食べ物がないなら、お前は何をくれる
新潮社yomyom2010/3 桐野夏生『ただセックスがしたいだけ』
157ページ
かなりダイレクトなタイトルだがエロい小説ではない。桐野夏生の
小説である。
舞台は極寒の炭坑労働村。正確な時代設定はわからないし(戦後の
昭和期と推察されるが)、登場人物の名前からは舞台が日本なのかも
わからないという設定。
雪と氷と寒風と曇天に封じ込められ、コウサは毎日が憂鬱でならな
かった。寒さにも堪えられらなかったが、コウサが暮らす炭坑労働村
には、何の楽しみもないのだ。村に住んでいるのは、独り身の男
ばかり。若い女どころか、老婆さえもいなかった。(151ページ)
労働村には、酒も甘い物もなく、本もなければ雑誌もない。映画も
来ないし、何の娯楽もなかった。酒がないのは、酒癖が悪い男が
暴れるのを警戒してだし、甘い物があると贅沢を覚えてさぼるから
だった。(152ページ)
まるで刑務所のような過酷な労働環境におかれた主人公のコウサは、
川がすっかり凍りついたある日、労働村の男たちが急に色めき立ち
はじめたのに気づく。凍りついた川を渡って、女たちがやってくる
のであった。
凍った川を渡ってきたのか。コウサは絶句した。川の対岸には
違う国があると教えてくれたのは、魚も凍るのか、と聞いた
コウサを笑った男だった。(中略)そこに住まう人は貧しく船ひとつ
持たず、囚人のような暮らしをしてるのだと。(156ページ)
その夜がやってくる。コウサのもとに一人の女性がやってきた。
「食べ物はあるか?」(156ページ)
しかし、事情を知らなかったコウサは、何の準備もしていなかった。
食べ物は何もなかった。自分の分はすべて食べてしまったからだ。
「食べ物がないなら、お前は何をくれる」
女が厳しい目で聞いた。
「何もありません」
コウサは正直に答えてから、とても残念に思った。女が貧しい
形(なり)をしているので、何かを与えたいと強く思ったのだ。
勿論、女の浅黒い容貌が嫌いじゃなかったせいもある。いや、
そちらのほうが強かった。突然現れた女に、気に入られたかった。
「ないなら仕方ない」
女は布をもう一度頭に被り、さらに身体にきつく巻き付け始めた。
「どこに行くんですか」
他の男のところに行くのだと気付いたコウサは慌てた。
「明日何か用意するから、ここにいてください」
「駄目だ。朝までに戻る決まりがある。明日また来る」
(157ページ)
フォークロア(民間伝承)である。かつて郷(くに)に存在した
女と男の関係のようだ。女は男から食料や石炭を受け取り、
その対価として体を与える。現在の日本では「売春」となる
犯罪行為である。
コウサは女に来て欲しいという一心で、村の食料や石炭を盗む。
女に気に入られたいという気持ちが強くなるほどに、盗む量も
増えていく。
タイトルの「ただセックスがしたいだけ」とは、コウサの気持ち
ではない。それは彼を取り締まったであろう者が、犯罪の動機と
して記すはずの言葉である。切ない話である。
セックスは素晴らしいものだ。しかしセックスとは、性欲のみで
行う行為ではないはずだ。幸せでない者同士の肉体的な絆は、
純粋な心の裏腹に出てくる偽りのない情である。
貧しさが生み出す女と男の関係。それが犯罪とされるのは、
我が国が豊かになった証拠かもしれない。しかし売春と買春、
これらの行為が今もなくならないのはなぜか。
桐野氏が時代設定を不明にしているのは、このテーマを、
過去の一時期に起こった出来事として扱いたくなかったからに
違いない。
この直截なタイトルのせいで、読後にたまらなく切なくなる。
とてもおもしろい短編小説だ。
yomyom ( ヨムヨム ) 2010年 03月号 [雑誌]/著者不明

