そっちこそ、こらだ! さあ、戻ろう。もうたくさんだろう?
新潮文庫 サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』より
『バナナフィッシュにうってつけの日』31ページ
この作品は「トリガー」さえ明らかにされない。その意味で
サリンジャーは村上春樹よりも意地悪である。わからないの
で自分で探すしかない。しかし、自分で探すという行為を真
剣にやる事で、自分の姿と向き合う結果となる。
“See more myself”
主人公のシーモアも自分と向き合っていたに違いあるまい。
必要以上に神経質に。でなければ新婚旅行先のホテルで、
妻が寝ている前で自殺したりはしないのではないだろうか。
「パパが明日ヒコーキで来るの」シビルはそう言いながら足
で砂を蹴った。
「顔は困るよ」と、青年は言った。そしてシビルの足首を押
さえた。「そうだな、そろそろ来てもいいころだな、きみの
パパも。ぼくもね、もう来るだろうもう来るだろうとしょっ
ちゅう思っていたんだ。しょっちゅうだよ」
(23ページ)
シビルは幼女である。シーモアに好感を持っているが、それ
は、シビルの母であるカーペンター夫人には都合が悪い事で
ある。シビルはそれを知っている。さらにシビルは、シーモ
アがピアノを弾いていた夜に、3歳のシャロン・リプシャツを
ピアノの椅子に座らせたあげたことに嫉妬している。
「ない? 一体きみはそこに住んでいるの?」
「知らない」と、シビル。
「知ってるよ。知らないはずはない。シャロン・リプシャツ
は自分の住んでるところを知ってるぜ、まだ三つ半なのに」
シビルは立ち止まり、握られていた手をぐいと引き抜いた。
そして変哲もない波打ち際の貝殻を拾い上げると、仔細にそ
れを眺めていた。それからそれを投げ捨てた。そして「コネ
ティカット州ホゥーリー・ウッド」と言うと腹を突き出して
また歩き出した。
「コネティカット州ホゥーリー・ウッドか」と、青年は言っ
た。「ひょっとしたら、そいつはコネティカット州ホゥーリ
ー・ウッドの近くじゃないか?」
シビルは彼を見やった。「そこがそのまんまあたしの住んで
るところよ」
(中略)
「それで万事はっきりした。きみが思いも寄らないほどはっ
きりしたよ」
(26~27ページ)
私はこれがトリガーではないかと睨んでいる。もちろん確証
は何もない。あったら教えて欲しいと思っている。シビルは
シーモアに嘘をつく。シーモアの問いに何も答えようとしない。
「いま一匹見えたわよ」と、言った。
「見えたって、何が?」
「バナナフィッシュ」
「えっ、まさか!」と、青年は言った。「そいつはバナナを
口にくわえてた?」
「ええ、六本」と、シビル。
青年は、浮袋からはみ出て端から垂れているシビルの濡れた
足の片方をいきなり持ち上げると、その土踏まずのところに
接吻した。
「こら!」足の持主は振り向いて言った。
「そっちこそ、こらだ! さあ、戻ろう。もうたくさんだろう?」
「たくさんじゃない!」
(30~31ページ)
何がシーモアの自殺の引き金であったのかである。さっぱり
わからないが、自分がシーモアの立場であったなら、引き金
を引く力はほんの些細なものであったはずだと思う。自殺の
原因はもっと巨大で闇のように深く暗いものである。彼の戦
争体験によってできたトラウマが関係しているのだろう。
しかし原因と引き金を引く力とは別に存在し得る。「精神分
析」的には。それが幼女のたわいもない嘘であることだって
充分ありうるのだ。女の子の嘘は「現代」という幻想を崩壊
させるだけの破壊力があったのかもしれない。
「5歳の女の子が嘘を言ったので自殺した」というのは理解
できないし、不条理である。しかしシーモアの自殺は可能性
の一つとしてシビルの言葉であった可能性はあるのだ。しか
し同時にそれは可能性のうちの一つであって、本当のトリガ
ーはこの作品に書かれていない可能性もあるような気がして
いる。
謎を解くことが永遠にできない作品である。現代の深い闇を
連想させる、不気味な光を放つ恐ろしくて不気味で、とてつ
もなく深い物語である。
ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)/サリンジャー

