現在の糸魚川市、上越市、妙高市あたりの地は、律令制の時代には、頸城郡(久比岐郡)と呼ばれた。「岐」(ki、き)というのは、おそらく城柵のことであろう。「久比」(kufi、くひ)または「くび」(kubi)の意味は、不明だが、kufi 「土中に打ち込んだ棒」(岩波古語辞典)だろうか?
城柵といえば、古代(712年以後)に越後国と呼ばれた地域には、沼垂柵(現在の新潟市沼垂あたり)と磐船柵(現在の村上市、岩船神社あたり)に置かれており、前者は『日本書紀』の7世紀半ばの条に二度、後者は一度見えている。この他に高志の城柵として都岐沙羅柵も『日本書紀』に見えている。これらの高志の城柵は、東北地方に置かれた城柵に先立って置かれたもののようであるが、残念ながらその遺跡はいままでに発見されていない。しかし、それが西日本に生まれた政治勢力(一般的にはヤマト政権と呼ばれる政治勢力)の対蝦夷制圧・同化のための政治的・軍事的施設の性格を持っていたことは確かであろう。
もとより久比岐も沼垂柵や磐船柵と同じように、そのような城柵であり、それらに先だって置かれたものであるかは明らかではないが、私はその可能性が大きいと勝手に推測している。
*小林昌二『高市の城柵 謎の古代遺跡を探る』、高志書院、2005年を参照。
さて、頸城郡は、古代の越後国-ー正確には和銅5(712)年に確定した第三次越後国(現在の新潟県にほぼ対応する)--の中では、最も人口の多い地域であり、930年代に成立した『和名抄』では10郷を数えていることからすると、一郷あたり1000人として、1万人以上の人口を擁していたと考えられる。それらの人口は関川の流域をなす頸城平野の周辺部の微高地に集中していた。当時はまだこの沖積平野の中心部は関川の氾濫源か、さもなければ潟や湿地帯であり、水稲耕作の用地として開墾されておらず、山や丘陵に囲まれた沖積平野の周辺部の微高地が主に開墾されていた。これらの人口密集地域の近くには、5世紀~7世紀に多数の後期古墳(頸城東部古墳群、頸城西部古墳群)が築造されている。また律令制時代になるとそこから開墾がいっそう進み、条里制村落が成立している。
*『上越市史 通史編1 自然・原始・古代』参照。
頸城郡には、8世紀の初頭に越後国府が置かれたことが知られている。ただし、それが置かれたとされる正確な場所の候補地はいくつかあげられているが、現在まですべての研究者が合意する場所は特定されていない。たしかに上杉謙信のいた戦国時代には、府中が直江津・春日山にあったことは確かであるが、奈良時代・平安時代における位置は、長野県の野尻湖から旧直江津市の関川河口(水門)に到る間のどこかに置かれたと見られるが、はっきりしない。
しかし、その位置はともかく、それがヤマト朝廷の対蝦夷政策の「後方基地」の役割を果たしていたことは自体は、疑いないところであろう。沼垂柵や磐船柵が置かれたとき、信濃・越後の民が柵戸(屯田兵)として送られ、頸城郡の人々も移住したとされている。確かに磐船柵のあったとされる地域には、頸城郡と同じ地名や河川名が認められる。
*平野団三『越後と親鸞・恵信尼の足跡』参照。
ところで、このような動きは、弥生時代に始まっていた大きい人口移動や日本人の形成の動きの中で捉えない限り、その大きい歴史的な意義を理解することはできないだろう。
明治時代から本格的に始まった日本人の起源に関する科学的研究は、最近年の人間や家畜(犬など)のDNA解析の発展もあり、次のことをほぼ完全に明らかにしてきた。すなわち、今から約13000年前から3000年前(BC1000 )頃までの日本列島には、先住者として縄文人が狩猟・漁労採集により生活しながら暮らしていた。ところが、3000年前頃から北東アジア、朝鮮半島から稲作・金属器・無紋土器の政策技術をもった人々が主に九州北部を玄関口として渡来しはじめ、その動きは歴史時代の8世紀頃まで続いた。これらの渡来者は、先住者=縄文人と混合しながら、新しい「倭人」(縄文・渡来系総合)を生み出し、弥生文化を発展させてきた。こうした変化は九州北部の内部にとどまらず、一方では南九州に伝わると同時に、他方では瀬戸内海(中国、四国)を経て、畿内とその周辺(福井、滋賀、伊勢湾など)に達する。そして、そこでしばらく足踏みをしたのち、新しく形成されてきた倭人(渡来系弥生人および彼らと交わった西日本縄文人、その子孫)は、いよいよ先住者=縄文人の多く(おそらく90パーセントほど)が暮らしていた東日本に移動を開始する。その動きは、福井から北陸を経て新潟県に到るルート、滋賀から岐阜、長野、新潟、群馬、栃木に到る東山ルート、伊勢湾から静岡、南関東を経て北関東(群馬、栃木、茨城)に到るルートを通って行われ、中部や関東地方に達する。そして、さらに、この中部・関東に達した動きは、7~8世紀以降に、そこから東北地方に移ることになる。
