20年前の今日。娘が産まれた。ちょうどこの時間には、病院の待合室で娘の手術が終わるのを待っていた時間である。

 

思い起こせば、私の人生の中でも激変の年であった。

 

正月早々に原付で事故を起こし、無保険でもあり被害者さんとの見舞いや交渉を自分で行わなければならなかった。それがこの年の始まりであった。そしてその年の2月初めには、今度は私が車に跳ねられた。松葉杖をつきながら被害者宅に行き示談交渉したりしていた。

自分の人生に迷ってる時でもあったし、そんな事が続いて心が弱ってる時だった。「カルマの法則そのやんけ」と思いつつ、3月にオウムに入信。

 

4月には、彼女が妊娠していると解った。当時、彼女は他の男性とも付きあっていたので、どっちの子どもかも分からなかったが、私の中では中絶なんてことはあり得なかった。彼女が私の子どもであるという言葉を受け入れ、結婚準備に入っていった。

 

当時は私はアルバイトであったので、仕事を見つけ、ワンルームのボロアパートから、所帯用のアパートに引っ越した。それが5月。

 

結婚式などできるはずも無く、取り敢えずの入籍を6月に済ました。子どもを迎えるべく、ベビー用品なんかも揃えていかねばならない。

 

そんな時に、警察から職場に電話が入った。友達を装っての電話があったが、新人に対して電話があるという不自然さから、上司に呼ばれて消費者金融からでも借金しているのかと問い詰められた。

 

私は事件後の入信でもあり、事件を知りたくてオウムに入ったというのが、本心でもあったので、何の悪気もなく全てを打ち明けた。

 

上司は呆れ返っていた。そして職場の雰囲気は一変し、事あるごとに嫌味を言われ、理不尽な扱いをうけた。

 

これが現実なんだなと実感できた。

 

私は辞表を提出し、再び職探し。選んでいる暇もないので、給料のいい訪問販売の仕事についた。それが9月。

 

そして11月22日に彼女が産まれた。妻が不安がって仕方ないので、出産にも立ち会った。

私が 口蓋裂で産まれてきた事もあり、何か障害をもって産まれてくるのではないかと心配もしていたので、感動するというよりも、まずは、顔を確認し、手足の確認をして、何も異常を無いのを確認して、ようやく安堵できた。

 

ほっとしたのも、束の間で、院長から呼び出されて、子どもが元気が無いと告げられた。検査の為に少し大きな病院へと搬送したいということだった。

 

産まれて間もない子どもと共に救急車に乗って移動した。

 

すぐに検査が行われ、先天性食道閉鎖症と分かり、暫定的な緊急措置の手術が行われた。

本格的な治療をするには、器材も少ないので、大学病院に行った方がいいと言われ、今度は大学病院へと移された。

 

妻は、出産病院を退院したのちは、親戚の所で預かってもらい産後の療養をさせていた。

そんな頃、定期的にはオウムからも連絡が入ってたのだが、娘の手術に輸血が必要なので同じ血液型の人を多く集めて欲しいと言われ、教団にもそんな状況だと伝えると、教団も内部で探してもらったらしく、再び連絡がきた。

 

「同じ血液型の人はいるのですが、輸血するとステージが下がってしまうので、娘さんを入信させるのであれば、いいそうです。」などと伝えてきた。

 

私としては、何の期待もしていなかったので、丁重に断ったが、今から思うと、あのとき申し出を受けていたならどうなっていただろうか。娘の命は教団のお陰で助かったなどと思い込まされ、私もきっちり型にはめられていただろうと思う。担当者に悪気はなかったと信じたいが、それが今のひかりの輪に通じるやり方でもある。少しでも恩を受けたなら徹底的に利用される。それがオウム流のやり方である。

 

これは感謝してやまないのであるが、私の友人達は会社を休んで来てくれたり、あるいは自分は血液型が違うからと友人を連れてきてくれたりもした。本当は足代くらいは出さねばならないところであるが、何にもお礼も出来ないことを知っていても駆けつけてくれた。見返りも求めずに。真理であるとか、法則であるとか、そんな言葉も知らないオウムにおいては「凡夫」といわれている人達である。一方では「入信させろ」といい、一方では「気にすんな、困った時はおたがい様やろ」と言ってくれた。

 

どっちが慈悲深いかは一目瞭然である。あの時は必死だったので、そんなことすら気にかける余裕もなかったが、今から振り返ってみたら、本当の優しさや親切は特別な場所にあるわけではなく、目の前に存在しているのだなとつくづく思える。

 

そんな状態であったので仕事どころでもなかった。完全歩合制の訪問販売の会社であったので、給料明細を見たら社会保険料など引かれたら、何も残ってなかった(笑)。確かマイナスだったと記憶している。あの給料明細は取って置くべきだったな。二度と見たくはないが、あんな給料明細はなかなか見れる人もいないように思う(笑)。

 

そんなこんなでこんな仕事はやってられんと再び転職。当時は阪神淡路大震災の復興の時であったので職人不足であった。友人の誘いもあり、それに飛び付いた。

色んな事があった年であった。必死で動き続けた。次から次へと起こっていく問題に対応するので精一杯だったな。

 

あれから20年。娘は彼氏とデート。妻は障害者施設。息子はどこかに遊びにいってる。私は、色んな思い出を肴に手酌酒。

 

娘には、「お父さんの娘として産まれてきてくれて有り難う。」とメールしておいた。