1980年代には、私はまだ学生だったが、当時は、アジアにおける稲作の起源地が中国の西部からインド東部にかけての雲南・アッサムにあったという説(京都大学の渡部忠世氏)が非常に有力であった。この説に従えば、稲作はここから東アジア東部に広がり、さらに弥生時代に日本列島に渡ってきたということになる。
しかし、1990年代における稲作に関する様々な領域の科学的研究によって、東アジア稲作全般に関する研究の結果は急速に進展し、稲作起源地に関する説も様変わりした。稲作の起源地は、雲南・アッサムから長江(揚子江)の中下流域に移され、その開始時も今から数千年前のこととされた。
その詳細は、佐藤洋一郎氏をはじめとする多くの研究者の著作の中で説明されているので、ここでは繰り返さないが、世界で最も早く稲作が始まった中国・長江の中下流域では、すでに7000年ほど前(BC5000年頃)に稲作が行われていたことが分かっている。例えば長江の下流域では、浙江省の河姆渡遺跡と羅家角遺跡が7000年前の遺跡として知られており、中流域では湖南省西部の彭頭山遺跡(9000年前の籾圧痕のついた土器)と城頭山遺跡(6500年前の多量の炭化米)が知られている。また1万年以上前にさかのぼるコメを出土した遺跡も存在する。
*佐藤洋一郎「DNAから見たイネの道」『日本人 はるかな旅 4 イネ、知られざる1万年の旅』日本放送出版協会、2001年)。
しかし、長江流域で今から7000年以上も前に始まっていた稲作であるが、日本列島への移動はずっと後のことになる。通説的には日本列島では弥生時代に水田稲作が始まり、急速に普及したと考えられており、かつ弥生時代の開始は紀元前3世紀とされてきた。中国に遅れること7000年以上である。
ところが、最近では、イネに関する考古学研究やDNA研究の進展により、日本列島における稲作の開始はもっと早い時期に求められるようになってきている。とりわけ注目されるのは、炭素同位体を利用した年代測定により、紀元前10世紀までには、つまりこれまで縄文時代とされていた時期にイネ・コメが日本列島に存在していたことが知られるようになったことである。
ただし、縄文時代の胎土から検出されたイネのプラント・オパールは、多くが畑作系の熱帯ジャポニカであり、水田稲作によるものではない。しかも、火山灰土壌におおわれている日本では、リン酸が不足しており、作物栽培に不向きな酸性土壌のために、イネの畑作には不向きであったようである。
*藤原宏志『稲作の起源を探る』、岩波書店、1998年。
したがって水田稲作に限れば、日本列島に稲作が導入されたのは、早くても紀元前10世紀頃であり、水田稲作が本格化し、人口が急速に増加するのはやはり従来弥生時代の開始期とされてきた紀元前3~4世紀の頃と見てよいのかもしれない。
この当時の日本列島の自然と社会はどのような状態にあり、また日本の周囲の地域(朝鮮半島、中国)はどのような状態にあったのだろうか?
本ブログでも前に書いたように、縄文時代晩期の日本列島では、人口の大半(85パーセント以上)は東日本に集中しており、西日本はいわば人口の過疎地だった。小山修三氏の人口推計では、縄文晩期の人口が東日本の65,000人ほどだったのに対して、西日本では11,000人ほどにすぎなかったとされている。人口11,000人といえば、今日の過疎の一町一村の規模にすぎない。
こうした東高西低の人口配置は、植生・生態系と密接に関係しており、東日本が暖温帯落葉広葉樹林帯だったのに対して、西日本が照葉樹林帯であり、それぞれの生態系がもたらす食料の多少に対応するものであったと考えられる。
この照葉樹林帯は、東アジアにおける稲作起源地と見られる長江中下流域から朝鮮半島南部を通って西南日本に連なる同じ生態系をなしている。それは黄海や日本海のためにとぎれているとはいえ、より北方の冷帯冬期温暖気候帯、すなわち粟や稗、麦などの雑穀文化圏と対照的な地域に属している。
ここで大きい疑問が生じてくる。それはイネ・コメ、稲作の科学的研究や、人間のDNA解析などによって、今から3000年以降に中国江南地方から日本に人々が水田稲作をともなっって移動してきたことがほぼ100%確実なものと証明されるならば、それ以外の様々な事物にも、その痕跡が残されていないだろうかという素朴な疑問である。
