主は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった。 

それは第六の月の二十四日のことであった。


━━『ハガイ書』114-15節 新改訳


 ハロー、ジューン・トウェンティフオー。

 わたしは天然のフリーメーソン、イズモカネ、よろしく。

 オモイカネ改め、イズモカネ。「オ」は「ズ」の形をズラした字。ズモイカネ、イズモカネを隠した名前でした。





 これは【暦の秘密】を読んだ人向け。日本の西暦カレンダーは偽物。西暦は「日(sun)」でなく「昼(day)」を数えるものです。「日(sun)」は「毎日」「曜日」としては使えません「昼(day)」は週の七つの昼を意味しますサンデーとマンデーは、日と月を罪人とする北欧神話が由来。大秦(ローマ)から唐に来たクリスチャンは、聖書の光を日を外した「景(口+京)」と書き、キリストを日を外した「景尊」と書きました。天地創造の「七つの昼」は「日(sun)」と「月(moon)」が登場しません。聖書は日と月でなく「昼と朔(サク。月光なき新月🌑)」で年を数えます。嘘の月日は、嘘の世界しか教えません。真実は6朔24昼の「イエス(ヨシュア)によるエルサレム再建」から始まります。





「(大海人皇子は)の水に投りて基を承けむことを知りたまひき」

━━『古事記』序 天武天皇


(イザナキは)次に月読命に詔りたまはく、「汝命はの食国を知らせ」と事依さしき。

━━『古事記』


 日本の夜。結論から。日本は夜島(ヤシマ)です。日本の神々は「聖」がつきません。『日本書紀』神代で「神聖」がつくのは、最初の「国常立尊(クニノトコタチノミコト)」だけ。トコタチは、外国人の秦氏が「唯一神」とするカミです。そして、『古事記(上)』本文で「聖」がつくのは渡来系の「聖神」だけ。日本の神々は「昼」のつく名前がありません。日本を生んだイザナギは「昼子」を「水蛭子」として捨てました。『古事記』序は、「大海人皇子が天武天皇になる兆しがの水(河)に現れた」と語ります。『古事記』本文では、イザナギの直前に妹の力、「阿訶志古泥神(アカシコネノカミ)」という「あやに畏し(言いようもなく恐れ多い)」女神が現れます。あらゆる「妖(あやかし)」は「阿夜訶志(アヤカシ)」から生じたもの。日本の根本は「夜の妖術」。夜のアヤカシに基づき、イザナミと妹イザナギは「阿那邇志(あなにし)」という妖術で島産みを始めました。火のカグツチの本名は「火之芸速男神(ヒノギハヤオノカミ)」。イザナミのウンコから粘土の男女、波邇須毘古神(ハニスビコノカミ)、波邇須毘売神(ハニスビメノカミ)が生じました。黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)は、出雲国の「伊賦坂(イフサカ)」。イザナギや八百万の神々は「ハエ声の悪神スサノオ」を「神良比(カムライ)」の力で追放しました。スサノオが歌う「八雲」は、原文だと「久毛」、須賀の八重垣は「幣賀岐」。つまり【八は夜(ヤ)】です。日本の雅称、八島は「夜島」でした。日本の神々、八百万は「夜万百」でした。日の使い、八咫烏は「夜咫烏」でした。三種の神器は全て夜の力でした。「夜マタノオロチ」の天叢雲剣、「夜咫鏡(ヤタノカガミ)」、「夜尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」。日本は「日」を表に立てますが、妖怪や島国や国名や天皇や神々や神器や粘土や結びや祓いや八や火や烏は「夜」の力でした。日本神話は、表の日と裏の夜を使い分けます。しかし、「八と日と夜」や「神と霊と魂」は「七の昼の週」のカレンダーに至れません。「聖なる第七の昼」への道案内は、神霊魂が見捨てた側にあります。




