人々の心に社会科学には何かが欠けているとの気持を生み、
しだいにはっきりした形をとるようになって来ました。
岩波新書 大塚久雄『社会科学における人間』9ページ
大学のゼミで課題図書に指定された本である。課題図書と
いうより強制である。読んでレポートを書くという課題だ。
2週間に1冊。結構ハードだった。でもいい訓練になったこ
とは間違いない。とりあえず何かを書くことに抵抗感を感
じなくなったのはこのゼミのおかげだと思う。
この本の理解には重要な二つの本を読む必要があるので、
このブログで採りあげるべきなのか大変迷ったが、久しぶ
りにこの本を手に取り、中に鉛筆によるおびただしい傍線
や書き込みを見つけた時、やっぱり採りあげる決心をした。
二つの本とはデフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』
とマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理
の資本主義の精神』である。
まず大塚先生はロビンソン・クルーソー漂流記におけるロ
ビンソンの行動に、当時のイギリスの小資本家の姿を見い
だす。
ロビンソンが孤島にただ一人で漂着して、最初はやれやれ
命だけは助かったと喜ぶが、だんだんと、これは大変なこ
とになったということが分かってくる。(中略)生き続け
ていくための生活条件を整えていこうとします。たとえば、
住居を作る。そしてその住居の周りを木立で囲む。
(25ページ)
デフォーはこの物語で、無人島に流れ着いた男のサバイバ
ルを描いたのではないのである。まず行動ありき。ロビン
ソンが孤島で営む生活にはその生活を可能たらしめる物資
がそろっていた。実際の無人島や難破船の中にそんなに都
合良く小麦の種が残っているはずがないのである。
ロビンソンがまず家を造り、その周りを柵で囲む。この柵
を作る行為こそがまさに文明的な行為であり、イギリス史
で有名な「エンクロージャー(囲い込み)運動」を直接的
に表したものなのである。
孤島におけるロビンソンの生活のなかでは、どうしても中
産的生産者層のもつすぐれた資質、あるいは、良い方面ば
かりが描き出されていて、悪い方面にはあまり触れられて
いません。この点で、対極をなしているというべきものは
ジョナサン・スフィストの『ガリヴァー旅行記』です
(38ページ)
あの中産的生産者層に見られる経営的資質と言いますか、
醒めた合理的な行動様式、これはとで詳しく述べることに
なりますが、そういう資質をはっきりと前面に押し出して、
イギリス国の背骨だと考えた中産的生産者層に属する人々
の行動様式の理念像、さらにそれを通して将来イギリス人
のあるべき理想の人間像を描き上げた。
(39ページ)
大塚先生はこのロビンソンに見られる資質を「伝統にいつ
までも縛られているような感傷はどこにも持ち合わせてい
ない」(62ページ)と表現している。イギリスが世界史の
中でとりわけ早く産業化し、工業興国として世界の頂点に
立っていくために、必要な資質として、伝統を捨てた合理
主義をみる。
こうしてみると、『ロビンソン・クルーソー漂流記』もた
だの小説ではなくなる。立派な社会科学の文献と化す。最
近あまり「社会科学」という言葉を聞かなくなったが、社
会を考察するとき、人間をどのように扱うべきなのか、大
塚先生は説いている。人間を中心に考えるべきであると。
社会の現象を人間の精神面から考察した名著、マックス・
ウェイバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の
精神』では、なぜ宗教的な禁欲精神を強く持つプロテスタ
ントたちが「利潤の追求」という資本主義の精神の伝道者
となったのかを描いている。
ヴェーバーは決して、禁欲的プロテスタンティズムのエー
トスと「資本主義の精神」とをまったく同じ物とは見てい
ない、ということです。いずれも「世俗内的禁欲」を不可
欠な構成要素として成立している点では同じなのですが、
それにもかかわらず、両者はまったく違っている、いや、