調べて見ると、こんにちの時点では、江南地方から日本列島への水田稲作・人間の移動経路としては、次の2つが有力となっているようである。
1)江南⇒山東半島⇒遼東半島⇒朝鮮半島⇒日本列島
2)江南⇒日本列島
このうち、初期の水田稲作の遺跡が北部九州に集中していることから考えると、1)の経路が有力のように思われる。「痕跡」を追い求める場合にも、ひとまずこの経路をたどって人々がやって来たと考えるのが順当というものだろう。ただし、2)を排除するわけではない。
さて、これまでもそうだが、以下に述べることのほとんどは、専門書や啓発的な書物から学んだ事柄にすぎない。しかし、世の中には「トンデモ本」と言ってもよいものがある。特に古代史の場合には、史料がきわめて少ないために、推測が大きい役割を果たすことになり、そのため十分な根拠なしに断定されることがしばしばある。
そこで以下では気になるいくつかの事柄に触れるが、それらのうちいくつかは、あくまでも、そういうこともありうるかもしれないという程度のことにすぎない。
☆江南地方は、漢人からみて東夷の地域・国だった。
稲作の起源地とみられる江南地方は、紀元前8世紀から紀元前3世紀の頃、つまり春秋戦国時代には、斉、呉、越、楚などの国の領域であったが、当時、中原にいた人々からみて、東夷の国であった。これは『春秋左氏伝』、『戦国策』、『史記』、『楚辞』などの記述が示す通りである。よく知られているように、東夷というのは、中原を統治するようになった中華(中夏)の人々からみて、文明の及んでいない野蛮な人々というほどの意味であり、周辺の東夷、北狄、西戎、南蛮の一つである。
しかし、中国を統治する漢人と周辺の文明の及ばない人々という図式は、過去3000年に及ぶアジア史の中で、東アジア人の頭の中にすり込まれており、そこから抜け出すのはなかなか容易ではない。
さて、そもそも夏、殷(商)、周をはじめ「漢人」と看做されるようになった人々自身が古くさかのぼれば夷狄戎蛮の民であったことは、普通の常識ではないかもしれないが、今日の歴史学では常識となっている。
黄河中流域の中原には、古代から北方、西方、東方、南方から様々な民族が流入しては、戦乱が繰り返されてきた。岡田英弘氏(『中国文明の歴史』、講談社現代新書、2004年)によれば、夏は「(東)夷」の王朝であり、殷(商)は「(北)狄」の王朝であり、周・秦は「(西)戎」の王朝であったという。
このように中原に周辺から様々な種族が流入してきたことは、言語(漢語)の性格にも影響を与えている。私たちは高校で漢文を学んでいるので、よく知っているが、漢語(現代の中国語も同じ)の一つの特徴は、みごとなほど一切の語形変化をしないことである。外国語の中では、英語も語形変化のきわめて少ない言葉だが、漢語には足下にも及ばない。漢語では、名詞、形容詞、動詞、副詞などすべての品詞がまったく語頭・語尾を変化させない。動詞にいたっては、時制の変化もないため、動作の過去・現在・未来や完了・非完了を示すためには、時を示す語句(今日、明日、現在など)を挿入するしかない。
かつてドイツ人の著名な哲学者ヘーゲル(『歴史哲学』)は、このような中国語の特徴を言語史の、あるいは人類史の初期の、最も原始的な状態、段階をj反映すると考えた。しかし、現代の言語学者はまったく別の見解に達している。それによれば、漢語は「クレオール(creole)語」というカテゴリーに属する。すなわち、異なった言語(例えばタイ語とチベット語など)を話す種族がたまたまある事情で同じ場所で暮らすことになった場合、相互に意を伝えるために、語の変化を省略した便宜的な共通語を生み出す。それは最初の段階では、相互に意を伝えるために極度に単純化した人為的な共通語にすぎない。しかし、それを次世代の人々が母語として受け継ぐと、りっぱな言語(クレオール語)となる。漢語もこのクレオール語と考えれば、すっきりする。
