弥生時代から古墳時代にかけての時期における日本(倭国)の歴史というと、稲作とそれに関連する産業技術が大陸と朝鮮半島から伝わってきただけに、西日本、とりわけ北部九州に焦点が置かれる傾向がある。特に従来の年代感では、弥生時代が始まったのは、紀元前400年頃からであり、それ以降、前期に西日本に稲作が普及し、東日本の本格的な開墾が始まるのは中期、つまり紀元前後の時期以降とされていただけに、東日本はいわば後進地域とみられたため、いたしかたない面もある。
しかし、現在、弥生時代の開始は、紀元前1000年頃、今から数えて3千年ほど前に求められ、稲作も相対的にゆっくりと日本列島に広まり、東日本に稲作が広まった時期も紀元前400年よりかなり前に設定されるようになった。こうした年代設定の変更がもたらした影響はかなり大きいように思われる。例えば従来は、稲作文化が最初に入った北部九州が先進地域であり、残余の地域は後進地域であると見られていたために、邪馬台国北部九州説がある種の説得力を持っていたように見えるが、その説得力をゆるがす一つの要因となっている。
東アジアの地図を見ればわかるように、「魏志倭人伝」は、朝鮮半島とその北辺に居住する諸種族について、彼らの土地がかなり広大であることをはっきりと示している。ところが、倭国の記述に到るや、突如として、はなはだ狭い領域(おそらく馬韓弁韓辰韓の一つにも及ばず、100km×数十kmにおさまるであろう面積)の記述になるというのは、なんとも違和感を感じさせるに充分である。しかも、著者の陳寿は、倭国の地が朝鮮半島と比べても、かなり広大な土地にあったと明言しているのである。もとより、陳寿が邪馬台国所在地の方位については、それをはるか南方、中国の会稽・東冶の東方海上に想定していたことは言うまでもない。そして、それがもう一つの邪馬台国九州説の根拠となっていたわけである。だが、よく考えれば明かなように、北部九州説が産業技術上の先進性を根拠としていたのに対して、「方位」を根拠とする九州説の方は、その先進性仮説の無視(あるいは反対物)の上に成立するのである。この矛盾を解消するための方法として、南方のはるかに離れた土地に設定することを避けるために「放射線式」の読み方や「短里」説などが出されたが、それらが問題の解決に結びついたとは思えない。その矛盾を解消することが出来たときには、今度は倭国が上記のようにごく狭い領域に閉じ込められることになってしまうのである。
いずれにせよ邪馬台国が北部九州にあろうが、近畿(大和国)にあろうが、考古学研究が明らかにしてきた事実、日本列島の現実の姿は変わらない。その事実とは、北部九州から瀬戸内海を通り近畿に到る交易路が存在したこと、沖積平野を後背地に持つクニグニがあり、そこには交易のための港(津)が置かれており、それらのクニグニは交易によって相互に結びつけられていたこと、また何よりも人口の面から見ると、日本列島の中心地は、すでに当該時期には、若狭・近江・尾張・伊勢あたりを結ぶ線上あたりにあったことである。
この最後の点について、もう少し詳しく説明すると、当時の日本列島(北海道と沖縄を除く)の全人口は60万人ほどと推測されているが、その半分は上記の若狭~伊勢線より西側(西日本と呼ぶ)にあったが、もう半分は東側(東日本と呼ぶ)にあったのである。ちなみに、北部九州の人口は、全人口の15分の1(4万人)ほどであったと推計されている。
言うまでもなく人口はどこでも均等に分布していたのではなく、西日本では、近畿と近畿周辺(11万人)、山陽(4.9万人)であり、東日本では、東山(8.5万人)、東山(5.9万人)、関東(9.9万人)などとなっている。これらの多くの人口を扶養する地域には、河川に沿った沖積平野があり、広大な土地の開墾が行われていたことは言うまでもない。ただし、それらの沖積地においても、河川の氾濫原が開墾されたのは、もっと後の時代のことであり、当時は谷や沢に近い扇状地や河岸段丘が主に開墾されていただろうことは容易に推測されるところである。だが、それにしても、東日本の東山や東海、関東地方が当時すでに多数の人口を抱えていたのは、きわめて広大な沖積平野(濃尾平野や関東平野)の存在という地理的な条件があったからに他ならない。
