翻訳 ソースティン・ヴェブレン「ブロンド人種とアーリア文化」(1913年)  | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

簡単な解説

 

 ソースティン・ヴェブレン(Thorstein Veblen)は、著名なアメリカの経済学者(故人)であり、旧制度学派の創始者として経済学の世界ではよく知られている。数年前に高齢でなくなったジョン・ガルブレイスは、その弟子ともいうべき人であり、彼の多くの経済学上の著作が日本語に訳されている。ヴェブレンの著作も、いくつかは日本語に翻訳されており、その中でよく知られているのは『有閑階級の理論』(The theory of leisure class)であろう。この本は、アメリカ合衆国でも、かつては最も注目される経済学書の一つであった。

 ヴェブレンには、現代経済に関する理論的な著作にとどまらず、経済史を取り扱ったものがいくつかある。大部な著書としては、『帝政ドイツにおける産業革命』(1915年)と、『不在所有と営利企業 アメリカの事例』(1919年)の二つがあげられる。この二つの作品は、ドイツとイギリス(イングランド)、およびアメリカ合衆国の経済史を比較史的に取り扱ったものであり、その背景には、ゲルマン系の諸民族、とりわけアングロ・サクソン人(つまり現在の英国とアメリカ合衆国の多数派をなす集団)が世界における政治的、経済的主導権・覇権を握るに到ったのはなぜか、という強い関心があったものと推測される。

 この関心からして、彼は、イギリスの古代史、あるいはより広く北欧の古代史に注意をむけざるを得なかったようである。彼がとりわけ「ブロンド人」(金髪人)と呼ぶ人間集団の歴史に集中するのは、そのためであろう。上記の2つの著作を公表する前に、彼は当時の考古学研究の成果を研究するとともに、当時、急速に発展しはじめた生物進化論の知識を吸収しはじめたのは、そのためであると推測される。

 ところ、ヴェブレンは、上記の著作でも、この論文でも、「人種」(race)という用語を使っているが、彼は、いわゆる racist (人種差別主義者)では決してなかった。むしろ、彼は、この用語を用いることを出来るならば避けたいと思っていた節がある。しかし、現在の生物学(とりわけ遺伝子を取り扱う生物学)でも、個体の形質(traits, characters)に遺伝によってもたらされる相違があることは、否定されいない。また異なった集団(国民、民族)間にも大雑把にみて形質状の差異がありうることは否定されていない。例えば、私は小さい頃から癖毛に悩まされてきたが、この形質は、私の祖先の誰かから受け継いだ遺伝子のせいであるらしい。また縄文時代から弥生時代にかけて日本列島に住んでいた集団の中には、ブロンド人はいなかったであろう。

 とはいえ、個体間の相違や集団間の相違をもたらす因子は、現生人類が持っている遺伝子数全体から見れば、ごくわずかであり、<頑張らなければ、見つけられないほど>とも言われている。遺伝子の99%以上はすべての人間に共有されているものである。そのため、現在の生物学でっは、「人種」の存在はほぼ否定されている。私たち人間の帰属は、むしろ文化(言語など)や国籍などによって決められてしまうことが多く、そのことはヴェブレンもよく認識していた点である。ちなみに、遺伝子学が進歩した現在でも、専門家はともかく、普通の人(素人)の中には、ミトコンドリアDNAやY染色体の相違が諸集団の形質を区別する大きいクライテリアのように思い込んでいる人がいるように見える。しかし、実際には、その相違部は、個々の個体が持っている本体の遺伝子量の何十万分の一ほどの相違にすぎない。それが大きくクローズアップされるのは、母系的または父系的に遺伝するので、諸集団の移動などの歴史を調べるときに便利であるという事実からにすぎない。

 ともあれ、ヴェブレンは、むしろ彼の死後に、つまり20世紀のある時期に、ある地域で特に流行った「純粋な人種」という思想・見解を批判している。彼は、そのようなものは、虚偽でしかなく、地球上に現存する人類は、ヨーロッパの人類を含めて、すべて「雑種」(hybrids)であると考えていた。もちろん、「純粋なアーリア文化」という観念も彼にとっては存立しえないものである。こうした雑種は、集団間の交配(crossing)、そして(突然)変異(mutations)によって生じることを、ヴェブレンはすでに学んでいた。そして、それと同時に、経済史にとって本質的に重要な事実は、文化と制度(instutions)にあることを結論していた。ここで、「制度」という用語が何を意味するのか、くわしく解説するゆとりはないが、簡単に言えば、それは遺伝的形質と異なって、人間の個体や集団が「事後的に」獲得する習慣・慣習・思考様式のことであると言うことができよう。その特徴は、アプリオリに決まっているのではなく、変更することが可能な点にある。私の癖毛は直せないとしても、私の思考様式は変えることができる、のである。

 なお、ヴェブレンの文章は、かなり長いセンテンスを連なりから構成されており、各センテンスも、条件(if, unless)、留保(while, whereas, though)、追加説明(which ~、that ~、of which~)、付帯状況(~ing, with ~)などによって、延々と続くことが多い。それを逐語訳的に一つの文として日本語に訳して行くと、かなり分かりづらい日本語になってしまうので、適宜、切断して複数の文章にしているが、そうすることが出来ない場合も多い(それによって意味することが変わってしまうため)。集中力がとぎれてしまい、訳文を何度も見直すことをしていないので、不適訳があるかもしれないが、後日、改訳を掲載しようとは、思う。また内容の要約は、後日に予定しているもう一つの論文の紹介ののちに、掲載の予定。

 

 

 

The blond race and the Aryan culture, 1913.  Thorstein Veblen.

