が共生することになる。その他の形質についても同様である。したがって、ヴェブレンの見解では、例えば縄文人と渡来系弥生人の交雑も、社会を多様化させることになり、新しい日本社会のそれに応じた発展を促すことになったという。ただし、集団全体をマクロ的に見た場合、統計学上、交雑集団は、その交雑に参加した集団の平均値を示すかもしれないことには注意しなければならない。

 下図は、前に示したものと同じであり、いくつかの集団を楕円でかこっているが、大きく見て、左側に膠着語を話す集団(A群)が来ており、右側に様々な程度に孤立語の性質を持つ言語を話す集団(I群)が来ている。ここで注目されるのは、中国語を話す集団が図の中央にあって左右に伸びていることである。その左端はA群の中に入っており、一方、右端はI群の中に入っている。これはどう捉えたらよいのであろうか?

 一つには、中国語話者の集団を境にして、一方ではA群への進化が生じ、他方ではI群への進化が生じたというように解釈することが可能かもしれず、また一つには、A群とI群の交雑の結果、中間への収斂が生じたと解釈することが可能かもしれない。

 言語学的には、A群(膠着語集団)とI群(孤立語的傾向の集団)が交雑した結果、徹底した孤立語としての中国語(漢語)が生まれたとするほうが考えやすいが、ゲノム解析データがそれを許すかどうか、私にはこころもとない点がある。あるいは、両者とも生じたと解釈することも可能かもしれない。しかし、いずれにせよ、チベット語が膠着語として漢語とははっきり区別される位置にあることは確実であるように見える。また縄文時代の<日本語>が膠着語であったことも疑い点であろう。