「ふん・・・・・・そりゃ、医者のまちがいですよ。
僕の子です。僕は覚えがあるんだ」

新潮文庫 石川達三「青春の蹉跌」241ページ

君は何べん言っても解らんのだな。産みたい気持ちは解るが、
産んだらその後はどうなるんだ。君が育てることが出来るかい。
君は学生だよ。僕も学生だよ。自分ひとりの生活だって
やれやしないじゃないか。

君が産みたいというのは我儘な感情に過ぎないんだ。
具体的な生活の裏付けはどこにも無い。産むというのはね、
その子の生活を保証し、幸福を保証するという確信があって
始めて許されることなんだ。何の具体的な保証もなしに子を
産むのは、犬や猫のすることだ。人間のする事じゃない。
(173ページ)


司法試験を目指す大学生賢一郎の青春の悲劇である。
悲劇は司法生でありながら世間を知らない未熟性による悲劇
であり、その結末はどんでん返しの皮肉なものである。

賢一郎にとっての法律は自己弁護のため手段である。

円満解決のためのたった一つの方法は、何百万のかねを登美子に
渡して、それを代償に、生涯の縁切りを誓約させることだった。
しかしそんなかねはどこにも無い。またそれとても、個人的契約に
過ぎないものであって、法律的にはあまり効果はない。何年か
経ってから後に、登美子から認知訴訟が提起されることまでも
防ぐことはできないのだ。(199ページ)


この本は既に古色としているという評価がなされるが、
そうとは思えない。この小説の悲劇の背景にはお金の問題がある。

小説の背景である1960年代(作品は68年発表)には、
世間体を気にして堕胎が行われていた風潮が、
現在は出産後の幼児虐待の問題に変化しているだけである。
お金がない、生活が苦しいという悲劇の温床は何ら変わりはない。

女とは一体何であったろうか。なぜ女のあらゆる皮膚、
あらゆる動作が、男にとって誘惑であるのか。登美子は妊娠した。
もし彼女が妊娠さえしなければ、おれは殺す必要もなかったし、
従っておれの人生を滅茶々々にすることもなかった。
ところが女とは妊娠するように造られており、それが本来の使命
でもあるのだ。そしてその事が、登美子の命取りになったというのは
全くの不合理だ。何かが狂っている。(235~236ページ)


現在の高度に発達した文化社会は、女の妊娠と言うことと
根本的に矛盾する何かを持っているに違いない。
端的に言って妊娠はしばしば彼等の不幸の原因であり得るのだ。
(236ページ)


長い引用であったが、この部分はこの小説のハイライト部分だ。
(私の主観だが)
ここには賢一郎の男尊女卑、生命の軽視、人権意識の欠如、
卑怯きわまりない自己弁護、責任転嫁、問題のすり替え・・・
まさに「悪徳」のオンパレードである。

しかしこれらの「悪徳」は21世紀になって消えたのだろうか。
大臣から「女性は子を産む機械」という発言があったのは
ごく最近のことである。

エンディングの大どんでん返しは、まさに総体としての
女性から男性への強烈な肘撃ちであり、復讐劇でもある。
悲劇としては多分にシェイクスピア的である。

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