1375回目:思索のない読書。思索のある読書。 | 毎日何かを見つけたい!転んでもタダでは起きない!◆40代ワーママ

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たくさんの考え方や価値観がある中で、みんなが自信を持って意見を言い合い、よりよいところを目指していく、、、そんな世界になったらいいなぁ。

職場やPTA、異なる価値観や考え方の中で日々感じたことを書いています。

今朝の日経新聞の「言葉のちから」で、

ドイツの哲学者ショーペンハウアーの
『読書について』という著作から

読書の罠と呼ぶべき現象が紹介されて
いました。

(以下抜粋)
本を読む我々は、他人の考えた過程を
反復的にたどるにすぎない。

習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの
線をペンでたどるようなものである。

だから読書の際には、ものを考える苦労は
ほとんどない。

自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、
ほっとした気持ちになるのも、
そのためである。

(ここまで)

本を読むとき、頭を使っている
ような気になっていました。

確かにぼーっと見ていられる
テレビやYouTubeなどの動画よりは
頭を使っているかもしれません。

まさにこれが読書の罠かもしれません。

このコーナーの執筆をされている
若松英輔さんは、次のように書いています。

(以下抜粋)
思索なき読書とは、情報や知識のための
読書であり、虚栄のためのそれでも
あるかもしれない。

(ここまで)

これにはガツンとやられました。

では、思索のある読書にするためには
どうすれば良いか。

『読書について』では、
「書く」ことを促しているそうです。

確かに書いている時には、
思索が発動している感覚があります。

そして、それは読書をしている時とは
異なるものだという実感もあります。

書こうとすると、自分の頭の中にある
あれこれを引っ張り出して、繋げたり、
離したり。

はたまた、なんとなくぼんやりしている
ところに、あれこれと言葉を当ててみて
その輪郭をはっきりさせようとしてみたり。

そんなことをしながら、すでにわかっていると
思っていたことへの理解(あくまでも
自分なりの、ですが)を深めたり、拡げたり
していきます。

ところが読書の場合、自分の思考を使うのは、
筆者の意見に反論するときくらいです。

と、ここでふと、自分が無意識に使った言葉に
「書く」と「読む」の差があるのかも
しれないと思いました。

読書の方では「思考」を使っています。

新明解類語辞典では「思考」と「思索」は
隣同士にありました。

それぞれ意味を書き出します。

思考=論理的・合理的に考えること。
思索=事象の意味や道理を深く考えること。

だそうです。

本を読むときに自分がしていたのは、
論理的、合理的に筆者の意見に対して
自分の意見を述べること(実際に声に
出すわけではありませんが)ですから、
思索ではありませんでした。

対して、こうして書いている文章は、
アウトプットのレベルはさておき、
思索だと言えるものではないか、と
いう気がします。

子どもの頃から読書が好きでしたし、
今もそれなりに読んではいますが

それらが思索のある読書だったかというと
怪しい……。

今日の新聞の記事では、話すことには
触れられていませんでしたが、

アウトプットということでは
書くことだけでなく話すことも
よいことであるのだろうと思います。

ただ、話をする場合は、熟考する時間が
なかったりしますので、その点では
書くことの方が思索は深まるのかも
しれません。

読みたい本が数冊たまっているのですが、
思索なき読書にならないように
取り組みたいと思います。



【今日のまとめ】

思索のある読書を。