物事が進まないとか
なんだか上手くいかない
というときに、
つい他責の言葉が
頭に浮かんでしまいます。
たとえば、
「なんで、何度連絡しても
返信がもらえないんだろう」とか
「なんであの人は全然
やろうとしないのだろう」とか、
「そもそもこれって
自分の仕事じゃない
と思うんだけど」とか。
何も意識しなければ、
この「なんで」とか「そもそも」
というのが
頭に浮かびがちです。
自責だ!当事者意識だ!と
思っていても
浮かんでしまいます。。。
そして、
「何度連絡しても返信がない」や
「あの人が全然やらない」
「自分の仕事ではない」
ということは
事実であったりもするので、
これらの「なんで」や
「そもそも」は
間違ったことではない
かもしれません。
でも、ずっとこういった思考に
とらわれていると、
結局物事が進まず、
そして「どうせ進まない」と
諦めてしまったりするのです。
そうなると、
また似たようなことが
起こった場合に、
前回の「学習」から
「どうせ進まない」と
早くから諦めてしまうかも
しれません。
そしてまた次の時にも、
前回強化された「学習」が
さらに加速度を増して、
いっそ始まる前から
諦めてしまうということに
なりかねません。
この負のループは
どこから始まったかというと
「なんで」や「そもそも」
という言葉からです。
確かに、
何度も連絡しているのに
返信してこない相手の方が
よくないし、
本来やるべき人が
やるべきなのですが、
それでも、外に向けられた
「なんで」や「そもそも」は
たとえそれが事実からの
単純な疑問であったとしても
自分で何とかしようと
していないということにおいて
結局、他責の姿勢なのです。
そう考えると、
次に頭に浮かぶのは
「自分はやろうとしたけど、
相手が動かない」
という言葉です。
これに対しては、
本当に可能な限りの
あらゆる手段を試したのか
というのが、
自分に向ける
質問なのですが、
ほぼ100%、
ここで「うっ」と詰まります。
そこで我に返って、
別の方法を考えることに
なるのです。
ここで、「うっ」とならずに
「あらゆる手段を尽くした」と
断言できるのであれば、
本当に諦めるしか
ないのかもしれませんが、
やり尽くしたことで
得られるものがあります。
新たなやり方を知ったこと
であったり、
新たな人との関係が
できたことであったり、
臨んでいた結果は
得られなかった
かもしれないけれど
やりきったという
達成感であったり。
どうしようもなく
上手くいかない時には
「なんで」とか「そもそも」とか
考える余裕もなく、
本気でなんとかしようと
思えるものかもしれませんが、
何となく進まない、とか
悪くはないのだけど
上手くいっているとは言えない、
という状況だと
ある意味、そのまま流されていても
致命傷にはならないので
ふと浮かんでくる
「なんで」や「そもそも」を
放置してしまいそうになります。
その時に
これは他責の考えで、
危険なループの始まりだと思って
危機感を持って
「なんで」や「そもそも」を
「どうしたら」に
変えていかないと
いけないのです。
これも、分かってはいること
ではありますが、
「なんで」や「そもそも」の
渦中にいると
気付かないことであったりします。
ですので、
「どうしたら」を口癖にするように
意識しています。
ちょっと文句が出てきた時、
難しいですね、が出てきた時に
「どうしたらできるかなぁ」と
言うようにしていると、
自分の次の行動に対しても
答えが見えてくることがありますし、
誰かから「それは無理です」と
言われたときにも、
相手から別の方法を
もらうことも
出来たりします。
上手く行っているとき、
調子がよいと感じる時には
こういうことは考えません。
なんだか上手くいかない、
なんか調子がよくない、
問題があるから、
どうすればいいかを
考えるんだよな
と、これまた
当たり前のことを
思い出させてもらいました。
ピンチはチャンス、という言葉。
正直いって、まったく腹落ちが
していなかったのですが
ピンチによって
考えるきっかけと
行動するきっかけを
与えられるのだ、
と思うと
ピンチはチャンス、ということも
少しだけ分かったのかも
しれない、と思いました。
幸い、本当のピンチに
直面してはいませんが、
なんとなく進まないなぁという
もやもやした状況で
その気なく、無意識に
浮かんでしまう
「なんで」「そもそも」の言葉を
そこで止めることなく
「どうしたら」に変えて
今日も臨みます。
【今日のまとめ】
何かが上手くいかないときは
つい「なんで」「そもそも」など
外部を非難するような言葉が
浮かびがち。
そこで止めずに
「どうしたら」に言葉をつなげて
気付かないうちに他責に
なっていた意識を
自責に戻して物事に臨む。