¥680
Amazon.co.jp


新潮社yomyom2010/3 桐野夏生『ただセックスがしたいだけ』
157ページ
かなりダイレクトなタイトルだがエロい小説ではない。桐野夏生の
小説である。
舞台は極寒の炭坑労働村。正確な時代設定はわからないし(戦後の
昭和期と推察されるが)、登場人物の名前からは舞台が日本なのかも
わからないという設定。
雪と氷と寒風と曇天に封じ込められ、コウサは毎日が憂鬱でならな
かった。寒さにも堪えられらなかったが、コウサが暮らす炭坑労働村
には、何の楽しみもないのだ。村に住んでいるのは、独り身の男
ばかり。若い女どころか、老婆さえもいなかった。(151ページ)
労働村には、酒も甘い物もなく、本もなければ雑誌もない。映画も
来ないし、何の娯楽もなかった。酒がないのは、酒癖が悪い男が
暴れるのを警戒してだし、甘い物があると贅沢を覚えてさぼるから
だった。(152ページ)
まるで刑務所のような過酷な労働環境におかれた主人公のコウサは、
川がすっかり凍りついたある日、労働村の男たちが急に色めき立ち
はじめたのに気づく。凍りついた川を渡って、女たちがやってくる
のであった。
凍った川を渡ってきたのか。コウサは絶句した。川の対岸には
違う国があると教えてくれたのは、魚も凍るのか、と聞いた
コウサを笑った男だった。(中略)そこに住まう人は貧しく船ひとつ
持たず、囚人のような暮らしをしてるのだと。(156ページ)
その夜がやってくる。コウサのもとに一人の女性がやってきた。
「食べ物はあるか?」(156ページ)
しかし、事情を知らなかったコウサは、何の準備もしていなかった。
食べ物は何もなかった。自分の分はすべて食べてしまったからだ。
「食べ物がないなら、お前は何をくれる」
女が厳しい目で聞いた。
「何もありません」
コウサは正直に答えてから、とても残念に思った。女が貧しい
形(なり)をしているので、何かを与えたいと強く思ったのだ。
勿論、女の浅黒い容貌が嫌いじゃなかったせいもある。いや、
そちらのほうが強かった。突然現れた女に、気に入られたかった。
「ないなら仕方ない」
女は布をもう一度頭に被り、さらに身体にきつく巻き付け始めた。
「どこに行くんですか」
他の男のところに行くのだと気付いたコウサは慌てた。
「明日何か用意するから、ここにいてください」
「駄目だ。朝までに戻る決まりがある。明日また来る」
(157ページ)
フォークロア(民間伝承)である。かつて郷(くに)に存在した
女と男の関係のようだ。女は男から食料や石炭を受け取り、
その対価として体を与える。現在の日本では「売春」となる
犯罪行為である。
コウサは女に来て欲しいという一心で、村の食料や石炭を盗む。
女に気に入られたいという気持ちが強くなるほどに、盗む量も
増えていく。
タイトルの「ただセックスがしたいだけ」とは、コウサの気持ち
ではない。それは彼を取り締まったであろう者が、犯罪の動機と
して記すはずの言葉である。切ない話である。
セックスは素晴らしいものだ。しかしセックスとは、性欲のみで
行う行為ではないはずだ。幸せでない者同士の肉体的な絆は、
純粋な心の裏腹に出てくる偽りのない情である。
貧しさが生み出す女と男の関係。それが犯罪とされるのは、
我が国が豊かになった証拠かもしれない。しかし売春と買春、
これらの行為が今もなくならないのはなぜか。
桐野氏が時代設定を不明にしているのは、このテーマを、
過去の一時期に起こった出来事として扱いたくなかったからに
違いない。
この直截なタイトルのせいで、読後にたまらなく切なくなる。
とてもおもしろい短編小説だ。
yomyom ( ヨムヨム ) 2010年 03月号 [雑誌]/著者不明

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