むしろ、ある点では決定的に対立する思想だ、というわけ
です。
(151ページ)
その対立する考え方がなぜ克服されたのか、イギリスやア
メリカというプロテスタント国で資本主義は大きな発展を
遂げた理由は、まさにこの克服にあったのである。利益を
分け与えるという「隣人愛」の実践から、営利目的は自己
実現の精神であり、宗教的な倫理観と相反しないという考
え方への「移行」、これが克服方法であった。
愛は、勤勉や規律に取って代わられるのである。
金持になったから彼らの信仰のたががゆるんできた、とい
うことだけではありません。もちろん、金持は生活上の悩
みが少ないでしょうから、そういう面もあったに違いあり
ませんが、さしあたって重要なのは、新しい産業経営によ
る営みのばあいにあっても、その後の発展過程でしだいに
あらわになってくる利潤追求の営みにとって、禁欲的プロ
テスタンティズムがそもそも持っていたあの激しい反営利
性がようやく邪魔になってきた、お荷物になってきた、と
いうことでしょう。そして、禁欲的プロテスタンティズム
の伝道者たちがたえず嘆いているように、生きた信仰がだ
んだん失われていく。(中略)そして、ついには道徳上や
法律上の形式的な正しささえ守り、財産使用の上で他人に
迷惑をかけさえしなければ、万事オーケーというような雰
囲気になる。ヴェーバーによると、ロビンソン・クルーソ
ウはまさしくその過渡期的な中間点に立っているわけです。
(152~153ページ)
ずいぶん長い引用になってしまった。大塚久雄先生は、イ
ギリスの労働者の勤勉性が資本主義の発展と深長に不可欠
であったことを、ドイツのある地方の労働者の考え方との
違いを引きながら説明している。とても面白い箇所である。
たとえば、出来高払い賃金の手取りが二倍になるようにし
ます。そうすると、シュレージェンでは労働者たちの多く
は二日のうち一日を休むというようになるんです。つまり、
イギリスの労働者たちの多くが収入増加の刺激によって、
もっと長時間、もっと密度高く働こうとすると反対に、一
定の収入さえあれば後は休むことを選ぶ。そういう反応を
示すというわけです。
こういう現象は、発展途上国問題が議論されるようになっ
てからは、ヨーロッパ、北アメリカ以外の地域では広く見
出される事実として、誰もがよく知っていることですが、
こうした現象の存在を、ヴェーバーは、今世紀のはじめに
すでに発見しているばかりでなく、それに鋭い社会学的な
メスを加えているのです。
(126ページ)
この箇所に傍線がないのが残念であった。これは国民性や
和辻哲郎の『風土』で示された自然環境と人間性の関連が、
社会現象に大きな作用をもたらしていることを示した大き
な資料である。ウェーバーの著書を読まずとも、私はこの
本を読めば、ウェーバーの書いたことがかなりの部分まで
理解できるのではないかと思う。
デフォーやスフィストの本に社会性を見出す読み方は、こ
の本を読むことによって知り得たことである。もちろん本
を読む姿勢は自由であり、社会科学に関連づけて読むこと
が常に求められているわけではない。
しかし、読み方を変えるだけで、あるいは他の著作や思想
と関連づけて読むことで、ある種の作品は特別の意味を持
ち出すのである。私はこのような本の読み方が好きだし、
必ずしもゴールや正解にたどり着かなかったとしても、そ
のように本を読む姿勢は大切にしたいと考えている。
さいごに。先生がこの本をゼミで私に読むことを課した時、
私は既にこの本は読んでおかなければならなかったと感じ
た。少なくとも大学で学問をするということは、必要な準
備を怠ってはその資格がない。だから私は現在の地位に甘
んじているのだ。学問に対する姿勢が甘すぎた。
それは今になって思うことだ。大学にいるときはこれっぽ
っちも考えることがなかった。そして極めて貴重な時間を
どぶに捨ててきた。しかし、その悔恨が僅かではあるが今
の私を突き動かしているのかもしれない。そうであってく
れればいい。
社会科学における人間 (岩波新書)/大塚 久雄

¥777
