あれは殺したんやないぜ。生かしたんや。人間の良心なんて、
考えようひとつで、どうにも変るもんやわ。
新潮文庫 遠藤周作『海と毒薬』170ページ
「違いのわかる男」で有名なネスカフェ・コーヒーブレンドの
CMの渋い遠藤周作さんを覚えているのは40歳代以上の人だろう。
今は唐沢寿明さんがCMキャラクターになっている。女性に「鼻
男子」と言われてシャイな表情を見せる、NECワープロ文豪の
CMは1992年であった。
遠藤周作さんは1923年東京巣鴨生まれ。この年は関東大震災の
年である。説明不要の文豪であり、間違いなく昭和文壇の牽引
者の一人である。キリスト教徒であったことが遠藤文学の根幹
になっており、この作品においても重要な要素となっている。
『海と毒薬』は1958年に発表された遠藤周作さんの代表作であ
り、映画化やドラマ化されたのも一度や二度ではないので、映
像でご覧になった方も多いだろう。しかし原作を読む限り、こ
の作品を「完璧に映像化」するのは極めて困難ではないかと思う。
関東軍の指導の下で行われた731部隊による中国人捕虜に対する
凄惨な人体実験の結果は、戦後GHQによって押収されたという。
この作品は日本国内のある都市の大学病院で行われた、アメリカ
人捕虜に対する生体実験を取り扱った小説である。
「なにが、苦しいんや」戸田は苦いものが喉もとにこみあげて
くるのを感じながら言った。
「あの捕虜を殺したことか。だが、あの捕虜のおかげで何千人
の結核患者の治療法がわかるとすれば、あれは殺したんやない
ぜ。生かしたんや。人間の良心なんて、考えようひとつで、ど
うにも変るもんやわ」
(170ページ)
主人公(と言っていいだろう)の勝呂は同僚の戸田とともに、
アメリカ人捕虜に対し3例の人体実験に加わることになる。
1.第一捕虜に対して血液に生理的食塩水を注入し、その死亡
までの極限可能量を調査す。
2.第二捕虜に対しては血管に空気を注入し、その死亡までの
空気量を調査す。
3.第三捕虜に対しては肺を切除し、その死亡までの気管支断
端の限界を調査す。
(78~79ページ)
が指示され実行された。
積極的姿勢で実験に参加していく戸田に対して勝呂はためら
いを禁じ得ない。実験には立ち会ったものの、その様子を直視
できないのである。担当将校からは侮蔑に満ちた眼差しを受
けることになる。
戸田の言葉は印象的である。戸田は勝呂と対比される役回り
だが、二律背反的なひとつの人格として見ることも可能だと
思う。ジキルとハイドのように。
170ページの引用は戸田の発言である。戸田の人間性はやはり
「神を持たない日本人」という宗教的倫理観を欠いた人間であ
る。遠藤周作さん自身がそう指摘している。戸田だけではない、
手記の書き手である看護士も同様である。
「その時はその時や。俺は兵隊で死んで結構なんや」
「なぜや」
「何をしたって同じことやからなあ。みんな死んでいく時代な
んや」
(71ページ)
この戸田の言葉からも死に直面した人間の弱さが描かれている。
「神というものはあるのかなあ」
「神?」
「なんや、まあヘンな話やけど、こう、人間は自分を押しなが
すものから--運命というんやろうが、どうしてもの脱(のが)
れられんやろ。そういうものから自由にしてくれるものを神と
よぶならばや」
(81ページ)
神について戸田はその存在の意義を自分なりに理解している。
しかし、神の教えや倫理観が、自分自身の行動を律するまでに
は至っていないのである。その点では勝呂も同様である。
戸田の手記には従姉との姦通やお手伝いさんのミツと関係を持
ち、その子を自らの手で堕胎するという過去を赤裸々に語って
いる。戸田が主人公ではないかと思えるほどの精緻さで表現さ
れる。
従姉と姦通したことも、そしてミツとの出来事も醜悪だと思っ
ている。だが醜悪だと思うことと苦しむこととは別の問題だ。
(126ページ)
戸田の手記の中に出てくる126ページの上記引用文はこの小説の
象徴的な部分だろう。「悪いことをした」と感じることは罪の
意識によって、自らの心の中で裁かれる。それはドストエフス
キーの『罪と罰』のラスコーリニコフの葛藤と同じである。
しかし心の中に「裁き」を行う規範や善悪の基準、神という人
格を持たない場合、それはどうなるのだろうか。「考え方次第
だ」という戸田の言葉が思いだされる。都合よく理解すること
で心の裁きから逃れることができる。そのように生きたほうが
楽ではないかと。
日本人は神を持たないのかという観点については、さまざまな
議論がある。倫理観を欠いた人ばかりではない。仏教思想や儒
教的倫理観で己を律している人もいる。しかし心穏やかでない
時に、人は神や超人的存在を意識する。生か死かの瀬戸際で人
間がどのような行動をとるのか、とらないのか。宗教の問題で
はない。自分の規律の問題である。強いて言えば日本人は規律
を獲得する有効な方法を知らないのではないか、そこが弱いと
ころではないか。そう思える。
「直視できない」と「見ない」との、とてつもなく大きな違いを
私たちはこの本から学ぶことができるのだと思う。
海と毒薬 (新潮文庫)/遠藤 周作

