上越地方の名所旧跡 1 春日山城と高田城 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

春日山城


 奈良平安時代に越後国の国府は、頚城郡のに置かれていました。その正確な位置はわかっていませんが、春日山城はその付近と考えられます。

 現在の地名では、上越市(旧直江津市)の居多および五智の比較的近くに春日山という小高い山があり、そこに春日山城址があります。山の中腹に謙信公を祭った春日山神社があり、山頂には本丸址があります。頂上からは旧直江津市街や海岸が見渡せ、絶景です。

 なお、春日山城のすぐ近くには林泉寺があり、宝物殿には上杉謙信ゆかりの品々が展示されています。謙信の墓所も同寺の一角にあります

 春日山城は、戦国武将の上杉家および長尾家のゆかりの城です。特に上杉謙信とその養子景勝が根拠地とした城として有名です。

 15世紀末、上杉家は越後国守に任じられ、また長尾家は越後の守護代に任じられました。当時、越後は越中守護代4氏からの侵攻をうけ、しばしば西浜で戦いを行いましたが、長尾氏や西浜の軍などがこれを防ぎ、上杉家と長尾家との間には波風が立つことなく静謐な状態だったといいます。ところが、永正3年(1506年)に一波乱が生じました。関東管領であり、越後守として屋形(御屋形様)だった上杉房能が足利将軍家から7州の太守となるべく申し出があり、房能が軍を率いて京に上ろうとすると、守護代の長尾為景が越中との戦いという非常事態を理由にこれを諌めます。これに対して房能は為景をなきものにしようとしますが、為景がこれを察知し、逆に国人衆と謀り、上杉房能を討ちます。直江氏、柿崎氏なども為景を支持したとされています。房能を撃ったのは為景軍とも一揆軍とも言いますが、いずれにせよ、房能は破れ、松之山郷天水村長森原で戦死したと伝えられています。その時、内紛に乗じて越中勢が侵攻してきましたが、為景は西浜に居住しながら越中勢を退けたとも、国府に居たともいわれています。

 しかし、房能の死を知った兄の上杉顕定が憤り、永正6年(1509年)に軍を率いて武州から越後に発向しました。房能と子の憲総が歩騎1万5千が為景を討つために越後にやってきたため、為景は市振(旧青海町)に退き、山間部で防御が容易な西浜で踏ん張り、時節をうかがうこととなりました。一方、顕定は兵を還し、府城にとどまっていました。翌永正7年(1510年)、為景はこっそりと佐渡に渡り、7千騎の味方を得ることに成功し、また娘婿高梨政賴と謀りました。彼らは府城の軍が空になったすきに軍船を出し、憲総・椎谷を攻撃しました。戦いは為景側の有利にすすみ、憲総は、妻有(魚沼郡か?)に逃走し、それを助けようと援軍を出した顕定が松ノ山村の長森原で死にました。ただ憲総は生き延びて関東に戻りました。

 結局、上杉房能、顕定を殺すことになった長尾為景ですが、自分の娘を上杉氏の嫡孫、上杉定実の妻とし、これを御屋形様として仕えましたが、定実は病身であり、為景が定美に代わって政治を行なったようです。

 為景は西浜に居み、戦ったとされていますが、その根拠地となった城が西浜のどこにあったのか、文献は何も伝えていません。早川谷に不動山城という城があり、山本寺氏の居城とされています。この山本寺氏は上杉謙信の家臣だったとされていますが、為景との関係はあまりよくなかったともいわれています。また旧名立町の日の入城には、越後平氏の流れを汲む城氏(後に青木姓に変わる)が居て、上杉家の家臣となったとされていますが、為景との関係はわかっていません。越後西端の界川から桑取川にかけては沢山の山城址がありますが、城主や築造期間などの伝わっていないものがほとんどです。


 さて、長尾為景には8人の男児がいて、末子が後の上杉謙信となる幼名猿松です(虎千代といった時期もありました)。将来の家督争いを避けるためという為景の配慮によって、猿松は栃尾(中越)のお寺に預けれられましたが、父親の為景が越中勢との戦いで戦死するなどという事件もあり、紆余曲折の末、後年、長尾家の家督を相続しようとする兄の晴景の攻撃を受けました。しかし、文武の才能に恵まれた謙信が勝利し、国府に軍を進める結果となりました。しかも謙信の意に反して晴景とその若い家臣は死に至ります。一方、謙信は病身だった定美から上杉家を継ぐように求められ、屋形となりました。

 この上杉謙信が越後にとどまらず、越中、信濃、会津、上野等にまで支配領域を拡大したことはよく知られています。その中心地が春日山城でした。ただし、NHK大河ドラマでもおなじみのように、上杉謙信は織田信長との戦いをひかえていたときに没しました。その後、豊臣秀吉が関白となったあとの慶長3年、謙信の養子(甥)の景勝が豊臣政権の5大老となり、景勝は155万石をもって会津に転封となりました。このとき、古族、旧家、古社、名刹なども一緒に移っていったようです。またそれと同時に頚城郡の古記録も移されたと考えられています。

 なお、徳川家康が将軍となると、対立関係にあった上杉家は山形県の米沢に転封を余儀なく、石高も大幅に減らされました。その後、結局、上杉家は越後頚城郡の武将というよりは、米沢藩の名君として位置づけられるようになったしだいです。

高田城


 春日山城には、慶長3年の後も、堀氏、溝口氏、村上氏が入部しています。しかし、慶長16年、高田城の建築をもって春日山城の歴史も幕を閉じます。

 江戸時代には当地が高田藩を中心とする頚城郡の政治と文化の中心地となってゆきます。

 高田藩と高田城をめぐっては様々な話(越後騒動、高田地震など)がありますが、その紹介はまた別の機会に譲ります。 

 現在、高田城といえば、見所は何といっても4月の観桜会です。私はといえば、今年、ちょうどその頃上越市に行ったのですが、春が遅く、花が咲くのも遅れたため、残念ながら桜花爛漫と咲く様子を見ることはできませんでした。

 


 なお、名所旧跡の紹介は、『越後名寄』、『越後頚城郡志稿案』、『改正越後頚城郡志稿』、『糸魚川市史』、『能生町史』、『上越市史』、その他観光パンフレットなどを用いていますが、学術書ではないので、いちいち出典をあげません。