漢語に触れたついでに、もう一つ述べておかなければならないのは、こうした生まれた漢語を話す人が「漢人」であるということである。つまり、漢人というのは、文化的な概念であり、決して民族的概念ではない。したがって漢語を話さない人(より正確には、漢語以外の言語を話す人)は、漢人ではなく、漢文明の恩恵に属さない人々(夷狄戎蛮)として位置づけられることになる。ただし、こうした概念に根本的な変化が生じたのは、欧米列強が東アジアに押し寄せてきた19世紀である。 現在の中国では、漢人とは漢民族と理解されているようである。(中国からの留学生はあきらかにそのように理解している。)
さて、江南と日本列島とのつながりの痕跡である。 簡単に列挙しておこう。
<楚の国>
春秋戦国時代に江南地方でもっとも勢力のあった国は「楚」であった。古い書=伝説では、楚の国は、徐とともに淮河(長江と黄河の中間地帯を流れる河)の流域から生まれ、そこから西方に広がり、江南の広い領域を支配するようになったという。楚は徐戎であり、荊蛮であり、淮夷であった。楚の王は、代々「熊」(yu) の文字を名前に加えていたが、これは楚人が「熊のトーテム」を奉じる種族だというこを示すようである。
楚は、戦国時代にしばしば呉や越と戦いを繰り広げたが、屈原の時代に、楚王が屈原の「合従策」に従わずに、西方の秦(戎)の軍事力の前にして敗戦を繰り返し、結局、紀元前220年代に秦によって滅ぼされてしまった。
このとき、秦の統一によって流民となった人々が山東半島を経由して朝鮮半島に向かい、さらに朝鮮半島を南下したのではないかと思わせる痕跡がある。それは「熊」の地名である。熊(漢語 yu)は扶余・高句麗語では、kom(コム)と発音されたらしいが、この熊字を含む地名が朝鮮半島の北部の漢江流域にかけて、また北から南の、かつての百済、伽耶の地に向かって分布している。
また熊に関係する伝説も残されている。
朝鮮半島における神話・伝説では、よく知られているが、朝鮮国の始祖とされている大開祖壇君は、洞穴で百日間修行した熊がかいあって人間の女性に変身し、桓雄なる者と結ばれて出来た子とされている。(これは朝鮮の古代史に関するどんな本にも書かれているほど有名な話しらしい。)
もちろん、熊をトーテムとする種族は、一つとは限らないから、これは決定的な証拠ではないだろうが、単なる偶然にしては出来すぎている気もする。
<周朝の先祖(后稷)の伝説>
后稷は周朝の先祖だが、殷の帝嚳につながっている。伝説では、帝嚳は、簡狄の娘(姜[女+原」)を妻としたが、天帝から玄鳥の卵を贈られ、呑んで子(契)を生んだとされている。 また別の話では、郊野で巨人の足跡をふんで妊娠し后稷を生む。これを不祥として狭い路上に捨てると牛羊が避けて通り、林中に捨てると木樵りがこれを救い、氷上に捨てておくと鳥が翼で暖めた。これが成長して周朝の先祖となる。
これと類似の話は、高句麗の始祖、朱蒙に関する伝説に記されている。
朱蒙の母は、河伯の娘であり、扶余王によって幽閉された。太陽が漢書を照らした。・・・その時、彼女は五升ほどの巨大な卵をはらみ懐妊した。扶余王は卵を犬に投げ与えたが、犬はそれを食べようとしない。今度は豚に豚にやったが、豚も食べようとしない。ついに路上に捨てたが、牛や馬もそれを避けて通った。禽獣のえさにと野原に投げ捨てると、鳥や獣たちが羽やはだでおおった。」最後に母に返すと、卵から朱蒙が誕生した。
両者はまったく同じストーリーではないが、鳥、卵生を思わせる構成など、朝鮮半島の伝説への中国の影響があるように思われ、きわめて注目される。
<呉>
呉は、周の文王の伯父、太伯とその弟の子孫が統治した国とされている。司馬遷の『史記』世家によれば、周の太王が末子(李歴)に跡を継がせたいことを知った太伯と弟が自ら呉(句呉)に行き、代々王となったとされている。
一方、『晋書』によれば、日本列島の倭人が自分たちを「呉の太伯之後」と称したとされているが、これは呉の出身であることを意味する言葉であろう。虚構として一笑に付すこともできるかもしれないが、何らかの歴史的記憶をとどめた言葉と見ることもできよう。
