日中における団体形成原理の相違 5 日本における平安時代以降の人口変動 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 前回は、鎌倉時代と室町時代における相続制度の推移を簡単に見たが、繰り返しておくと、鎌倉時代が武家の分割相続を前提とした惣領制と位置づけられるのに対して、室町時代は基本的に嫡子(長男)の単独相続制度に変化したということになる。その際、後者にあっては、相続から排除された二男や三男は、領地を相続した嫡子の家臣となるという結果(家臣化)が生まれる。また主家による家臣家に対する干渉が強まることとなった。こうした嫡子による単独相続制は、上級の武家にあってはかなりの程度に進んでいたと見られるが、下級の武士階層にあってはどうだったのか、かならずしも確実なことは言えない。しかし、分割相続が進んでいれば、一族の領地が拡大されない限り、いわば全般的な下降傾向が現れることは避けられない。だがまた、単独相続が実施されていれば、長子を除く弟たちは領地を失って家臣化しなければならないことになるが、そもそも嫡子の領地が狭いのであるから、サラリーを受け取ることも難しかったに違いない。

 ともかく、こうした変化がかなりの程度に進んだ段階で、応仁・文明の乱は起きたと見られる。この乱の根本原因は、有力守護大名の畠山家の相続をめぐる内紛であり、その内紛に山名宗全と細川勝元が介入し、さらにその他の大名がわれもわれもと加わり、彼らが西軍と東軍に分かれて京の地で争ったのが事の顛末であるらしい。京を舞台としているところから見て、彼らが求めたのが、地方における領地の拡大というよりも、京における政治的立場の強化であったと推測されるが、一方で最下層の「足軽」的な分子の利益が争乱に紛れて財物を横領することであったらしいというのも、鎌倉時代から室町時代への変化を感じさせる。

 だが、畠山の内紛は乱の勃発から20年間も続くが、京における争乱の方は3年ほどで収まってきたという。一つには、参戦していた大名たちの厭戦気分が拡大したからともいう。また一つには、京における戦争どころではなく、自分たちの地元(分国)が揺らぎはじめていたという事実もあったらしい。事実、土一揆がおき始め、またこの後、山城や越前・加賀・越中では一向一揆がおきてくることになる。

 ところで、ここに述べた相続制度の分割から単独への変化から判断すると、少なくとも武家の間では、人口の増加を抑制しなければならないといった要因が作用していたことが推測される。実際、平安時代末期から鎌倉時代の初期には、とりわけ有力な武将が驚くほど多数の子女をもうけていたのに対して、室町時代になると、彼らの子女の数はかなり抑制されているという印象を受ける。これについては、きちんとした統計的検証をしているわけではないので、一種の推測史の領域を出ないが、畠山氏にせよ、上杉氏にせよ、内紛が相続者のいないことを危惧して受け入れた養子と後で生まれた実子などの間で生じている事実からしても、誤りではないのではないかと思う。また細かい地域史を見ていても、室町時代に武士・兵の「成れの果て」とも見える人が、二郎左衛門尉や三郎右衛門尉などの偉そうな名を名乗りながら草分的に村落に入り込んでくる例が見られるが、もしかすると武士・兵の変質した姿なのではないかと思う。(ただし、実証したわけではない。)

 とはいえ、武士・兵については、そうだったとしても、村落内部の庶民(百姓、農夫)については、事情はまったく異なっていたことが明らかなようである。というのは、むしろ応仁・文明の乱が終わり、世が戦国時代に入ろうとする頃から、一種の人口爆発ともいえるような状態が現れるからである。実際、その頃、1000万人ほどであったと推定されている日本の総人口は、1750年頃には3000万人に達している。つまり、300年間に3倍ほどに増えたことになる。そして、この間の人口増加率(年率)も、3パーミルからほぼ10パーミルの高水準に達していた。たしかにこれは、明治時代に始まる近代の人口爆発の範囲と規模には達していないが、それまでの歴史の中では最も高い水準の増加であったと見られる。

 では、こうした変化はどうして可能となったのであろうか? 一言をもってすれば、いわば、それまでの外延的な発展ではなく、内包的な発展への大転換が戦国時代から江戸時代の初期にあったことは、否定するべくもない。その証拠は、とりわけ江戸時代初期については明確であり、また類推的に戦国時代から始まっていたと考えるのが合理的であろう。

 一例をあげると、越後国の頚城平野では、上杉時代に作成された図面があるが、この地図では、関川(荒川)流域の氾濫原、すなわち沖積平野はすでに開墾されはじめていた証拠(新村の存在)があるとはいえ、まだその地の多くは未開墾の湿地帯として存続していた。しかし、そうした土地の多くが江戸時代に開墾され、「新田」の名前を付されている。もちろん、それらの土地の排水がなされ、灌漑設備が構築されるという意味で開墾されたことは、史料上も確認される。平安時代にはまだ手付かずだった氾濫原・湿地帯・沖積平野が根本的に開発対象となったのは、おそらくこの頃だったのではないかと、推定される。

 しかし、日本は次の点でもヨーロッパの例を追うことになったように見える。すなわち、ドイツ(神聖ローマ帝国領)(ここでは天水農業による麦作が主流であることに注意)では、13世紀頃から「東方植民」なるものが行われ、東方のリトアニア大公国の領域のすぐ近くまでも開墾するが、結局、外延的拡大がやがて終了したとき、農夫のフーフェ(33モルゲンの耕地)を分割するのか、それとも長子相続制を維持し、農夫と小屋住・下僕階層への分化を導く道を選ぶのか、の岐路に立たされ、結局、後者の道を選択するのであるが、この点は日本でも同様であった。

 日本のケースでは、結局、1680年の「分地制限令」によって、農夫(百姓)の土地分割は制限されるに至るが、この後の時期から明治時代に至るまでずっと、日本の人口は3000万人の水準に停滞することになるのである。これは、次のような人口政策が農民自身の中で実施されたことを意味する。すなわち、各農家は、平均して4人ほどの子を持つが、そのうち2人は夭逝した。残されて結婚に至る人数は2人ほどであるが、これは長期にわたって人口を維持するほどの水準である。

 ちなみに、こうした家族像は、時代を遡れば遡るほど、家族は大家族となるという「常識」には反している。実際には、宗門改帳などからうかがえる農民家族の成員数は、平均して4人強に過ぎない。私も1830年代の自分の郷里の宗門改帳を読み、私の祖先の名前を見出すことができたが、実に寂しい感じを受けるものであった。そこに記されていたのは、夫婦と3人の幼い子供(男女)の名前だけであった。多くの家では、これに年老いた祖母が加わっていたかもしれない。またこれは平均であり、それより小さい家族もあれば、大きい家族もあったが、それにしても、大勢がわいわいがやがやと話をしているという大家族イメージとかけ離れていることはいうまでもないだろう。

 話が少し飛びすぎてしまったかもしれないが、ともかく、ここでもふたたび確認できるのは、家族の類型、在り方は、そこで生きている人々をとりまく環境・条件と密接に関係していたという事実であり、したがってまた歴史的に変化してきたという事実である。歴史の出発点に自由な小家族があり、したがって近代ヨーロッパ(あるいはイングランドやフランス)の家族が小家族であるのは、ヨーロッパが歴史の(あるいは農業史の)浅い国であるからに他ならないというのは、あまりに単純化した味方であるといわざるを得ないであろう。