「世界にはきみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない、ひたすら進め。」

 

 

 

日経平均が4万円を超えましたが「実感がない」といった街の声が多いようです。

「暮らしは楽にならないのになんで株高?」などと言って、さも気の利いたコメントした気になっているコメンテイターもいます。

 

共産党の小池書記局長まで「株価は経済の体温計なのに体温計が壊れた」などと言ってるのには驚き。

「株価は経済の体温計」などという言葉初めて聞きましたが、一体誰がそんなこと言ったのか。

こんな全くピント外れで陳腐な意見があちこちで見受けられるので、一言言いたくなりました。

 

そもそも株価という“資本市場”の動きと生活者の日々の暮らしとは別次元の世界。

 

資本主義経済の主語はあくまで“資本”であって“人間”ではない。

マルクスの経済分析の書のタイトルが「資本論」となっているのが象徴的です。

 

中世封建制までの人間中心の経済に対し、資本主義経済は“資本”が中心であり、“資本”が主語になって全体を統括することになる。

資本主義以前とは世界がひっくり返ってしまったのが現代資本主義社会であり、その倒錯こそが“物象化的倒錯”と呼ばれるものです。

 

「資本論」にあるように、〈商品〉→〈貨幣〉→〈資本〉と人間不在のまま展開して、最終的に〈株式資本〉が全体を統括し、経済全体の主語=主体になる。

そんな株式資本の動きを象徴的に示すのが株価、これは生活者の日々の暮らしとは別次元、関係無しです。

 

ちなみに池田勇人内閣のもとで所得倍増計画の始まりは1960年、実際に所得倍増となったのは1967年。

そして1960年の日経平均は1356円、1967年の日経平均は1283円、要するに生活者の暮らしは楽になっても株価は逆に下がっていた、株価と生活実感が連動しない例です。

 

また昭和バブル期に個々人の生活が潤ったかというのも疑問です。

私個人的には昭和バブル期に仕事面では全く恩恵被らなかったし、私の周辺も同様でした。

 

世の中の空気がただ浮かれていただけ、そんな中、水道料金も払えないような人々がいたことが河林満「渇水」を読むと分かります。

 

今回の令和バブル、崩壊は時間の問題でしょうが、頓珍漢なコメントに多々接したので一言言ってみたくなった次第です。