(訳文)

「ブロンド人種とアーリア文化」 ソースティン・ヴェブレン(1913年)

 

 ブロンド型またはブロンド諸型の人(おそらく長頭のブロンド人)がヨーロッパにおける最後の厳しい氷河期の間に地中海種族からの変異によって生じたことを、以前の論文で論じてきた。これは、この人種型の出現をヨーロッパの新石器時代の始まりとおおむね一致させるものであろう。その証拠は、新石器時代の技術が地中海人種とともに、その人種と同じ時か同じ頃に、ヨーロッパに入ってきたことを、また長頭集団を生み出した変異が地中海人種のヨーロッパに確かに定住したあとに起きたことを推測的に示している。このブロンド変異がそのようにブロンド族の投げ込まれた環境下で生存をまっとうしたのであるからには、それは、ヨーロッパにおける新石器時代の初期の諸局面を通じて広まっていた生得的な資質におそくら適していたはずである。すなわち、それは新石器時代初期に特徴的な技術的状況に選択的に適応していたが、その文化に今では自身の特徴の多くを与えている家畜(と穀物)を欠いていた型の人間であっただろう。

 ついで、最後の厳しい氷河期から始まり、またこの技術的装備から出発しつつ、ブロンド族のかなりの、また増加しつつある混血を含むヨーロッパ集団の諸グループは、ヨーロッパ中に、とりわけ氷河の縁にあった低地、高湿度で冷涼な土地の帯に散らばり、温かさと乾燥が戻り、ヨーロッパの全般的な気候が現在の特徴を帯び始めたときには、後退する氷層を追って北方に移動したと考えることができよう。この型を支配している厳しい気候的制限のために、ブロンド分子、そしてもっと特徴的には長頭・ブロンド人は、やがて、氷層とその縁の冷涼で湿気の高い気候が後退していった地域の集団からの選択的な排除によって消えていったのだろう。ブロンド変異種(およびそのブロンド雑種)の繁殖に適していた冷涼で高湿度の地帯は、その発生時の氷河状態がやがてなくなるにつれて、北方に移動し、沿岸部へと縮小しただろう。そこで、やがて、ヨーロッパが最終的にその氷層を失ったとき、ブロンド人種とその特徴的な雑種は、歴史時代に恒常的な拡張を画した領域内にほぼ制限されることになっただろう。これらの制限がほぼ気候の長期的な変動に対する対応して変動したことは疑いない。

 一見したところ、長頭・ブロンド人は、デーン人の年代記に「古い石の時代」として知られている時代の終わりまで、ヨーロッパの北方沿岸部にずっと維持し続けてきたその限られたさ居住地域を占取したのちに、初期の家畜群がアジアからヨーロッパに導入されてきたように見える。同様な言明がもっと古い主要穀物に妥当するかは、その導入が家畜の導入に先行するように見えるという保留をつけるならば、もっと疑わしくなる。少なくとも、そのような何らかの日付は、それらが「台所ゴミ」)の時期に古デンマークに最初に現れたことによって示されるように見える。

 事実上、彼らの物質文化のこれら本質的な要素のすべてが、ヨーロッパの他の地域ではもちろん、狭いスカンジナビア海域に定住したブロンド・交雑社会でも、トゥルケスタンからやって来たように見える。これは少なくとも家畜全般に当てはまり、初期の導入物の中でありうる例外はあまり重要ではない。初期の栽培穀物のいくつかは、たぶん今日のメソポタミアまたはペルシャの領土となっているところから来たものであろう。そして、おそらくかなり早い時期に西欧に達したようであり、これは本稿の議論には影響しない。少なくともかなり確からしく見えるように、もしヨーロッパの馬が旧石器時代に家畜化されていたならば、その技術的獲得は、旧石器時代の終末前に失われていたように見える。おそらくヨーロッパ種の馬の絶滅とならんで、であろう。

 これらの技術的装備の新しい要素、栽培穀物と動物は、ヨーロッパの新石器文化の特徴に大きく影響した。おそらく長頭・ブロンド人――またはブロンド・雑種集団――の占取したと思われる地域に関しては、明らかにそうである。共同体生活の物質的側面については、彼らは直接および間接の変化をもたらし、方法と手段の体系全体を変え、生計の追求を新しい線に移した。また非物質的な側面では、新しい方法と手段およびそれらの利用によって必要となり、生み出された新しい生活様式が混合農業システムに適した新しい制度的特徴をもたらすことになったという点で、彼らの努力が重要でないとは言えない。