¥460
Amazon.co.jp

新潮文庫 サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』より
『バナナフィッシュにうってつけの日』31ページ
この作品は「トリガー」さえ明らかにされない。その意味で
サリンジャーは村上春樹よりも意地悪である。わからないの
で自分で探すしかない。しかし、自分で探すという行為を真
剣にやる事で、自分の姿と向き合う結果となる。
“See more myself”
主人公のシーモアも自分と向き合っていたに違いあるまい。
必要以上に神経質に。でなければ新婚旅行先のホテルで、
妻が寝ている前で自殺したりはしないのではないだろうか。
「パパが明日ヒコーキで来るの」シビルはそう言いながら足
で砂を蹴った。
「顔は困るよ」と、青年は言った。そしてシビルの足首を押
さえた。「そうだな、そろそろ来てもいいころだな、きみの
パパも。ぼくもね、もう来るだろうもう来るだろうとしょっ
ちゅう思っていたんだ。しょっちゅうだよ」
(23ページ)
シビルは幼女である。シーモアに好感を持っているが、それ
は、シビルの母であるカーペンター夫人には都合が悪い事で
ある。シビルはそれを知っている。さらにシビルは、シーモ
アがピアノを弾いていた夜に、3歳のシャロン・リプシャツを
ピアノの椅子に座らせたあげたことに嫉妬している。
「ない? 一体きみはそこに住んでいるの?」
「知らない」と、シビル。
「知ってるよ。知らないはずはない。シャロン・リプシャツ
は自分の住んでるところを知ってるぜ、まだ三つ半なのに」
シビルは立ち止まり、握られていた手をぐいと引き抜いた。
そして変哲もない波打ち際の貝殻を拾い上げると、仔細にそ
れを眺めていた。それからそれを投げ捨てた。そして「コネ
ティカット州ホゥーリー・ウッド」と言うと腹を突き出して
また歩き出した。
「コネティカット州ホゥーリー・ウッドか」と、青年は言っ
た。「ひょっとしたら、そいつはコネティカット州ホゥーリ
ー・ウッドの近くじゃないか?」
シビルは彼を見やった。「そこがそのまんまあたしの住んで
るところよ」
(中略)
「それで万事はっきりした。きみが思いも寄らないほどはっ
きりしたよ」
(26~27ページ)
私はこれがトリガーではないかと睨んでいる。もちろん確証
は何もない。あったら教えて欲しいと思っている。シビルは
シーモアに嘘をつく。シーモアの問いに何も答えようとしない。
「いま一匹見えたわよ」と、言った。
「見えたって、何が?」
「バナナフィッシュ」
「えっ、まさか!」と、青年は言った。「そいつはバナナを
口にくわえてた?」
「ええ、六本」と、シビル。
青年は、浮袋からはみ出て端から垂れているシビルの濡れた
足の片方をいきなり持ち上げると、その土踏まずのところに
接吻した。
「こら!」足の持主は振り向いて言った。
「そっちこそ、こらだ! さあ、戻ろう。もうたくさんだろう?」
「たくさんじゃない!」
(30~31ページ)
何がシーモアの自殺の引き金であったのかである。さっぱり
わからないが、自分がシーモアの立場であったなら、引き金
を引く力はほんの些細なものであったはずだと思う。自殺の
原因はもっと巨大で闇のように深く暗いものである。彼の戦
争体験によってできたトラウマが関係しているのだろう。
しかし原因と引き金を引く力とは別に存在し得る。「精神分
析」的には。それが幼女のたわいもない嘘であることだって
充分ありうるのだ。女の子の嘘は「現代」という幻想を崩壊
させるだけの破壊力があったのかもしれない。
「5歳の女の子が嘘を言ったので自殺した」というのは理解
できないし、不条理である。しかしシーモアの自殺は可能性
の一つとしてシビルの言葉であった可能性はあるのだ。しか
し同時にそれは可能性のうちの一つであって、本当のトリガ
ーはこの作品に書かれていない可能性もあるような気がして
いる。
謎を解くことが永遠にできない作品である。現代の深い闇を
連想させる、不気味な光を放つ恐ろしくて不気味で、とてつ
もなく深い物語である。
ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)/サリンジャー

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