「勝てる見込みはありません。
大体日本の海軍は米英を向こうにまわして
戦争するように建造されておりません」

新潮文庫 阿川弘之「米内光政」304ページ

米内光政という海軍軍人の名前をご存じだろうか。
戦前の政治混乱の時期に首相を任じられたが、
わずか6ヶ月で倒れた。総理大臣としては、
大きな実績を残すことができなかった。

昭和天皇からの信任が厚く、首相だけでなく
7つの内閣で海軍大臣を歴任した。
戦後の幣原内閣で海軍の幕引きを行った人である。

1880年(明治13年)生まれ。岩手県盛岡市出身で、
海軍兵学校卒業時の成績、いわゆるハンモックナンバーは
中の下。兵学校や士官学校時の成績の優劣が、
その後、退役までついてまわり、出世や配置を左右するという、
おかしな旧軍のシステムの中にあっては、異例の出世であった。

無口で演説が苦手であった。東北弁が気になって
あまり話すのを好まなかったとも言われているが、
無口な人だけに、かえって発言には重みがあり、
時に日本の運命に関わる決定的な言葉を残した。

引用文は1939年(昭和14年)8月8日に行われた
五相会議(首相、蔵相、外相、陸相、海相で構成)における、
三国同盟の締結をめぐる米内海軍大臣の言葉である。

当時海軍は、三国同盟の締結がアメリカやイギリスを刺激して
対米英戦争になることを危惧し、締結に猛反対していた。

このときの海軍政務は米内光政を大臣に、次官は山本五十六、
軍務局長は井上成美という「海軍左派」と言われた同盟反対派で
構成され、一糸乱れぬコンビネーションをみせた。

政治家としての米内光政の評価は今も分かれているが、
阿川弘之の作品からは優れた人物という評価がにじみ出ている。

戦後、東京裁判での有名なエピソードがある。
米内はGHQからの信任も厚く、健康問題で固辞したにも
かかわらず、幣原内閣の海軍大臣留任を求められ、受けた。
既に高血圧症や帯状疱疹の悪化で痩せ衰えていた。

東京裁判では陸軍大将畑俊六をかばった。畑は米内内閣の
陸軍大臣で陸軍の意向を受けて米内に協力せず、倒閣した張本人だ。
裁判では畑が戦争遂行のため米内内閣を倒閣したことが
争点になっており、米内は証人として呼ばれたのだが、
法廷では徹底的にとぼけて検察をはぐらかし、証言を拒んだ。

(あんな阿呆な総理大臣を見たことがない)(613ページ)

ウェッブ裁判長にそう罵られた。
しかし、首席検事のジョセフ・キーナンはそう見ていなかった。

「あれは米内が畑をかばったのだ。日本側の証人を何百人も
見たが、あんな人はいない。国際軍事法廷で普通の人間に
あれだけの芝居が出来るものではない」(615ページ)


キーナンは米内の人柄に感激し、体調を理由に断る米内に、
私的晩餐会への直筆の招待状を、何度も送ったという。
畑俊六は死刑を免れた。

もう一つエピソードの引用を。

銀行名として風変わりなだけでなく、甚だ当世向きでは
なかったが、頼んだ以上これに決まり、地元では米内の
書いてくれた「親和」の字を京都の扇屋に送って、
得意先に配る扇子に仕立てさせた。


はじめ、珍しい名称に馴染みにくく感じた人もいたらしいが、
のちに九州の有力地方銀行として広く知られるようになり、
現在佐世保市島瀬町の本店内に「親和 光政書」の扁額が
飾ってある。(300ページ)


1939年(昭和14年)9月1日に国策合併によって誕生した銀行が、
佐世保とゆかりがある米内(当時海軍大臣)に名付け親を請うた。
戦争ムード一色の日本で、しかも軍港都市佐世保の新銀行の
名前を「親和」とつけた。現在の親和銀行の誕生であった。
この時の米内の心うちはどのようなものだったのだろうか。

個人的な意見だが「米内光政」はNHKの大河ドラマに
出来ると思う。ちょっと評判がよかったからといって
再び田渕久美子脚本で大奥ものをやるというのには、
違和感を感じる。

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