 それらの導入の方法がどんなものであったにせよ、それらが集団から集団への感じられないほどの拡散によって平和的に伝達されたか、それともその土地を侵略し、その新しい方法と手段とならんで自分たち自身の文化的体系をヨーロッパ人に押しつけた新しい侵略的集団によって幅広く(with a high band)持ち込まれたか、いずれにせよ、これらの新しい文化的要素は、いくぶん漸次的にヨーロッパの前面に広がり、漸くかなりの時間が経ったあとで大陸の遠い隅にあるブロンド・雑種人の共同体に達したであろう。それでも、注意するべきであるが、栽培植物と家畜の特定のものが始めてスカンジナビア地域にはっきりと入り込んできたのは、結局、新石器時代のかなり早い時期である。

 栽培穀物は、家畜より早くやって来たように見え、おそらくは、彼らが第四期の後期にヨーロッパを占取したときに地中海人種の諸集団によって持ち込まれたようである。開墾とともに、必然的に定住的な生活様式が進んだ。そこで、それがはじめて導入されたとき、家畜は定住的共同体に住み、自分たちの生計を大部分は耕地から、しかし一部は海から、また当時土地の多くをおおっていた遊びを生み出す森林から、引き出す集団によって実施される農耕制度の中に押し込められていた。家畜が最初にヨーロッパに入って来たときには、そのような状況の中で取り入れられたのであり、とりわけ北欧の沿岸部地域に取り入れられたのである。

 これらの家畜は、西アジアと中央アジアの開かれた領域からやって来たのであるが、そこでは、またその地域全般の丘陵地域でさえ、牛群と羊群から生計を引き出す諸集団は、通常、彼らの家畜の群々のための糧秣の必要が季節的な移住の不断の繰り返しにとどまるという意味で、遊牧的な生活習慣の人々である。その結果、分断された丘陵地域を除いて、これらの集団は、慣習的に、移動式の住居を利用し、固定した定住的な共同体よりもキャンプに住むことになる。

 また特定の特別な制度的調整は、大規模な家畜群の世話と結びついた生活様式から生まれる。しかし、それらがヨーロッパに導入されても、家畜は、農耕にとって替わり、全面的に牛群飼育に捧げられるそのような遊牧的・牧畜的な生活体系を生み出すことはなく、むしろ農耕を定住的または擬似定住的な牧畜産業と結びつける混合農業の体系に入り込んだように見える。それが、とりわけ北部の沿岸部地域のケースだったように見え、ここでは、農耕が遊牧的な牧畜によって替えられたという証拠はまったくない。実際、このヨーロッパ諸地域の小規模で分断された地形は、広いアジアの領域に広まっていたような大規模な家畜産業を決して許さなかった。一つの例外は、少なくとも部分的で限られているが、おそらく南東端の大平原に、そしてドナウ渓谷に見られる。また牧畜は、定着的なものだが、南欧と中欧の丘陵諸地域のあちこちでも、先史時代のアイルランドでも農耕を優先的なものとしていた。

 そうした農耕と牧畜の導入は、ヨーロッパ石器時代の技術における革命的な変化を意味することになり、またこの種の技術革命は、必然的に、共同体が生活する制度体系に何らかの根本的な変化をもたらすことになる。第一次的には経済生活の詳細を支配する諸制度において、しかし副次的にはその家庭的および市民的関係において。新しい物質的要因の侵入を通じてそのような変化がやってくるとき、想定されるのは、それらの初期の故郷におけるこれらの物質的要因とすでに結びついていた諸制度の範囲が新しい状況において生じる諸制度の新しい成長に大いに影響を与えるだろうということである。(たとえ、これらの外来の制度がそれらを生み出した文化の中で持ったかもしれない範囲と力をともなって、もたらされ、有効となることを環境がゆるさないかもしれないとしても。)たとえ環境が制度の十全な体系の採用を許さないかもしれないとしても、ある種の同化は求められるであろう。また侵入してくる技術が侵入者が強引に侵入し、とりわけ条件がそれらにそれらの初期のなにがしかの生活様式を保持することを許した侵入領域の部分では、最少の喪失と修正を伴って生存していることが見られるだろう。

