「世界にはきみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない、ひたすら進め。」(ニーチェ)

 

 

 

「ソヴィエト・デモクラシー」(松戸清裕著、岩波書店)

旧ソ連や今のロシアには民主主義はないのではないか、というのが一般的通念かと思われますが、そんな通念に疑問を挟んだような本書、そこそこ参考になりました。

 

参考になったのは以下の二点。

 

[α]ルソー民主主義と独裁政治

 

著者は民主主義をその近代的源に遡って、ルソー型とロック型に分けてるようです。

即ち、ルソーは平等主義的民主主義、ロックは自由主義的民主主義という分け方。

 

欧米や日本などで語られる民主主義はこのロック的自由主義、民主主義。

旧ソ連にはこのような自由主義的民主主義は無かったが、それは旧ソ連的立場からは否定すべきブルジョワ民主主義であり、ルソー的な非自由主義的民主主義は旧ソ連などでも謳われていたという点。(1936年のスターリン憲法など)

 

しかし、このルソーの民主主義論が問題ではないのか?

 

即ち、ルソーにおける“一般意志”の実現が民主主義ということになり、この“一般意志”への同調、服従に逆らえば“反逆罪”ということになってしまう。

 

要するに“一般意志”への同質化圧力により多様性が排除され、民主主義の名の下に政治的には独裁体制が成立してしまうという点。

 

原理的にはルソー民主主義論が独裁制へ道を開くという逆説、面白かったですね。

 

ルソーはたしか演劇も全否定だったりとか、しかし今回Netflixでの「地面師たち」とか「極悪女王」とかを見ればそんなルソーの演劇論など吹っ飛んでしまいます。

若い頃ルソーを読んでもどうも馴染めなかった思いがありますが、その理由が今氷解したという感じです。

 

[β]ぬるま湯的“自由”の存在

 

旧ソ連や今のロシアは、例えばジョージ・オーウェル「1984」のような徹底管理の息苦しい社会ではなく、ぬるま湯的緩さが社会統合要因になっている点。

 

アルコールが切れればオーデコロンを飲む“自由”とか、店員への賄賂、売り子の横流しとか、そんな“自由”を織り込みながら社会が成立している実例が列挙されています。

 

“体制に逆らう自由”は厳しく禁止されていても、権力の目を盗んでの日常的“自由”はそこそこ享受しながらの市民生活ということなのでしょうか。

 

ロシアや中国なども、社会統合が成り立っている以上社会の内部に立ち入ればそこそこの“自由”はあるのでしょう。

翻って現代日本でも自由はあくまで“表象の中の自由”、自由の幻想でしかなく、その点似たり寄ったりか。