Amazon.co.jp



しだいにはっきりした形をとるようになって来ました。
岩波新書 大塚久雄『社会科学における人間』9ページ
大学のゼミで課題図書に指定された本である。課題図書と
いうより強制である。読んでレポートを書くという課題だ。
2週間に1冊。結構ハードだった。でもいい訓練になったこ
とは間違いない。とりあえず何かを書くことに抵抗感を感
じなくなったのはこのゼミのおかげだと思う。
この本の理解には重要な二つの本を読む必要があるので、
このブログで採りあげるべきなのか大変迷ったが、久しぶ
りにこの本を手に取り、中に鉛筆によるおびただしい傍線
や書き込みを見つけた時、やっぱり採りあげる決心をした。
二つの本とはデフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』
とマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理
の資本主義の精神』である。
まず大塚先生はロビンソン・クルーソー漂流記におけるロ
ビンソンの行動に、当時のイギリスの小資本家の姿を見い
だす。
ロビンソンが孤島にただ一人で漂着して、最初はやれやれ
命だけは助かったと喜ぶが、だんだんと、これは大変なこ
とになったということが分かってくる。(中略)生き続け
ていくための生活条件を整えていこうとします。たとえば、
住居を作る。そしてその住居の周りを木立で囲む。
(25ページ)
デフォーはこの物語で、無人島に流れ着いた男のサバイバ
ルを描いたのではないのである。まず行動ありき。ロビン
ソンが孤島で営む生活にはその生活を可能たらしめる物資
がそろっていた。実際の無人島や難破船の中にそんなに都
合良く小麦の種が残っているはずがないのである。
ロビンソンがまず家を造り、その周りを柵で囲む。この柵
を作る行為こそがまさに文明的な行為であり、イギリス史
で有名な「エンクロージャー(囲い込み)運動」を直接的
に表したものなのである。
孤島におけるロビンソンの生活のなかでは、どうしても中
産的生産者層のもつすぐれた資質、あるいは、良い方面ば
かりが描き出されていて、悪い方面にはあまり触れられて
いません。この点で、対極をなしているというべきものは
ジョナサン・スフィストの『ガリヴァー旅行記』です
(38ページ)
あの中産的生産者層に見られる経営的資質と言いますか、
醒めた合理的な行動様式、これはとで詳しく述べることに
なりますが、そういう資質をはっきりと前面に押し出して、
イギリス国の背骨だと考えた中産的生産者層に属する人々
の行動様式の理念像、さらにそれを通して将来イギリス人
のあるべき理想の人間像を描き上げた。
(39ページ)
大塚先生はこのロビンソンに見られる資質を「伝統にいつ
までも縛られているような感傷はどこにも持ち合わせてい
ない」(62ページ)と表現している。イギリスが世界史の
中でとりわけ早く産業化し、工業興国として世界の頂点に
立っていくために、必要な資質として、伝統を捨てた合理
主義をみる。
こうしてみると、『ロビンソン・クルーソー漂流記』もた
だの小説ではなくなる。立派な社会科学の文献と化す。最
近あまり「社会科学」という言葉を聞かなくなったが、社
会を考察するとき、人間をどのように扱うべきなのか、大
塚先生は説いている。人間を中心に考えるべきであると。
社会の現象を人間の精神面から考察した名著、マックス・
ウェイバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の
精神』では、なぜ宗教的な禁欲精神を強く持つプロテスタ
ントたちが「利潤の追求」という資本主義の精神の伝道者
となったのかを描いている。
ヴェーバーは決して、禁欲的プロテスタンティズムのエー
トスと「資本主義の精神」とをまったく同じ物とは見てい
ない、ということです。いずれも「世俗内的禁欲」を不可
欠な構成要素として成立している点では同じなのですが、
それにもかかわらず、両者はまったく違っている、いや、