 物質的であれ、非物質的であれ、これらの新しい文化要素を持ち込んだ人々は、中央アジアの平原と高地の開放的な羊と牛の領域にもたらされたものを獲得していた。――これは、アーリア語の疑う余地のない証明であると考えられている通りであり、またその地域における最近の探検によって裏づけられている。これらの近頃の探検は、西部・中部のトルケスタンを(また栽培穀物の中心地ではないとしても)ヨーロッパに満ちた動物の家畜化と拡散の可能性の高い中心地として示している。そして、彼らがヨーロッパにもたらしたものは、すべて推定と推測による事柄である。アジア高原由来のこれらの遊牧的な牧畜移動民は優勢的にブロンドの身体の「アーリア人」、「インド・ヨーロッパ人」、「インド・ゲルマン人」であったと、仕上がった当然の事柄のように、推論するのが、かつては通常であった。しかし、言及している先の論文に限らず、上で言われてきたことは、これらの侵入者がブロンド人、あるいはもっと特殊的には長頭ブロンド人であった可能性をほとんど排除するところまで来ている。もとより、マウレタニア由来のブロンド人種と言われているものの断片がレヴァントを経由してトルケスタンにそれたかもしれず、また、そこで、アーリアの言語と制度とともに牧畜生活の習慣を獲得したかもしれず、またやがて次ぎにこれらの文化的要因をヨーロッパに持ち込み、ブロンドとブルネットのヨーロッパ人に押しつけたかもしれないことは、キーツ(もしこの項目に関する彼の省察が真面目に受け止められるならば)とともに、考えられる。しかし、そのような省察は、かつては根拠がなくても許容できたのであるが、最近は、少なくとも現在は、最近のパンペリーのトルケスタン探検によって、あらゆる疑問から追い出されている。どんなブロンド種族も中央アジア平原や高原のどの地域にも、牧畜的な生活習慣およびそれに伴うアーリア的な言語と制度を獲得するほど充分長く居住したことは、気候的な理由から、まったくありえないのであり、また長頭・ブロンド人が必要な気候と地形の条件下でそんなに長く生き延びることはできなかったことはかなり確かである。

 同じように、長頭・ブロンド人が第四期末に変異型として生じ、ヨーロッパでアーリア的な言語と文化を作り出したというのもまったく問題外である。というのは、考古学的証拠も、知られている気候と地形の事実も、故郷で成長した牧畜移動文化が、そのような結果に求められる規模に近い規模で、ヨーロッパで広まっていたという仮説を許さないからである。またその新しい(アーリア的な)文化の担い手が地中海人種の集団だったという可能性はほとんどない。ただし、言及された探検は、トルケスタンにおける牧畜用の動物(またおそらく穀物用植物)がその人種のものであったことをほぼ確実にしているのではあるが。地中海人種は、本来、ハム系であり、アーリア系ではない。それはその問題について語る能力のある人によって考えられており、また(おそらく)トルケスタンにおける地中海人の先史時代的定住(アナウにある)は、その上、あきらかに、特徴的に平和的な生活様式に従う顕著に定住的な人々の定住地であった。これらの定住地の集団は、もちろん、やがて、アーリア的な言語と制度によって映し出され遊牧的、略奪的な習慣を獲得した。しかし、アナウにはそのようなエピソードの証拠はまったくなく、そこでは、問題となりうる時期を通じて遺跡の中断なき平和的および定住的な占取を示す発見はない。アナウにおける定住地の集団は、侵入した人々による征服の圧力を受けた場合を除くと、外国語の受け入れを含むそのような文化的革新をほとんどなさなかった。侵入者は、アナウの平和的な地域社会の従属、そして奴隷または彼らの主人たちの略奪的組織中の従者階級としてそれらの住民の統合をもたらしたことであろう。そこで、アナウの地中海人たちは、主に別の人種株から構成される移動的社会における一つの副次的な人種的要素としてのみ、この牧畜的・略奪的(アーリア的)な文化を西に運ぶのに手を貸したかもしれない。

 これは、アジア種族が、以前は固定した定住的な生活様式を持っておらず、アナウの定住的および平和的な地域社会から、あるいはなんらかの似たような村落(プエブロ)や西トルケスタンの村落から、家畜を獲得し、つぎに(適度に)長い遊牧的牧畜生活の経験を通して、一般に大規模な牧畜生活ともに進む掠奪的な習慣と制度をも獲得した可能性を残している。彼らは、多少とも発展した家父長制的な体制をはじめ、原始的でアーリア的な(または、原アーリア的というほうがよい)言語によって意味されるような洗練度と成熟度で、これらの文化的な特徴を獲得した。そこで、彼らは、やがて、いくぶん後に知られるタタール風の軍事的および移動的な社会になり、そこで、自給的な移住的主人として西方に進み、外来のアーリア語とともに新しい物質文化をヨーロッパにもたらした。同時にほとんど避けがたいのは、そのような事件にあっては、この移動的な主人が主として地中海人種の平和的な農業的定住地出身の奴隷化された捕虜たちからなる多数の従属的な定員を西方に移すことになったことである。本来は、それが彼らに家畜群を供給していたのである。

 これらの新しい技術的な要素、およびその採用がもたらした法と慣習の変化とならんで、これらの新しい生活の方法と手段を記述するために企てられ、その新しい方法と手段がそれらを受け入れた諸国民中に養った思考習慣を表現するために取り入れられた新しい言語もそこにやってきただろう。移動的な牧畜(原アーリア)語および牧畜的な(家父長制的および掠奪的な)法と慣習は、ある程度、それらを生み出した技術的な方法および手段と結びつけられており、牧畜生活というこれらの物質的事実がこれらの諸国民の中に入って行ったのとほぼ同じ時期に、また同じ規模で、ヨーロッパの様々な地域社会に達し、影響を与えたと期待されるだろう。これらの、物質的および非物質的な文化的要素がヨーロッパの諸社会に拡散する間に、その言語および、それよりは低い程度だが、牧畜生活の習慣によって養われた家内的および市民的な慣習および理想は、当然にも、彼らの物質的または技術的な基礎から切り離されるようになり、かくして、これらの牧畜遊牧民の物質文化を決して大規模に獲得していなかった遠隔地の諸国民(彼らの生活様式がかつてアーリヤ文明のこうした非物質的な特徴を生み出していたのであるが)によって取り入れられた可能性がある。