最初に述べたように高志や越後国に城柵が置かれ、頸城郡から人々が北に向かって移動して行ったのは、こうした長期にわたる日本列島における人々の移動の中に位置づけなければ捉えなければならない出来事といってよいだろう。その際、結論的には、蝦夷とは縄文人とその子孫であり、7~8世紀に生じた動きとは、朝鮮半島からの渡来者と縄文人との混合から生まれた倭人=弥生人の東への移動、それに伴う蝦夷の軍事的制圧と同化であり、その意味で古代における日本列島人の形成の最後の局面であったと言うことが出来る。
この仮説については、この後、少しずつ説明してゆかなければならないが、最初にざっくりと書けば、以上のようなところであろう。
繰り返せば、いまから3000年前から生じたことは、(1)東北アジア、朝鮮半島からの稲作文化を持った人々の渡来、(2)西日本における渡来系と縄文人との混合による倭人(弥生系日本列島人)の初発的形成、さらに(3)東日本における渡来系弥生人や倭人と最後に残された蝦夷=縄文人の融合である。これが過去3000年前~1000年前に日本列島で生じたことである。
実は、こうした歴史は、新潟県の生んだ優れた小説家にして歴史家の坂口安吾がすでに戦後に独特の語り口で説いていたところだった。少し長いが、きわめて興味深い文章なので引用しておこう。(坂口安吾『安吾新日本地理』「高麗神社の祭の笛」より。)
日本の原住民はアイヌ人だのコロポックル人だのといろいろに云われておるが、貝塚時代【縄文時代】の住民はともかくとして、扶余族が北鮮【北朝鮮】まで南下して以来、つまり千六七百年ぐらい前から、朝鮮から自発的な、または族長に率いられた家族的な移住者は陸続としてつづき、彼らは貝塚人種【縄文人】と違って相当の文化を持っておったし、数的にも忽ち先住民を追い越す程度の優位を占めてい
つまり天皇家の祖神の最初の定着地点たるタカマガ原【高天原】が日本のどこに当るか。それを考える前に、すでにそれ以前に日本の各地に多くの扶余族だの新羅人だのの移住があったということ、及び当時はまだ日本という国の確立がなかったから彼らは日本人でもなければ扶余人でもなく、恐らく単に族長に統率された部落民として各地にテンデンバラバラに生活しておったことを考えておく必要がある。
(途中略)
高句麗と百済と新羅の勢力争いは、日本の中央政権の勢力争いにも関係があったろうと思われる。なぜなら、日本諸国の豪族は概ね朝鮮経由の人たちであったと目すべき根拠が多く、日本諸国の古墳の出土品等からそう考えられるのであるが、古墳の分布は全国的であり、それらに横のツナガリがあったであろう。そしてコマ系、クダラ系、シラギ系その他何系というように、日本に於ても政争があってフシギではない。むしろ、長らくかかる政争があって、やがて次第に統】的な中央政権の確立を見たものと思われる。
時の政府によって特に朝鮮の国と親しんだものや、朝鮮の戦争に日本から援軍を送った政府もあり、そこには民族的なツナガリがあったのかもしれない。コマ(コクリをさす。以下も同じ)の文物を最も多くとりいれたのは聖徳太子のころであるが、太子はさらに支那の文化を直接とりいれることに志をおいた。日本統一の機運とは、まさにこれであったと私は思う。何系何系の国内的の政争が各自の祖族やその文化にたよる限り国内の統一はのぞめない。これを統一する最短距離は、そのいずれの系統の氏族に対しても文化的に母体をなす最大強国の大文化にたよるにまさるものはない。太子の系統はコマの滅亡と共にあるいは亡びたかも知れないが、ともかく日本統一の機運を生み出した日本最初のまた最大の大政治家は聖徳太子であったと言えよう。支那の文物を直接とりいれる機運のたかまる
と共に日本の中央政府は次第に本格的に確立して、奈良平安朝のころに雑多の系統の民族を日本人として統一するに至った。こうして民族的・な雑多な系統は消滅したが、それは別の形で残ったものもある。それが何々ミコトや何々天皇、何々親王の子孫という系譜である。源氏や平家の系譜の背景にも相当の古代にさかのぼっての日本史の謎があるように黒われる。桓武、清和、宇多というような平安朝の天子を祖とすることまではハッキリしているが、その平安朝の天子に至るまでの大昔が悶題であり謎である。甚しい謎だ。
坂口安吾の偉さは、最初から日本人、日本民族が存在しており、それが大陸から文化を(文化だけを)受け入れたという静態的で非科学的な想定(皇国史観的発想)を根底的にくつがえし、日本人の成立をきちんと考えたところにある。
坂口安吾が以上の文章を書いてからすでに半世紀以上が経っている。日本人の起源・成立をめぐる学問的状況にも大いに変化があった。それらを紹介しながら、しかし、坂口安吾の議論がきわめて生産的であったことを、何回かに分けて示してゆきたいと思う。