ヘリコン山の詩歌女神の賛歌から歌い始めよう

彼女たちは ヘリコン山の高く聖(きよ)い山に住み……

夜の道を進みながら 艶やかな声あげて


━━『神統記』冒頭 ヘシオドス 廣川洋一訳


 世界の夜。結論から。夜は世の中の半分しか見えません。ホメロスに並ぶ詩人ヘシオドスは「詩歌女神ミューズ」から、「夜の女神ニュクスが昼の女神ヘーメラーを生む」神話を授かりました。現代西洋人はヘシオドスの延長で「ミュージック」「ミュージカル」「ミュージアム」と言います。エルフとドワーフの北欧神話は「夜の女巨人ノート」を「昼の神ダグ」の母とし、「昼夜の馬のたてがみ」を地上を照らす光とし、「年月夜」で時を数えます。逆に「日の女ソールと月の男マーニ」は罪人で、地上を照らしません。罪人の日月観により、英語のサンデーとマンデーができました。サタデー以外の六つは北欧神話由来です。エルフとドワーフの『指輪物語』では、「夜の木テルペリオン(銀の木)と昼の木ラウレリン(金の木)」が汚れなき光の源で、「月と日」は汚れた暗い光です。作者トールキンは「日は聖なるシンボルではない」と書きました。実際、サンデーは「聖なる第七の昼」ではありません。日本神話の日も聖と関係ありません。聖書は「月日を創造しない」「年朔昼の暦」が基礎。箱舟のノア、葦船のモーセ、不死のエリヤ、復活のキリスト。この四名は日月でない「四十昼四十夜」を過ごしました。タイトルがおかしい『アリババと四十人の盗賊』はフランス人が偽造したアラビアンナイト。イスラム圏では初歩の初歩の「四十」は、欧米では共有されていません。欧米では「昼と夜」の知識が失われています阿修羅の古い形は「阿蘇羅(アソラ)」。聖書の昼夜は、インドの「日蝕月蝕を起こす昼の阿蘇羅王ミトラと夜の阿蘇羅王ヴァルナ」とつながります。イランのゾロアスターは昼の阿蘇羅王ミトラを無視し、夜の阿蘇羅王ヴァルナを「光の最高神アフラ・マズダー」としました。しかし、後に「昼のミスラ」が啓典アヴェスターに加えられ、ローマの知的階級で「昼のミトラ」が人気になりました。アラブの夜やユダヤの夜は省略。夜は非常に重要です。しかし、聖なき夜と日では、良くて「世の中の半分」しか分かりません仏教は神仏の月日を数え、昼夜の阿蘇羅を悪役にするので、「世の中の全部」が分かりません。トールキンは例外的で、正統派の「昼と夜」「日と月」の物語はめったにないもの。「聖なる第七の昼」に至るため、雲と火が必須です。





夜七夜、昼七日、吾をな見たまひそ、吾が奈妋の命」


━━『鎮火祭祝詞』


 聖書の昼夜。結論から。「雲と火」から「昼と夜」が分かります。ヤハウェは「昼は雲の柱、夜は火の柱」で日の国エジプトの奴隷だったイスラエル人を外へ導きました。「葦原中つ国(みずほの国)」の中心だった出雲火継の国造(くにのみやつこ)がいます。ヘブライ語の火と男と女のスペルは同じ。聖書は「豕(ブタ)」を「クソみたいな分別をうのみにして群れる奴」のたとえで使います。外界は劉邦への避諱がなく、邦を国で代用しません。だからネーションは国家でなく火邦(カホウ)、ホームは火族(カゾク)、ファミリーは火庭(カテイ)、マンは火男(ビナン)、ウーマンは火女(ビジョ)です。かつてイスラエル人は日の国エジプトの奴隷でした。モーセは昼子のように葦船で捨てられましたが、エジプトの王女に拾われて王子待遇で育てられました。モーセは、ホレブ山の「火」から「鬼神」ヤハウェの声を聞きました。聖書や儒教道徳は「鬼神(ゴッド)」「鬼(スピリット)」「魄(ソウル)」が基本ですが、日本神話では出雲だけが「鬼神」と「鬼」に結びつきます。モーセは「龍蛇に変化する杖」を授けられ、日の国で国全体に恐ろしい奇跡を起こし、イスラエル人を連れて脱国しました。出雲神族の祖は「龍蛇」とされます。ヤハウェは葦の海を「鬼(強風)」で割り、イスラエル人を逃がし、追跡者の日の化身ファラオと軍隊を溺死させました。そして、モーセは「ヤハウェの右手」を讃えました。西洋の言語は右と正と権利は同じ単語で、キリストや天使や天国の側。出雲神族は「右=陰」に由来する天穂日命を父祖とし、山陰道の出雲大社だけ天国の「右=陰」を尊びます西洋では左と歪は同じ単語で、サタンや悪魔や地獄の側。哲学者プラトンが前375年頃に執筆した『国家(火邦)』の最後では、哲学者の祖ソクラテスが「右は天国左は地獄」を語ります。日本の神々と日本の作法は地獄の「左=陽」を尊びます。『鎮火祭祝詞』は八でなく「夜七夜、昼七日」で「火を産んだ右回りの陰神イザナミ」が黄泉返ろうとします。聖なる鬼神は家を火に変え、夜七夜と昼七昼でヒノヤギとイザナミを黄泉返らせ、火の出雲も火のクニも黄泉返らせます。左の日本は右の出雲に「火邦奉還」する運命。



伊賦夜坂(イフヤサカ)