 このはるかなる線の推測史を支えることになる特定の考察は、もっと詳細に描かれてもよい。(a)アーリア文明は、牧畜型のものであり、大規模な牧畜組織が一般的に含む様な制度、慣習および先入観をともなっていた。文献学者によって、そうしたことが原始アーリア語の証拠であると言われている。それは、本質的に、家父長制的支配下にある奉仕的組織であり、あるいは、こうした表現のほうが好まれるならば、軍事的または掠奪的な組織である。これらの代替的な語句は、異なった視点から同じ事実を記述する。それは、よく定義された財産権制度、いくぶん人目を引く女性と子供の従属、そして一神教に強く向かう傾向のある熟達した宗教体制によって特徴づけられる。西・中央アジアのような大陸地域の広い平原と高原上の牧畜文化は、必然的に、そのような形におちいることになるが、その理由は、攻撃と防御に対して警戒し、機動的に備える必要性、そして常に兵士としての規律を必要とすることにある。従属しないことは、自由な制度の本質をなしているが、繁栄する牧畜遊牧的な生活様式とは両立しない。どんな成熟度と一貫性をもって作りあげられていても、羊と牛の群を扱わなければならない牧畜遊牧文化は、常に、掠奪的なものでなければならず、それゆえ、臣従的な文化であり、とりわけ中央アジアの地形によって大規模に押しつけられ、馬の利用によって強制されるときには、そうである。(北極圏沿岸部のトナカイ遊牧は、少なくともある程度に、例外かもしれない。しかし、それらは特殊なケースであり、特別な説明を必要とする。そしてそれらのケースは、アーリア文明についての議論には影響しない。)そうした文化における特徴と行き渡っている人間関係は、主人と従者のそれであり、その社会的な(家内的および市民的な)構造は、階層化された奉仕の組織である。そこでは、誰も、自分自身の主人ではなく、普通でさえ、上級の主人(overlord)である。その家族は家父長制的であり、女性と子供は厳格な保護下にあり、裁量権は男性の長にしか与えられていない。もし集団が大きくなれば、その市民的制度は同じような強制的性格のものとなり、一般的に厳格な部族的組織を指し示し、最後に、軍事的な経験に助けられて、ほとんど不可避的に専制的な君主制となる。

 ゲルマン人の異教崇拝――これは例えば異教時代のスカンジナビアの地方自治の慣習によって典型的とされている――という民衆的な制度について、典型的にアーリア的な制度であるとして、語ることが稀ではなかった。しかし、それは排外主義的な偏見に導かれた無批判的な一般化による誤りのネーミングである。もし、私たちが、原始アーリア語を使っていた人々が大陸地域の平原と高原に居住する牧畜遊牧民の社会であったに違いないという、文献学人類学者の結論への合意を認めるならば、これらの古代的な北欧の慣習は、原始的なアーリア語の映し出す文化にはまったく疎遠である。これらの文献学人類学者の多くがまた、これらのアーリア人たちの北欧の異教的ブロンド人であったという見解に固執していることは、人的な首尾一貫性の問題を提起することになるが、それを除けば、現在の議論に抵触しない。

 (b)ヨーロッパの人類学における第一級の帰結であった人種株(アルペンー短頭・黒髪種族。リンネの図式のhomo alpinius)は、ヨーロッパに、全般的な時期に、アジアからやってくる。そして、この人種は、やがて、中部ヨーロッパ全域で主流というわけではないとしても、歴史時代に疑いなく主流の人種的要素となった場所に居を定めた。

 (c)上で語った牧畜遊牧的制度は、この短頭・黒髪種族が、支配的な人種的要因としてではないにせよ、ある勢力で現存してきたヨーロッパ地域の諸部分で最もよく広まったようにみえる。その証拠はおそらく決定的ではないが、少なくとも、部族的および氏族的な組織を含むヨーロッパ内部の家父長制的な型の制度の与える強い線の示唆がある。一方ではアーリア起源に由来すると想定されるこれらの文化的要素の分布と、他方では短頭・黒髪型の過去および現在の分布との大まかな共存がある。この線の制度が初期に広まったことが知られている地域は、主として、アルペン人種型が現存していたことも知られている地域、例えば古典的なギリシャとローマ共和国内の地域である。