むしろ、ある点では決定的に対立する思想だ、というわけ
です。
(151ページ)
その対立する考え方がなぜ克服されたのか、イギリスやア
メリカというプロテスタント国で資本主義は大きな発展を
遂げた理由は、まさにこの克服にあったのである。利益を
分け与えるという「隣人愛」の実践から、営利目的は自己
実現の精神であり、宗教的な倫理観と相反しないという考
え方への「移行」、これが克服方法であった。
愛は、勤勉や規律に取って代わられるのである。
金持になったから彼らの信仰のたががゆるんできた、とい
うことだけではありません。もちろん、金持は生活上の悩
みが少ないでしょうから、そういう面もあったに違いあり
ませんが、さしあたって重要なのは、新しい産業経営によ
る営みのばあいにあっても、その後の発展過程でしだいに
あらわになってくる利潤追求の営みにとって、禁欲的プロ
テスタンティズムがそもそも持っていたあの激しい反営利
性がようやく邪魔になってきた、お荷物になってきた、と
いうことでしょう。そして、禁欲的プロテスタンティズム
の伝道者たちがたえず嘆いているように、生きた信仰がだ
んだん失われていく。(中略)そして、ついには道徳上や
法律上の形式的な正しささえ守り、財産使用の上で他人に
迷惑をかけさえしなければ、万事オーケーというような雰
囲気になる。ヴェーバーによると、ロビンソン・クルーソ
ウはまさしくその過渡期的な中間点に立っているわけです。
(152~153ページ)
ずいぶん長い引用になってしまった。大塚久雄先生は、イ
ギリスの労働者の勤勉性が資本主義の発展と深長に不可欠
であったことを、ドイツのある地方の労働者の考え方との
違いを引きながら説明している。とても面白い箇所である。
たとえば、出来高払い賃金の手取りが二倍になるようにし
ます。そうすると、シュレージェンでは労働者たちの多く
は二日のうち一日を休むというようになるんです。つまり、
イギリスの労働者たちの多くが収入増加の刺激によって、
もっと長時間、もっと密度高く働こうとすると反対に、一
定の収入さえあれば後は休むことを選ぶ。そういう反応を
示すというわけです。
こういう現象は、発展途上国問題が議論されるようになっ
てからは、ヨーロッパ、北アメリカ以外の地域では広く見
出される事実として、誰もがよく知っていることですが、
こうした現象の存在を、ヴェーバーは、今世紀のはじめに
すでに発見しているばかりでなく、それに鋭い社会学的な
メスを加えているのです。
(126ページ)
この箇所に傍線がないのが残念であった。これは国民性や
和辻哲郎の『風土』で示された自然環境と人間性の関連が、
社会現象に大きな作用をもたらしていることを示した大き
な資料である。ウェーバーの著書を読まずとも、私はこの
本を読めば、ウェーバーの書いたことがかなりの部分まで
理解できるのではないかと思う。
デフォーやスフィストの本に社会性を見出す読み方は、こ
の本を読むことによって知り得たことである。もちろん本
を読む姿勢は自由であり、社会科学に関連づけて読むこと
が常に求められているわけではない。
しかし、読み方を変えるだけで、あるいは他の著作や思想
と関連づけて読むことで、ある種の作品は特別の意味を持
ち出すのである。私はこのような本の読み方が好きだし、
必ずしもゴールや正解にたどり着かなかったとしても、そ
のように本を読む姿勢は大切にしたいと考えている。
さいごに。先生がこの本をゼミで私に読むことを課した時、
私は既にこの本は読んでおかなければならなかったと感じ
た。少なくとも大学で学問をするということは、必要な準
備を怠ってはその資格がない。だから私は現在の地位に甘
んじているのだ。学問に対する姿勢が甘すぎた。
それは今になって思うことだ。大学にいるときはこれっぽ
っちも考えることがなかった。そして極めて貴重な時間を
どぶに捨ててきた。しかし、その悔恨が僅かではあるが今
の私を突き動かしているのかもしれない。そうであってく
れればいい。
社会科学における人間 (岩波新書)/大塚 久雄

¥777
Amazon.co.jp