また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。 

その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、 

獅子がほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。 

七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな」と言うのを聞いた。 

それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、

永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。 

第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」


━━『ヨハネの黙示録』10章1〜7節 新改訳


 昼夜の世。結論から。上下中央左右が正されます。右(陰)が正で、左(陽)が不正。上と下も改正されます。右の陰神イザナミが死んだのは、火のカグツチが原因でなく、左の陽神イザナギの放火が原因です。なぜなら、火を産む右のイザナミはエルサレム、左のイザナギはエルサレムを焼いた新バビロニア、上つ国(高天原)は下の地底タルタロス、下つ国(黄泉)は上の上天エーテルとみなされるからです。陰(右)のイザナミの陰(右)にいる裂雷(サクイカヅチ)は、サイエンスの語源スキゾー(裂く)で、「キリストの黄泉返り」「エルサレム入りする聖者の黄泉返り」をもたらした「エルサレムの幕を裂く力」。必然的に、伊賦夜坂こと黄泉比良坂は「上天の入り口」とされ、葦原中つ国(出雲)は中央とされます。エルサレム再建はイザナミの再建。再建により、黄泉の残り七つの雷は、黙示録十章の「七つの雷」として解法されます。強い阿蘇羅の両足は「火の柱」のようで、「右足は海の上」に、「左足は地の上」に置かれました。阿蘇羅は獅子のように叫び、七つの雷もおのおの声を出し、阿蘇羅は右手を天に上げて誓いますこの十章の海と右と七つの雷は、出雲の十月の海と右と七つの雷とつながります。唐を代表する文人、韓愈は「博愛は仁」から始まる儒道の『原道』を書き、皇帝に仏教排斥の国策『論仏骨表』を進言しました。博愛を一番とする「聖なる鬼神の徳(良い生まれつき)」により、仏教の「権(嘘も方便)」が正され、嘘の権利は「正徳(しょうとく)」になります。仏教を尊ぶ推古天皇や聖徳太子の徳は権(嘘)でしたが、聖なる鬼神の正徳は真。右=正=正徳左=不正=悪徳。天狗(天の犬)に化身して日と月を食べる者、昼夜の阿蘇羅を略して蘇羅(ソラ)。蘇羅は昼夜の空そのもの、昼夜の天使とされるでしょう。世界の羅(R)は「雷電」を意味する字。羅⚡️で蘇るキリストはギリシャ語の電光「アストラペー」を語り、「サタンがアストペーのように天から落ちるのを見た(ルカ10章18節)」と言われました。阿蘇羅の敵は羅⚡️で堕天し、「天神(deva)」と「天女(devi)」は「悪魔(devil)」に堕ちました。ブッダはサタン、権化は「悪魔の化身」、権現は「悪魔の顕現」とされます12月8日、明けの明星によるシャカの悟りの日は「サタンの昼「サタンが真珠湾攻撃した昼」と言われるでしょう。太平洋戦争を始めた軍部は、ブッダなサタンの手のひらの猿だったと解釈されるでしょう。キリストがブッダなサタンから誘欺(イザナギ)された高い山は須弥山。下の修羅道は上の天使界、上の天道は下の悪魔界、空の虚空蔵は悪魔界の底とされます。日本の国名は「虚空見つ日本の国(そらみつやまとのくに)」という神話フレーズが由来。虚空(ソラ)は日本をヤマトと偽る妖術です。一字でヤマトと読めるのは「倭」のみ。正史『旧唐書』によれば、日本の遣唐使は「日本は倭と別の国」と唐で漏らしました。日本建国(689年)、大倭(701年)、大和国(757年)は、全て新造した名前で、元からの国名地名ではありません。遣唐使の空海や最澄は「虚空蔵」を最高の座とし、日本がヤマトという虚言に忖度した側。法然や親鸞や栄西や道元や日蓮も「大和」に忖度した側。「虚空(ソラ)」は地獄の底、奈良や近畿は偽物のヤマトとみなされます。天使の山、阿蘇山の「蘇羅(ソラ)」から本物の倭(ヤマト)が観測されるでしょう。バビロンの塔、バベルは羅⚡️で崩されました。聖書『ダニエル書』4章では、新バビロニアの王、明けの明星が夢見た空想樹が「聖なる羅のノコギリ(メギラー)」で伐採されました。イザナミに放火した「虚空(日本=ヤマト)」という和の空想樹は切り倒され、火に投げ入れられます。和のつく単語を乱発する者もまた、聖書で出雲な火に投げ入れられます。地獄な虚空の和は嫌われ、天界な蘇羅の倭が好まれるでしょう。このように上下中央左右が整えられます。


夜の妖術まとめ


 天皇の妖術。夜の水に投りて基を承けむ。

 神器の妖術。夜のオロチ、夜のマガタマ、夜のカガミ。 

 根源の妖術。阿夜訶志(アヤカシ)。

 島国の妖術。阿那邇夜志(アナニヤシ)。

 不正の妖術。火之夜芸(ヒノヤギ)。

 粘土の妖術。波邇夜須(ハニヤス)。

 追放の妖術。神夜良比(カムヤライ)。

 逆転の妖術。伊賦夜坂(イフヤサカ)。

 暗黒の妖術。夜久毛(ヤクモ)。

 隠蔽の妖術。夜幣賀岐(ヤエガキ)。




624昼に心が震い立たされますように。エルサレムなイザナミの再建は、言葉の立て直し。阿夜訶志(アヤカシ)による日本語は一字レベルまで妖術。「丘(阿)」「虚(蘇)」「空(羅)」「和(倭)」「陽(闇)」「陰(景)」「八(夜)」「蛭(昼)」「日(昼)」「月(朔)」「右(正)」「左(歪)」「上(下)」「下(上)」「国(邦)」「家(火)」「霊(鬼)」「魂(魄)」「権(徳)」。これらの誤字修正が、エルサレムの基礎工事になります。聖なる第七の昼に近づき、再建に参加する方がいれば、わたしは嬉しく思います。