 同時に、氏族組織もまた初発から地中海人種株と結びついてきたように思われ、アルペン種族の到来前にいたような人種の制度的調度の中にたぶん包含されている。しかし、この主題に関する最近の研究と省察の流れは、この地中海の氏族制度は、牧畜遊牧民を特徴づけるような家父長制的な種類のものというよりは、例えば広範に広まっている低位の野蛮文化の農業共同体に見られるような母系制的な性格のものである。北部のブロンド人の共同体は、孤立していて、利用できる証拠によれば、母系であれ、父系であれ、氏族的または部族的な制度を持たなかったように見える。古典的なギリシャとローマの共同体は、本来的には、地中海人種のものであり、彼らの集団における最大の人種的要素として地中海種族の広範な副次的な層を常に含んでいた。しかし、アルペン種族もまた、彼らの部族的および氏族的制度が重きをなしてきた(実際、それは以来ずっと続いてきたのであるが)ことが知られている時期におけるこれらの社会の中に大きく代表されている。

 これらの地中海沿岸部の社会を離れると、ケルト文化の諸国民は、家父長制的家族とともに、ヨーロッパ全体で見られるよりも十全に発展した形の部族的および氏族的制度を持っていたように見える。ケルト語の諸国民は、現在、人類学者によって本来的にはブロンド型のものであったと信じられている――背が高く、おそらく赤毛で、短頭・ブロンド人、ベドーの「サクソン人」、ドゥニケールの「東洋人」――この主題について見解は必ずしも一致していないのではあるが。しかし、このブロンド型を最もよく説明するのは、おそらく、アルペンの短頭・黒髪に交配された長頭・ブロンドの雑種としてである。その由来についてのそのようなある見解は、初期ケルト文化の先史と特有な特徴について知られていることによって補強される。この文化は、いくつかの点で、長頭・ブロンド人の社会の文化と根本的に異なっており、上部および中部イタリアの初期の歴史的社会のような黒髪の諸国民集団の文化に似たものをより多く維持している。もし、ケルト文化がハルシュタットおよびラテーヌの文化と同一系列に属するという最近流行り出している見解が受け入れられるならば、そのような系列化は、それがアルペン種族によって、支配されていたとは言わなくとも、強く影響されていた文化として説明される可能性を大いに増すことになる。

 ハルシュタット文化は、ドナウ河とその上流の支流の谷にあり、アルペン種族の移動の西方に向かう経路と想定されている所にある。その人類的な痕跡は、混合的性格のものであり、短頭・黒髪型の強い混血を示している。そして、それはヨーロッパの近隣諸地域に先立って外部の影響による文化的取得があったという証拠を与えている。ついで、このケルト文化は、歴史と先史に知られている通り、ブロンドと黒髪の要素が出合い、混合した帯に沿って中部ヨーロッパを広く横切っている。またそれは、北に隣接する文化的地域よりも自由な発展という点において、あるいはよりよく保存しているという点で、原初的なアーリア語が映し出しているあの略奪的・牧畜的な文化の特徴のいくつかを持っている。同時に、このケルト文化の諸国民は、他のブロンド・雑種諸国民よりも短頭・黒髪人とのいっそうの系列化、または彼らとの混血を示している。

 他方、狭いスカンジナビア水域の海岸上の長頭・ブロンド雑種の社会は、アルペン文化の中心地から離れており、牧畜民に特徴的な制度をほとんど示していない。これらの北方の長頭・ブロンド雑種は、もっと後の時期に歴史に入ってくるが、ヨーロッパの他の野蛮人よりもよく維持され、もっと十分に記録された異教信仰を伴っている。後期・異教的なゲルマン・スカンジナビア文化は、アルカイックな長頭・ブロンド人の制度の、唯一の事例とはいわずとも、最も利用できる事例を与えてくれる。また、これらの諸国民の間では、家父長的制度が弱く、曖昧であることに注意しなければならない。――女性は恒常的な後見下にはなく、男性世帯長の裁量権は、専制的ではなく、疑う余地のないものではない。子供たちは成人年齢に達したのち、父親の裁量権下に置かれない。父親の財産は、氏族の責任とされず、相続によって容易に分割されうる、等々。初期および後期の、これらの諸国民の間には、部族制や氏族制のどんなまともな証拠もなく、かつて全面的に、あるいは主に牧畜的な習慣のものであったと知られているアイスランド殖民地の後期の特別な事例を除くと、どんな証拠ももない。実際、彼らは新石器時代のある時期まで牧畜用の動物なしにいたことが知られている。この主題に関する唯一の異論を提出する証拠は、ラテン人作家、実質的にはカエサルとタキトゥスのものであるが、彼らの証言は、状況証拠によっても、後世のもっと真実の記録によっても支持されないという事実を見れば、捨て去られるべきである。ゲルマン人の群れの中の「部族」(tribe)について語るとき、これらのラテン人作家たちは、明らかにゲルマン人の事実をローマの用語で説明しているのであり、これは後世のスペイン人作家がメキシコやペルーの事実を中世封建制の用語で説明し、歴史家たちに混乱をもたらし続けるのとまったく同じである。一方で、ゲルマン人の共同体の牧畜の習慣について誇張するとき、彼らは全面的に移動し、襲撃のために組織されるか、あるいはケルト人を出自とするか、他の外国に起源を持ち、長頭・ブロンド人の恒常的な居住地から遠く離れた中部ヨーロッパの広い土地に居住する従属集団の上に、最近、一時的に定住した集団から取られたデータにもとづいて進む。部族制度を初期ゲルマン人諸国民のものとするとき、自由な想像の羽を広げ、大いに工夫をこらしたのである。しかし、これらの古典的作家たちの洗練された証言を離れると、それについての証拠はまったくなくなる。