また司馬遼太郎氏が「江南の道」で述べたことが気になる。つまり、朝鮮半島の北部に紀元前に成立した高句麗のことであるが、日本では高麗と書き、コマと呼んでいた。しかし、中国の書(例えば魏書)では、句麗と書いており、これはkureなどと発音することができる。ところが、日本では「呉」をゴと音読みし、クレとも訓読みする。なぜ呉を「クレ」と言うのだろうか? このことをすっきり納得できるように説明した人はいない。
しかし、司馬遼太郎氏がそれとなく暗示したように、呉(クレ)と(高)句麗(クレ)とが何らかの歴史的な因縁で結びついており、それを古い時代の日本人が記憶にとどめていたとしたら、すべての謎は氷解する。
<斉、越>
斉は、山東半島とその周辺にあった国である。
『史記』では、呂尚(太公望、姓は姜氏)が斉に封じられたことを記し、太公望が斉に赴いたとき、夷の「莱侯」(莱夷、莱人の王)と戦い、治下に置いたと書いている。
越は、揚子江の南に展開した国であり、やはり東夷の地域であった。『史記』では、勾践が「文身断髪、披草莱而邑焉」と記されており、勾践が東夷の風俗(文身断髪)を受け入れ、集落を開いたとしている。
越は楚によって滅ぼされ、その楚は斉とともに秦によって滅ぼされたが、秦の専制的な統治を嫌った秦人自身が朝鮮半島に逃げてきたと史書に記されているくらいだから、楚、斉、呉、越の人々があるいは朝鮮半島へ、あるいは南方へと逃散したとしても何ら不思議ではない。
しかし、それ以上のことを見つけることはできなかった。
<婚姻の家族史・民族誌>
もう一つ、二つ指摘しておきたいことがある。
その一つは家族史・婚姻の民族誌にかかわることである。
かつて岡正雄氏は、日本民族生成論に関連して5つの「種族的文化複合」論を唱えたことがあった。
様々なサイトで紹介されているので、ここでは簡潔に済ますが、その中に、4として「男性的・年齢階梯制的・水稲栽培=漁労文化」とされているものがある。これは中国江南地方に由来するものとされている。
この岡正雄氏の種族的文化複合論は、日本の村落論・家族史・婚姻誌などにおいて高く評価されており、江守五夫氏も若干修正しながら、それを踏襲している。ただし、江守氏の修正は、5つの区分があまりにも細かすぎて、実際の実証研究にそぐわないとして、次の二区分で十分としている。
1)南方系 一時的訪婚+年齢階梯制+双系制の傾向+水稲栽培
2)北方系 嫁入婚+家父長制(ハラ氏族)+畑作狩猟
江守氏の理解では、このうち「南方系」(江南地方からインドシナに至る地域に由来)は、主に西日本を中心に分布しており、その特徴は、村落構成員が性別・年齢集団(若者、中年、老人)に別れており、村落内においる家の力が弱く、村落内婚制(endogamy)と父系制ではなく、双系制の傾向を示すことにあるとしている。この類型の村落では、婚姻時に嫁が父方の家に嫁入りするのではなく、夫が一時的に妻の家を訪問または滞在するとされている。
この類型が東日本にも存在しないわけではないが、西日本を中心としているとしていることは、弥生文化との関連の強さを示すようである。
江守氏は、最初、この類型が日本の古代の文献に出てくることから、嫁入婚に先行する婚姻形態だったと考えていたが、その後、考えを変え、むしろ両者が類型の相違によるところが多かったと見るに至っている。(『日本村落社会の構造』、『婚姻の民俗』を参照。)
もし岡氏や江守氏の考えのように、「南方型」が中国の江南地方や華南に由来するものなrば、江南地方やその経由地としての朝鮮半島にその痕跡が残されている可能性が認められることになるだろう。
この点で興味深いのは、森田勇造氏の『江南紀行』や『アジア稲作文化紀行』である。
また『魏志』高句麗伝にある次のような記述が注目される。これは江守氏の言う「一時的訪婚」といえないだろうか。
「その俗、婚姻を作すときは、言語已に定まらば、女家にて、小屋を大家の後ろに作り、壻屋と名づく。壻、暮れに女家の戸外に至り、自ら名のりて跪拝し、女の宿に就くことを得んことを乞う。是の如き者再三にして、女の父母乃ち聴して小屋の中に就きて宿らしむ。傍に銭帛を頼む。子を生みて已に長大なるに至らば、乃ち婦を将うて家に帰る。」