「世界にはきみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない、ひたすら進め。」(ニーチェ)

 

 

 

 

[α]

 

「安井かずみのいた時代」(島崎今日子著/集英社)

 

自分の人生の方向を決めたとも言える1970年前後、街には藤圭子や森進一などの“ど演歌”が溢れていました。

 

肺腑をえぐり、情念の奥の奥へと突き刺さるようなそんな歌声と同時に、他方では伊東ゆかりの「恋のしずく」や小柳ルミ子の「私の城下町」のような、ロマンチシズムで心の琴線に触れるような曲も印象深かったあの時代。

 

当時の懐かしい歌をYouTubeで再生すると、次から次へと“作詞安井かずみ”に出くわして、安井かずみってどんな女性だったのかと知りたくなり、「安井かずみのいた時代」という本を手に取りました。

 

安井かずみ(1939年~1994年)の周辺にいた26名への取材により安井かずみの像を浮かび上がらせようとした本書、皆が皆安井かずみを礼賛してばかりなのには辟易でした。

そんな中、吉田拓郎一人だけですか、安井かずみと旦那の加藤和彦の生活ぶりやその意識に批判的で、冷静な見方をしてるのが印象に残りました。

 

資産家の娘が自ら「バタ臭い」というように欧米かぶれのライフスタイルに耽溺し、内面虚ろなまま虚栄の華を生きた人生。

 

当時流行した“六本木族”の象徴のようなブルジョワ的俗っぽさを感じさせる一方で、新たな時代的感性を次々と盛り込んだ作詞を世に出した作詞家。

 

吉本隆明が“修辞的現在”ということで戦後詩と現代歌謡詩との限りなき接近を指摘したのが1978年。

そこから更に歌謡詩の詩的世界の固有の価値が認められて、ボブ・ディランがノーベル文学賞を授与されたのが2016年。

 

“修辞的現在”と言われた歌謡詩状況の前夜に、耽美で個性的な言葉の花を咲かせた個性的作詞家、それが安井かずみと言えましょうか。

 

内面に虚ろを抱え、外見華やかな生活でそれを虚しく埋めつつ、資本に踊らされながらも1960年代から70年代へと、キラキラ輝きながら天空を横切った流れ星、そんな位置づけを安井かずみには与えたくなりました。

 

 

 

 

[β]

 

「所有とは何か」(ピエール=ジョゼフ・プルードン/講談社学術文庫)

 

「所有とは盗みである」という警句で有名なプルードン、そのプルードンの古典的著作、図書館から借り出して手に取ってみました。

 

読み出しても内容はえらく難しい、到底通読には耐えず、気になった一箇所だけ取り上げてみます。

とにかく共鳴したのは社会の捉え方ですね。

 

「働き、生きる人間たちは社会においていやおうなく結合している。それは意志の問題でなく、生産、消費、交換などの諸原理により社会的に結合せざるを得ない」

 

税金をいくら払っているかとか、そんなこと関係なしに全ての人間が複合的に結合してこの社会を作っている。→これこそまさに未来の連合社会(アソシエーション)の原理的理解でしょう。

 

それなのに唯一の例外として“所有者”を導入し、“所有者”はこの結合から外れるのでこの社会から追放すべし、となる論理の運びがわからない。

 

この“所有者”には銀行家も入るようだし、“所有者”を社会的結合からの例外とする本書の鍵の論理が理解不能なのでプルードンとの付き合いもここまで、ということで書を閉じておしまいでした。