 この文化内部における部族または氏族組織への最も近い接近は、「親族」(kin)であるが、これは初期ゲルマン人の法と慣習における何事かを説明する。しかし、親族は氏族(gens)や部族(clan)では決してなく、スカンジナビアにおける長頭・ブロンド人の拡散中心地から遠く離れれるほど、また移動する主人の従う軍事的規律が長引くほど、氏族組織の力(性質)をより多く持つことが見られることになる。これらすべての本来的にアーリア的な制度は、ブロンド人が最も疑いなく証明されるところで、最も弱く、また最も顕著に欠けているのである。

 初期のヨーロッパ全体を見ると、ヨーロッパ諸国民全般の間では、原始アーリア語に反映されており、また当該言語の証明する牧畜遊牧生活に含意される特徴を持つ諸制度は、弱く、あまり明確にされていないか、欠けていて、ヨーロッパが決して十分にはアーリア化されていなかったことを証している。また制度のアーリア主義の特殊な地理的およびエスニックな分布は、さらに、スカンジナビア地域の長頭・ブロンド人文化が他のよく知られているどんなヨーロッパ部分よりも、アーリア人の侵入によってあまり深く影響されなかったことを示している。このアーリア文化、物質的、家内的、市民的および宗教的な文化について、サンスクリットおよび他の初期のアジア史料を通じて、知られていることは、初期のヨーロッパで見られるものと確信的に対比することができよう。これらのアジアの記録は、アーリア文化の適格な特徴づけのための唯一のよりどころであり、それが初期のヨーロッパ文化全体よりもっと、また長頭・ブロンド人雑種の初期社会の文化よりも大いに、初期ヘブライ人の文化または牧畜トゥーラーン人の文化に似ていたことを示している。

 (d)それよりは決定的ではないが、等しく示唆的なのは、アーリア化されたヨーロッパ人の宗教制度からの証拠である。牧畜遊牧文化を典型的とするようなどんな略奪的文化にあっても期待されるように、アーリア人の宗教制度は、専制君主的な形態、ヒエラルキー的に階層化された多神教に強く傾いており、専制的一神教で頂点に達している。これらすべてが初期の異教的ヨーロッパにはほとんど見当たらない。この種のものに最も近く、よく知られている接近例は、疑いのない主神としてゼウスをいただくオリンポスの神々という後期ギリシャの図式である――この図式はきわめて異なった性格の初期祭祀の上に重ねられてきたことが後世の調査を通じて知られている。ケルトの(ドルイド教の)システムは、あまり知られていないが、利用可能な乏しい証拠にもとづくと、このシステムがヨーロッパのもっとよく知られた異教祭祀よりもっと略奪的で、君主制・専制的な特色を持っていたことは、おそらく合理的な推測の範囲内にあるだろう。後期スカンジナビアによって示されるようなゲルマン人の異教信仰は、唯一かなりよく知られているものであり、最高神にもし与えていたとしてもわずかな強制力を与えただけであり、またともかく「礼拝者」によってそれほど真剣には受け取られていなかった緩い多神教だった――もしスノーリの実質的に決定的な説明が修正なしに受け入れることができれば、である。

 ヨーロッパのつぎはぎの宗教祭祀の与える証拠は、緩く繋ぎ合され・分岐している異教信仰全体をアーリア的と理性的に呼べることとは無関係とする以外には、あまり決定的なことを与えていない。しかも、すべての利用できる証拠が長いアーリア化の数世紀にさらされてきた後で成立したようなヨーロッパの祭祀から得られたものであるという事実にもかかわらず、そうなのである。そのため、これらのヨーロッパ祭祀が証拠を与えており、専制的な一神教の方向に進むような神話と儀式の体系化は、アーリアの、あるいはアーリア化された侵入者の侵略的な文化の影響にまで遡ることができる――これは、オリンポス人の事例にかなり明らかなとおりである。

 (e)初期ヨーロッパの言語が、知られている限り、ほとんど普遍的にアーリア語族に属していることは、ここで語られている見解に対する打ち勝ちがたい障害となっているように思われる。しかし、その場合の困難が、アーリア語をその本来の保持者として長頭・ブロンド人に、あるいは何らかのブロンド種族のものとするように仮説を変えることによって著しく軽減されることはない。実際には、その困難は、そのような仮説によって増すことになる。というのは、初期のアーリア語を話す諸集団は、後期のアーリア語の話者と同じように、主に、まったくブロンド人ということはありえず、ブロンド人の混血の証拠もなく、黒髪人から構成される社会を持っていたからである。(初期であれ、後期であれ、全員がブロンド人からなる人々が存在したという証拠はどこにもない。)

