昨日(922)、近所の書店に一冊だけあった阿部昭の短編集「天使が見たもの」を買って来ました。たまたまですが、922日は阿部昭の誕生日だそうで、今年が没後30年とのこと。

表題作「天使が見たもの」は、ある母子家庭(パートに働きに出ている病気の母と、小学生の息子)の日常を淡々と描いたものですが、ある日その母がアパートの部屋で病死し、学校から帰宅した息子も後追いで飛び降り自殺を遂げるという、限りなく、限りなく、とにかく限りなく悲しい話。

それも、実話に即しているそうですので、余計に悲しい。しかも、少年は新聞配達をして母を助けようと思っていた矢先の、突然の母の死。

ちょっと意外だったのは、私の好きな沢木耕太郎さんが解説を書いていること。実話では母も自殺ということらしいのですが、母子で自殺というのはあまりも悲惨。阿部昭は、母は病死ということにして、この少年(の魂)を救いたかったのではないか?というのが沢木耕太郎さんの推測。

沢木さんが言うように、短編に採り上げるに際し、彼(阿部昭)の限りない深い優しさを感じます。また、非常に淡々と描かれているので、清々しく凛としたものというか、ある種の崇高さも感じます。

少年が握りしめていたメモには、こうあります。「このまま病院へ運ばずに、地図の家に運んで下さい。家には母も死んでいます。」 そして、この悲しい物語は、次の文で終わる。「ここから少年の自宅までは 『 やく二百五十メートル 』 ということもわかった。」

この悲しい物語。何度も読み返していますが、自問自答の2日間です。

阿部昭は何のためにこの短編を書いたのだろうか。彼は何を言いたかったのか。そして、人間にとって、本当の優しさとは一体何なのだろうか。