¥380
Amazon.co.jp

考えようひとつで、どうにも変るもんやわ。
新潮文庫 遠藤周作『海と毒薬』170ページ
「違いのわかる男」で有名なネスカフェ・コーヒーブレンドの
CMの渋い遠藤周作さんを覚えているのは40歳代以上の人だろう。
今は唐沢寿明さんがCMキャラクターになっている。女性に「鼻
男子」と言われてシャイな表情を見せる、NECワープロ文豪の
CMは1992年であった。
遠藤周作さんは1923年東京巣鴨生まれ。この年は関東大震災の
年である。説明不要の文豪であり、間違いなく昭和文壇の牽引
者の一人である。キリスト教徒であったことが遠藤文学の根幹
になっており、この作品においても重要な要素となっている。
『海と毒薬』は1958年に発表された遠藤周作さんの代表作であ
り、映画化やドラマ化されたのも一度や二度ではないので、映
像でご覧になった方も多いだろう。しかし原作を読む限り、こ
の作品を「完璧に映像化」するのは極めて困難ではないかと思う。
関東軍の指導の下で行われた731部隊による中国人捕虜に対する
凄惨な人体実験の結果は、戦後GHQによって押収されたという。
この作品は日本国内のある都市の大学病院で行われた、アメリカ
人捕虜に対する生体実験を取り扱った小説である。
「なにが、苦しいんや」戸田は苦いものが喉もとにこみあげて
くるのを感じながら言った。
「あの捕虜を殺したことか。だが、あの捕虜のおかげで何千人
の結核患者の治療法がわかるとすれば、あれは殺したんやない
ぜ。生かしたんや。人間の良心なんて、考えようひとつで、ど
うにも変るもんやわ」
(170ページ)
主人公(と言っていいだろう)の勝呂は同僚の戸田とともに、
アメリカ人捕虜に対し3例の人体実験に加わることになる。
1.第一捕虜に対して血液に生理的食塩水を注入し、その死亡
までの極限可能量を調査す。
2.第二捕虜に対しては血管に空気を注入し、その死亡までの
空気量を調査す。
3.第三捕虜に対しては肺を切除し、その死亡までの気管支断
端の限界を調査す。
(78~79ページ)
が指示され実行された。
積極的姿勢で実験に参加していく戸田に対して勝呂はためら
いを禁じ得ない。実験には立ち会ったものの、その様子を直視
できないのである。担当将校からは侮蔑に満ちた眼差しを受
けることになる。
戸田の言葉は印象的である。戸田は勝呂と対比される役回り
だが、二律背反的なひとつの人格として見ることも可能だと
思う。ジキルとハイドのように。
170ページの引用は戸田の発言である。戸田の人間性はやはり
「神を持たない日本人」という宗教的倫理観を欠いた人間であ
る。遠藤周作さん自身がそう指摘している。戸田だけではない、
手記の書き手である看護士も同様である。
「その時はその時や。俺は兵隊で死んで結構なんや」
「なぜや」
「何をしたって同じことやからなあ。みんな死んでいく時代な
んや」
(71ページ)
この戸田の言葉からも死に直面した人間の弱さが描かれている。
「神というものはあるのかなあ」
「神?」
「なんや、まあヘンな話やけど、こう、人間は自分を押しなが
すものから--運命というんやろうが、どうしてもの脱(のが)
れられんやろ。そういうものから自由にしてくれるものを神と
よぶならばや」
(81ページ)
神について戸田はその存在の意義を自分なりに理解している。
しかし、神の教えや倫理観が、自分自身の行動を律するまでに
は至っていないのである。その点では勝呂も同様である。
戸田の手記には従姉との姦通やお手伝いさんのミツと関係を持
ち、その子を自らの手で堕胎するという過去を赤裸々に語って
いる。戸田が主人公ではないかと思えるほどの精緻さで表現さ
れる。
従姉と姦通したことも、そしてミツとの出来事も醜悪だと思っ
ている。だが醜悪だと思うことと苦しむこととは別の問題だ。
(126ページ)
戸田の手記の中に出てくる126ページの上記引用文はこの小説の
象徴的な部分だろう。「悪いことをした」と感じることは罪の
意識によって、自らの心の中で裁かれる。それはドストエフス
キーの『罪と罰』のラスコーリニコフの葛藤と同じである。
しかし心の中に「裁き」を行う規範や善悪の基準、神という人
格を持たない場合、それはどうなるのだろうか。「考え方次第
だ」という戸田の言葉が思いだされる。都合よく理解すること
で心の裁きから逃れることができる。そのように生きたほうが
楽ではないかと。
日本人は神を持たないのかという観点については、さまざまな
議論がある。倫理観を欠いた人ばかりではない。仏教思想や儒
教的倫理観で己を律している人もいる。しかし心穏やかでない
時に、人は神や超人的存在を意識する。生か死かの瀬戸際で人
間がどのような行動をとるのか、とらないのか。宗教の問題で
はない。自分の規律の問題である。強いて言えば日本人は規律
を獲得する有効な方法を知らないのではないか、そこが弱いと
ころではないか。そう思える。
「直視できない」と「見ない」との、とてつもなく大きな違いを
私たちはこの本から学ぶことができるのだと思う。
海と毒薬 (新潮文庫)/遠藤 周作

¥380
Amazon.co.jp