 初期のヨーロッパの状況は、知られている限り、侵入する言語の拡散に対して障害をまったく提供していない。人口の特定の集団的移動、あるいはむしろ長期的な前進によって土地を移動させる社会の集団的移動というべきことが生じたことは知られている。これは、土地を取得し、ドナウ河上流の渓谷中の最初に知られている地からの移動と分散によって広まるにつれて、全体的に西方に移動しているハルシュタット・ラテーヌのケルト文化の場合に見られる通りである 

 その間、この長期的な成長、分散および前進の運動が進むにつれて、ハルシュタット・ラテーヌのケルト人諸集団は、一方では、地中海沿岸部およびエーゲ海域との幅広い交易関係を維持しつづけ、他方では、北海沿海部に到達しつつあった。まったくありそうなことだが、その新しい言語がヨーロッパの野蛮人の間に広まったのは、この種の交易関係によるものである――これは、主に、疑いなく、行商人の行っていた交易による。またその言語が交易用語として、少なくとも北部に進んだことは、遠く外れた推論では決してない。このすべてが現在も似たような環境の下で行われていることと一致している。そのような新しい言語が広まるのに力を与える優越的な利点は、相対的に未熟な統語法と発音より重要なものが何もないことを必要とする――ちょうど、今日、英語がチヌーク族の業界用語、ピジン・イングリッシュ、そしてビーチ・ラ・マールの形で普及しているのと同じである。そのような特徴は、他の光に照らせば、欠点に思われるかもしれないが、そのような言語が優雅ではないが、実践可能な交易用語へと骨抜きにされるのを可能とする。コインと同じように、業界用語を用いて、貧者(質素)はより良きもの(微妙なもの、複雑なもの)を駆逐する。与えられた言語がそのような交易の業界用語の中で支配的な要因として普及するときに力を与えられた第二の、おそらくは主要な優越点は、それが交易(この利益のために業界用語が考案されたのであり)を遂行する人々の生得の言語であるという事実にある。交易者は、多くの人と接触する・様々な言語の人々であり、多様な交易財のストックを運びながら、交換される財に自分たち自身の名前を押し付け、そのようにして業界用語語彙にそれほどに貢献する。また業界用語は、発端では語彙とほとんど変わらない。

 同時に交易者は、より効率的な技術を所有する人々に属する傾向がある。というのは、それが普通彼らに利益のあがる交易の機会を提供するより優れた技術だからである。そのため、新規であるか、外来的な言葉は、新規であるか、外来的な事実であり、妨げられずに現在の言語にきわめて広く入り込み、さらに業界用語による本来の言語の置き換えをもたらすことになる。

 初発におけるそうした業界用語は、最も普通の対象物、そして最も感じうる関係についての名前を構成する語彙以上の他のものではほとんどない。この単純であるが、実践可能な枠組みの上に、新たな言語の多様性が発展し、それが置き換えたり、吸収する様々な言語の貢献するものと言語的伝統の種類と質に応じて地方的に分化する。

 いくつかの形態のアーリア語が侵入してきた原アーリア人の言語中の共通の源泉にまで遡る交易上の業界用語から生じ、原アーリア語(語彙)の片端が先住の野蛮諸集団のあれこれの手中に入るにつれて、広く分化した地方的およびエスニックな変種へと発展していたという推量をこのように先に進めるとき、この示唆中には、結局、文献学者によってすでによく認められている事実に集合的名称を与えることを超えて、本質的に新しいことは何もない。知られているアーリア諸語の中で与えられている成熟した結果から一歩ずつ分析的に後方に戻りながら、文献学者たちは――ここで冗長にその詳細に言及する必要はないが――次のことを発見し、暴露した。すなわち、その初発において、これらのいくつかの成句は、ごくありふれた物と最も感じられる関係をカバーする簡単な語彙以外のものではほとんどなかったことであり、また長期にわたる使用と慣習によって、これらの言語の初級者が表現しようとして用いた語彙の武骨な糸が接頭語、接中後および接尾語、等々等々を驚くほどに入念に作り上げることを通して、戦術的、音声学的に例外のない屈折的なアーリア語族の言語にまで作り上げたこと、である。またヨーロッパ諸語に当てはまることは、あきらかに、その語族のアジアにおける仲間にもわずかな修正つきで当てはまる。これらのヨーロッパの成句は、通常、全体的に、推理上知られている原始アーリア語のパターンには、その最善のアジアにおける代表者より当てはまらないと言われている。これは、後者が原アーリアの言語および技術の中心地により近いところにある業界用語の成長だった(と仮定される)場合に期待される通りである。

 長頭・ブロンド人の初期北欧社会という特別なケースについては、一方のバルト海とデーン海域と他方のドナウ渓谷、アドリア海およびエーゲ海との間の交易が――スカンジナビア年代記の説明するように――石器時代と青銅器時代に続けられてきており、大規模だったことが知られている。この交易の間には、それが短頭・黒髪型の大規模な浸入を伴っていたと思われる通り、何世紀にもわたっており、複雑であったが、言語の交替と成長の形で、多くの事が過ぎ去っていくようである。 

 

脚注 1 「変異理論とブロンド人種」『人種発展雑誌』19134月。