少し教学的な話をしよう。ひかりの輪では悟りによって自と他の区別を超え、無分別智を得るなどということを講話会などでは言っている。この境地に達すると「真実の私」とはこの大空のようなもので、今まで「私」と考えていたものは雲のように取りとめのないものであったということに気付く。このような例え話なども入れながら解説をしていた。仏教的見地ではこれ自体は問題はない。

自と他の区別を超え、万物が一体であるという感覚を掴むのはとても大切な経験になるし、自分というものへの執着が弱まり、他者への慈悲に結びついていくのであれば、その後の人生においても大きな変化があるだろうと期待もできる。生き方そのものが変わってくるからだ。

では、そのような講話をするくらいだからある程度の経験をしているであろうひかりの輪では、どのような行動をしているのか。

アレフの賠償契約問題ではしきりに著作権侵害を訴えているし、公安調査庁相手に名誉毀損訴訟を起こしている。一般人であれ、批判者には名誉毀損、プライバシーの侵害、著作権侵害等々、事あるごとに脅しにも似た警告を発してくること度々。

名誉とは何か。プライバシーとは何。著作権とは。もちろん法的に認められた権利であることは十分に知っているが、殊更にそれを強調することは、結局は「私」に執着し、「私の物」に執着していることに他ならない。ひかりの輪での教義に従って考えると、そういう「言葉」があるからあたかも実態をもって存在しているかのように錯覚しているだけ。

むろん、だからと言って、全てのことに泣き寝入りせよなんてことを言っているのではない。世俗で存在している以上、「私」という方便を使って存在していくことになるのだから、世俗の論理も無視することはできないのは当たり前。

しかしながら、仏教的な信仰、悟りの体験を本当に有しているのであれば、智慧に基づき慈悲の現われとして「私」という方便手段を使っていくということが基本になるのだが、団体の言葉を聞いていると全く慈悲も慈愛も全く感じられない。

上記の問題では相手方も存在するので、自分達の非道に気が付いてもらいたいがために行ったものだと、おそらくは言い訳するのであろう。しかしながら、そのような主張をするたびに、あたかもそれが実在しているかのような錯覚を振りまいていて、自と他の区別を超えろと口では言いつつ、実際の行動によっては、「私」や「私のもの」にゴリゴリに執着するような行動を取っているということだ。それが縁起していくことによって、この世の中は「私」に執着せざるをえない社会がいつまでも続いていく。その行動には一切の目新しさはなく、ただ単に世俗的な考えを踏襲し続けているだけ。

せめて、その矛盾に自らが問い、悩みながら結論を求めていくという苦悩が見えたなら別の感想があるかもしれないが、全く見受けられないんだな。そういう人たちを私は偽善者と呼ぶ。

つい数年前まで、団体では法具を使っていた。ドニパトロという鐘も使い、それを自動的に鳴らす器械を製作していた。その器械を作った時に、特許をとろうという話があったらしいが結局は登録料がないからやめたそうだ。

教義的な視点で「分かち合い」という考えに基づきやめたのではなく、金がないからやめたとの理由を聞いたときに、「この人たち、本当になにも法則が理解できていないんだな。」と実感した。

先日取り上げた指針には、霊感がないのにあるかのように振舞ったりすることを慎むかのような文言があったが、悟ってもないのに悟ったように振舞ったりするのも霊感商法にはなるだろうに。麻原の物真似か。仏教ではそういう人を「魔境」と呼んで強く戒めている。

滝本先生がFBで映画「青春の蹉跌」の名言を引用していた。

「人の言うことを信じるな、言っている人の生き方を見ろ」

まさしく名言であろうと思う。講話はどうであれ、団体の行動を見てみたなら、自己保身に走り、金銭欲、名誉欲に捉われた俗物としての行動しか見えてこない。

俗物であるならそれでもいい。「智慧の学び場」とか言って高尚さをアピールしたりして人を惑わせずに、とっとと解散して正々堂々と俗物として生きて欲しいものだ。