蘇我氏の史実 系譜・出自・本拠地  奈良盆地南部の同族の諸氏? | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 古代史家の中には、9世紀に成立した『新撰姓氏録』などに依拠して、諸氏の系図を考察する者も多い。しかし、そこに記載されている系譜を100%信じることができないことは言うまでもない。そこには、後世になってから諸氏が系図を化冒して作成した偽系図が多く含まれていると考えられるからである。今調べている「蘇我氏」についても、蘇我満智からさらに遡って石川宿禰に、さらに武内宿禰に、またさらに孝元天皇にまで遡る系譜が存在する。しかし、武内宿禰についてもだが、欠史八代の一人である孝元天皇については、その実在が疑われており、それらの人物に子孫由来する同族とされているものが、史実として同族であるとは到底考えられない。例えば黛弘道編『蘇我氏と古代国家』(2012年)掲載の一論文には、実に32もの臣・首・朝臣などの「同族」が紹介されているが、そのほとんどは後世に同族として架上されたものであろう。

 とはいえ、例えば和田萃氏の「紀路と曽我川--武内宿禰後裔同族系譜の成立基盤--」(『古代の地方史』3)のように、<これらの諸氏が同族とされるに到ったのか、その経緯・理由・事情を明らかにしようとするような研究は、まったく別である。

 とりわけ蘇我氏と同族とされる諸氏が蘇我氏と何時、どのような関係にあり、同族とされるに到ったのか、その事情を探っている論文は、私にとっても興味を引く。

 もともと畝傍山の西北、曽我川の流域を拠点としていたらしい蘇我氏は、ある時期になぜ飛鳥に拠点を移し、そこでも軽の地から島ノ庄に、あるいは檜前に拠点を拡大していったのか?

 この問いに対する和田萃氏の所論を端的に結論部分から言えば、対外関係活動、とりわけ朝鮮半島との交通・交渉を行うために奈良盆地から紀路に通じる経路を確保するためであったということになろう。奈良盆地と瀬戸内海とを結ぶ道としては、この外に大和川を通じて河内湾に通じる経路があり、また掖上から竹之内街道を通じて和泉に通じる道があったことが知られているが、和田氏は、奈良盆地ー紀道もまた5世紀末から6世紀にかけて大きい役割を演じていた。そこで、きわめて重要になったのが、掖上、波多、檜前、巨勢、宇智の諸氏である。

 ・巨勢氏。

 巨勢氏は、朝鮮問題に関与することにより6世紀以降に台頭した新興勢力と思われる。その首長墓は、権現堂古墳や新宮山古墳と見られ、その規模から大きい勢力であったことが理解される。日本書紀には、男人(継体紀)、臣稲持(欽明紀)、巨勢臣(名前欠如)、臣猿(崇峻紀)の名前が載せられている。

 ・波多氏

 波多氏に関する史料は少ないが、推古紀に征新羅軍の副将軍・波多臣広庭の名が登場する。6世紀前半に築造されたとみられる大規模古墳として高取町の墓山古墳。市尾宮塚古墳があり、波多氏の首長層の墓と考えられる。日本書紀にはあまり記載されていないが、古墳の規模から見ると、巨勢氏を凌ぐ勢力を有していたと想定される。

 ・蘇我氏

 5世紀後半~6世紀前半に軽地方を本拠地としいており、その首長層の奥津城が新沢古墳群と考えられる。軽の東一帯に広がる小墾田のあたりは、田中臣・小墾田臣・桜井臣・田口臣などの蘇我氏の同族とされる諸氏の居住地である。これらの地は、東漢氏系の渡来人集団の居住地として知られる檜前の近隣であり、対外関係に従事していた蘇我氏との密接な関係が考えられる。

 その他の蘇我氏に関係する土地としては、石川・槻曲(馬子)、蝦夷=豊浦大臣、甘樫丘(豊浦山)・畝傍山の東があり、6世紀後半になると島ノ庄にまで蘇我氏の勢力が広がっていたことが知られている。石舞台古墳は馬子あたりの墓と見られている。こうした古墳には大陸的色彩の濃い副葬品が納められており、蘇我氏が朝鮮半島「経営」に関与していたことを確かに示している。

 ・久米氏

 この外に久米臣も曽我氏の同族とされていたらしいが、史料からはあまりはっきりしない。

 ・葛城氏

 蘇我氏の本拠地の中心は掖上を中心とした地と思われる。その首長層の奥津城は御所市の宮山古墳(4世紀末)であろう。しかし、よく知られているように、5世紀中に葛城氏は衰退したと考えられている。6世紀になると、蘇我蝦夷が推古に蘇我氏の祖先の地である葛城の地を求めたが、断られたという伝承が日本書紀にあり、蘇我氏が葛城にも進出していた(同族と自称していた)根拠とされているが、考えて見ると、葛城の土地を本拠地とする家が葛城の地を求めるというのは奇妙な話しではないかと私は思う。ともあれ、あまりはっきりしないが、蘇我氏が葛城を祖先の地と(つまり同族と)言い始めたのは、蘇我氏の勢力が強化されたのちの政治的意図からの主張であろうか?

 

 以上が和田萃氏の論文の要点を私が抜き出し、要約したものであるが、ここにも示されているように、蘇我氏が畝傍山の西北辺から飛鳥に勢力を拡大した背景には、朝鮮半島「経営」(政策)に積極的に関与した蘇我氏の志向のしからしむところであったことが明確に示されているように思われる。

 だが、ここでも、同族とは何か? という問いを投げかけてみたい。もしそれが政治的動機から出た創作・偽造・化冒でないならば、同族になるとはいったいどのような事象だったのだろうか? 日本史の実例、または世界の諸地域の実例に照らして見るならば、いくつかの方法が考えられる。その一つは、妻方(母方)を通じた姻戚関係の構築を通じてである。これは双系制の社会ではよく起こる事象であり、一定の地域内で内婚が行われると、その地域が相互に遠近の親族関係で結ばれた氏族や部族のような概観を呈することがある。これは文化人類外では「双系的内婚ディーム」(bilateral endogamical deem)と呼ばれる。またそこでまで行かなくても、武士の場合によくあったように、貴種の血を受けた娘の子がその貴種の姓を受け継ぐこともある。蘇我氏が蘇我川流域の雲梯の地から飛鳥の地に勢力を拡大したとき、このような女系の氏族との関係を前提とすれば、すんなりと理解できることは間違いないであろう(これが書紀に明記されているわけでは決してなく、日本書紀に書かれている母親の居住地<これは終局的には父親の居所に移るが、一時的訪婚中には母の居所の可能性が高い)に関する記事からはっきりと証明できるわけでもないが、子の居住地が父親の居住地と異なる理由を示すかもしれない。また子の幼名もその手がかりとなる。)

 もう一つの方法は、一つの食卓で「共食共飲」することが世帯・家族共同体の仲間になることを意味することがある。ヨーロッパ中世では、共食共飲する(stare ad unum panem et vinum)仲間たちが 世帯=合名会社(societas, familia)を構成し、第三者に対して共同責任を負うことが法の条項に規定されているが、このような慣習の痕跡は日本書紀にも記されているようである。しかし、多くの場合、これは大王(天皇)に対する諸氏の従属的な関係(「食膳奉仕」)に代わってしまっているようであるが、本来的には対等な立場でなされた時代があることを主張する人もいる。

 いずれにせよ、上から下へと父系的に縦に繋がる系図(つい、これを当然のことと考えてしまう!)では、決して史実に到達することはできないのではなかろうか?