経済学では、需要の観念がきわめて重要である。問題となっている時代には、開墾のために鉄材の需要が日本列島全体できわめて大きいものになっていたと考えられる。素材の鉄は、湿地を開墾のための用具を生産するためにも、また農耕のための農具を生産するためにも、さらに交易のための船を製作するためにも必要であった。そのために、とりわけ広大な沖積地をかかえていた東日本における鉄需要にはきわめて大きいものがあったことは間違いない。しかし、需要が現実のものとなるには、2つの条件が必要となる。その一つは、技術的に供給可能なものでなければならないことである。しかし、当時の倭国は、いまだ製鉄の技術を持っていなかったようである。したがって鉄素材は朝鮮半島からの輸入に頼るしかなかった。しかし、需要が現実のものとなるには、つまり「有効需要」(effective demand)となるためには、現在ならば支払可能な外貨がなければならず、またそのために別の交換財を輸出できなければならない。当時の経済では国際通貨はなかったであろうが、鉄を得るための何らかの交換財は必要であった。それが何であったかは、必ずしも考古学によって明らかにされているわけではないが、第一次産品(primary goods)であったことは疑いない。具体的にはそれは、翡翠(ヒスイ)や真珠、朱などの鉱物、各種の海産物、農作物、木(造船用材)であったであろう。一昔前の開発途上国が「先進工業国」に第一次産品を輸出しては、工業製品を輸入していたように、倭人も第一次産品を輸出し、工業製品(とりわけ鉄素材)を輸入していたはずである。
したがって朝鮮半島からハブ港の北部九州を経て、瀬戸内海を通り、近畿にまで達していた交易路がそこで終わっていたと考えることはできない。人口規模から見れば、東日本には、西日本と同じ量の需要があったわけであり、もし鉄素材を得るための対価物を供給することができたならば、潜在的には西日本と同じ量の「有効需要」が生まれたと考えることができる。
実際、そうした交易路が東日本に延びていたことを示す考古学的な証拠は存在している。その一つは、土器の移動に関するものであり、それにもとづく交易路の推定がなされている。(交流の様相については、『ゆくもの くるもの ー 北関東の後期弥生文化』、『人が動く・土器も動く 古墳が成立する頃の土器の交流』などからうかがうことができる。)
これらの資料にもとづく想定(下図)によれば、近畿(難波~大和)から東方に向かって伊勢湾・東海への交易路があり、また東海から先についても、そこから天竜川をさかのぼり信州(松本平、長野=善光寺平)に伸びる線があり、東海道を通り、甲斐の国へ伸びる道や、相模・上総から武蔵・毛野に向かう線があったことも想定される。
この東日本の交易路については、そのハブ的な始発点が伊勢湾沿岸部の東海地域にあったことが注目される。もし邪馬台国が大和であるとすれば、この地は「狗奴国」にあたるという説があり、そのような気もすれば、違うような気もするが、ともかく、東日本では、伊勢湾沿岸から東海道にそう交易港(津)と、そのいくつかの地点から内陸(信濃、甲斐、毛野)に向かう幹線路があったことは疑いないであろう。ちなみに、信濃国の安曇郡は、西日本の海人・安曇族が越後・頸城郡を経由して移住・定着した土地ではなく、伊勢湾岸の海人(海部郡または渥美郡)の定着・開墾した土地かもしれないとも思う。しかし、土器の移動から見ると、日本海沿岸から越後・頸城郡を経て信濃に向かう経路(交易路であり、海人の移動経路)もなかったわけではない。
昨年、久しぶりに名古屋を訪れ、清洲にある弥生遺跡を見学したが、そのとき案内嬢が遺跡から翡翠の勾玉が発掘されていたことを教えてくれた。この翡翠がどのような経路出運ばれてきたのかわからないが、考えられるのは、日本海沿岸を通り、若狭から近江を経て、尾張に運ばれたか、さもなけば信州を通り天竜川に沿って南下し、尾張まで運ばれたものであろう。翡翠は鉄を得るための貴重な交換財であったはずだが、土地の有力者が手元に残したものもあったに違いない。
それはさて、魏志によれば、邪馬台国の女王と狗奴国の男王(卑呼弥己素)は、和せずして紛争状態に陥ったというが、どのような問題があったのだろうか? おそらく単に隣合っていたから領土めぐって紛争が生じたといったものではなく、交易をめぐって問題が生じたのではないかというのが、私の、必ずしも証拠のない意見であるが、そもそも交易には利害の共有と対立、そして妥協とが付きものである。相互に無関係ならば、対立も生じることはないだろう、というのが私の意見であるが、どうだろうか?