おはようございます。
ラグビーワールドカップの盛り上がりで
大学ラグビーやトップリーグの
チケットも売り切れが出ているようです。
観に行きづらくなるのは残念ではありますが
いちラグビーファンとしては、
やっぱりチケット売り切れは嬉しいです。
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昨日の仕事で炎上とは違ったポイントで
コミュニケーションに困ることがあります。
質問に対する回答が得られない、
得るのに時間がかかる
というものです。
たとえば、こんなやりとり。
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「○○は決まったんだっけ?」
「△△だったのですが、××で、■■・・・」
(さえぎって)
「いや、だから、決まったんだっけ?」
「△△にしようと思っていたのですが、
××になったはずで、■■・・・」
(同じことを繰り返す。
しかも前より長くなっている。)
(さえぎって)
「結局、決まってるの?決まってないの?」
(ようやく)
「決まっていません」
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なぜ、「決まったのか?」に対して、
すぐに
「決まった」もしくは「決まっていない」
が返ってこないのか・・・。
こちらも、回答を得るまでに
長い時間がかかるのが想像できるので
なるべくYes、Noで答えられる
シンプルな質問にしているつもりです。
が、
「決まったか?」でも
長い道のりになってしまう。
こういうやりとりになってしまう方との
会話では、
質問に対する回答が得られない、
回答を得るのに時間がかかる
ということとともに、
事実と意見が分けられていない
ような印象を持つことも多くあります。
たとえば、
業務の進捗報告。
「○○についてAさんを督促して
いますが、返信がなく、
Aさんは××(○○と関係ない
他部署の業務)も、
役員から指示もあるのに、
対応していないので
○○もやってもらえないかも
しれません」
この報告についての事実は、
・○○について進捗はない
・Aさんに督促しているが
返信がない。
・Aさんは役員が指示している
XXも対応していない、
と他部署から聞いた
・役員指示案件も対応しない
くらいだから、
○○も対応してもらえない
のではないか、
と(報告者が)思っている
でした。
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ここに書いたようなことは
程度の差はあると思いますが
それほど珍しいことではなく、
同じような経験をされている方も
少なからずいらっしゃるのでは
ないかと思います。
少し話が外れるかもしれませんが、
「意見」と「事実」を区別する、
ということで
必ず思い出すことがあります。
大学受験で論文というものに
ぶつかり、
それまでの作文との違いに
苦労しました。
(そして玉砕しました)
その時に思ったことが、
国語の授業でやったのは
その文章に対する自分の感想を
述べることが中心だったな
ということです。
事実、ということだと
「これ」「それ」「どれ」「あれ」の
「こそあど」が、
何を指しているか答えなさい、
という問い。
当時、海外の小学校の「国語」では
この文章のどの部分が事実で
どの部分が筆者の意見かを
考えさせる授業をしている
と聞いたことがありました。
一方、音読と感想文と漢字が
中心(あくまで当時の私のイメージで、
事実とは異なるかもしれません)
だった国語では、
事実と意見を分けて考える
というクセは、
身につかなかっただろうな
と思います。
さすがに、あれから数十年、
子どもの教科書を見ていると
事実と意見を(当時より)意識した
内容になっているな、と感じます。
話を戻しますが、
質問に対する回答が得られない、
回答を得るのに時間がかかる。
何が事実で、何が意見か
分からない。
というやりとり。
もはや、イライラを通り越して
諦めの境地に入りかけることが
あります。
しかし、
「事実と意見が分けられない」に関して
最近読んだ記事の中に、
ノーベル経済学賞を受賞した
ダニエル・カーネマンという方が
事実と意見が分けられないのは
脳のつくりではなく、注意力が理由だ、
という内容がありました。
その記事は、ダニエル・カールマンを
紹介したもので、
自身による記事ではなかったので、
詳しく知るために
まずは著書を読んでみたいと
思います。
長く書きましたが、
質問に対する回答が得られない、
回答を得るのに時間がかかる。
何が事実で、何が意見か
分からない。
というコミュニケーションの
難しさを乗り越えることについての
考えは、
まだ、まとまってはいません。
とっかかりを得た、
というところですが
同じような経験をしている方も
多いのではないかと思い、
今後考えるテーマとして
忘れないようにするために
今日はこの内容を書きました。