十二階の下の方の、うるさく入り組んだObscureな町の中に
その寺はあった。

新潮文庫 谷崎潤一郎『刺青・秘密』より『秘密』84ページ

永井荷風や谷崎潤一郎は官能小説の開拓者というより、街の
徘徊者というイメージが強い。それはかなりDeepな街探索の
冒険で、日の差さない一角にスポットを当てる小説家ならで
はの楽しみを見出しているようにも見える。

谷崎潤一郎の作品では場所は、東京だけでなく、芦屋や大阪
ミナミであったりするが、街が克明に描かれている点で、街
の探索者と言っても差し支えないと思う。寺町の持つ独特な
異界感を“Obscure”という英単語一言で表現してしまうとこ
ろが谷崎潤一郎のすごいところだと思う。

Obscure(形容詞)
1a 〈音・形など〉はっきりしない,ぼんやりした
b 〈意味・内容など〉不明瞭な,あいまいな
c (複雑すぎて)あいまいな,解しがたい
2a 〈場所など〉人目につかない; へんぴな
b 〈人・物など〉世に知られない
3a (薄)暗い; 暗がりの; (どんより)曇った,もうろうとした
b 〈色が〉どす黒い,鈍い
(新英和中辞典より)

けっこう幅広い意味があるが、そのどれもが当てはまる。そ
んな町を形容するのにこの単がを引っ張り出してくる。これ
が谷崎潤一郎の魅力なのかもしれない。

『秘密』明治44年(1911年)11月に雑誌『中央公論』で発表
された谷崎の初期の作品である。私はある本で当時の『中央
公論』はまさしく新人作家あこがれの雑誌で、ここから原稿
の依頼が来ると欣喜雀躍し、「俺も一人前の作家になった」
と実感する、そういう大変権威のある文芸誌であったそうだ。

どこまで書いたらいいのだろうか?

とにかく奇妙な小説である。漱石の難解さとは全く違う、理
解しがたい感覚があるが、だからといって、この主人公の「私」
を私はまったく理解できないわけではないのである。

「私」は男女関係の乱れから逃れるために、あまり人目につ
かない都内の一角に潜伏する。そこにはまだ行ったこともな
いところがたくさんある。「私」はそんな異界の怪しげな雰
囲気に吸い込まれるように、その街自体にのめり込み、眩惑
されていくのである。

或る晩、三味線堀の古着屋で、藍地に大小あられの小紋を散
らした女物の袷(あわせ)が眼に附いてから、急にそれが着
て見たくてたまらなくなった。
(中略)
一体私は衣服反物に対しては、単に色合いが好いと小柄が粋
だとかいう以外に、もっと深く鋭い愛着心を持って居た。女
物に限らず、凡て美しい絹物を見たり、触れたりする時は、
何となく顫(ふる)い附きたくなって、丁度恋人の肌の色を
眺めるような快感の高潮に達することが縷々であった。
(89ぺージ)


ちょっと変である。いやかなり変かもしれない。明治時代に
この種の本が『中央公論』から出版されたのが不思議といえ
ば不思議である。この“変態ぶり”はさらに加速する。

夜が更けてがらんとした寺中がひっそりとした時分、私はひ
そかに鏡台に向かって化粧を始めた。黄色い生地の鼻柱へ先
ずベットリと練りお白粉をなすり着けた瞬間の容貌は、少し
グロテスクに見えたが、濃い白い粘液を平手で顔中へ万遍な
く押し拡げると、思ったよりものりが好く、甘い匂いのひや
ひやとした露が、毛孔(けあな)へ沁み入る皮膚のよろこび
は、格別であった。
(90ページ)


男が化粧をするということよりも「皮膚のよろこびは、格別
であった」という表現がすごい。さらに「私」は化粧をして
女物の袷を着て、つまりすっかり女装をして外に出るのである。

いつも見馴れている公園の夜の騒擾も、「秘密」を持って居
る私の眼には、凡てが新しかった。何処へ行っても、何を見
ても、始めて接する物のように、珍しく奇妙であった。人間
の瞳を欺き、電灯の光を欺いて、濃艶な脂粉とちりめんの衣
装の下に自分を潜ませながら、「秘密」の帷を一枚隔てて眺
める為に、恐らく平凡な現実が、夢のような不思議な色彩を
施されるのであろう。
(92ページ)


引用したのは、この作品のさわりに部分なのである。この作
品は急展開を見せてとても現代的なオチを迎えるのだ。それ
は書きたいが書かない。書くと怒られるに決まっている。

「私」の秘密をいとも簡単に看破する人間が登場する。それ
だけ書いておこう。そして、そのとき「私」が「秘密」と表
現したものが何であるのか、朧気ながらわかってくるのであ
る。うっすらと、ぼんやりとして見えてくる。しかしそれは
すごくリアルである。

『痴人の愛』『卍』といった作品が有名な谷崎潤一郎だが、
これらの作品よりもっとディープな作品がある。と同時に、
『細雪』や『春琴抄』のような作品もあるのである。だから
谷崎潤一郎は面白いし、常に興味の対象からはずれることが
ない。これからもすこしずつ紹介していくつもりである。

刺青・秘密 (新潮文庫)/谷崎 潤一郎

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