迷宮は黄昏の光で満ちて 011 | 百夜百冊

百夜百冊

読んだ本についての。徒然。

アキはやれやれと肩をすくめると、強化ガラスの砕けたケースに向き合う。そこには、確かにグリモワールらしきものがあった。まあ、ようするに禍々しい気配をまとった本がある。
重厚な革で装丁されたその本はあきれたことに、ひとの形を貼り付けられていた。もっといえば、ふたつの乳房が表紙に突き出ておりその下には肋骨の皺ができている。もしかすると、おんなの皮を剥いで乾燥させて縮めたうえで貼り付けたのかもしれない。
まあ、ただの虚仮威しである可能性のほうが高いのだろうが。しかし、その人皮を纏った表紙の放つ呪われた気配は半端ない。一応呪詛の専門家であるアキとしては、素手で触れるのは正気の沙汰ではないと思う。
けれど、残念なことに手にする以外の選択肢がアキには残されていない。
アキは、九字の密印をこころの中で活性化させながら、本に手をのばす。おとこたちが、息をのむのがわかる。なんだよ、こいつら度胸ないよねとこころのなかで思う。
アキは、本を手にする。ぞっとするような感覚が手から這い上がってくるが、ある意味それは馴染の感覚でもあった。ハンマーのおとこが袋の口を開いて、アキに指し示す。なんらかの、呪詛封じが施された袋のようである。こんな代物を、剥き出しで持ち歩かない程度の常識は、持ち合わせているようだ。
アキは蒼白となった顔で、本を差し出そうとする。呪詛の力が全身にまわり、虚脱感に襲われ膝をつく。
「おい」
ハンマーのおとこが、手をだそうとする。が、呪詛の禍々しさに怯えてかアキには触れようとしない。
アキは頭の中で術式を展開するので、忙しい。黄金の満月を、こころの中に浮かび上がらせる。犬神憑にとって、満月はとても重要だ。しかし、本物の満月である必要は必ずしもない。自身に暗示をかけることで、満月の光を浴びているのと同じ境地にいたることができる。
「はやくよこせ」
うずくまるアキに、ハンマーのおとこがようやく手をだそうとしたその時、頭の中で術式がなった。アキは全身を凶暴な力が駆け巡るのを、感じる。
アキは、顔をあげた。おとこたちは獣毛に覆われナイフのように尖った犬歯がむき出しになり、鬼火がごとく燃える両目をもったアキの顔に一瞬たじろぐ。
ゾアントロピーは、アキの全身を呪術の力で満たしている。その身体能力は、野生の獣と変わらぬレベルとなっていた。
「るおぉぉをぉぉぉーーーー!!!」
アキは、正面から咆哮をはなつ。それは、猛獣が放つ咆哮と遜色がない迫力があった。ふたりのおとこは、スタングレネードを食らったように一瞬動きをとめる。
アキはその隙に、出口に向かって跳躍した。忌々しいことに、出入り口のところを見張っていたおとこは冷静にアキに向かって二十二口径らしき拳銃を撃つ。
銃声は腹立たしいほど、小さい。
正確に左胸を撃ち抜かれたアキは思わずグリモワールを取り落とす。しかし、かろうじておとこの横をすり抜け外に出ることに成功する。さらに、背中に二発銃弾を受けながら通り向こうの路地へ逃げ込む。
アキは路地を走りながら、携帯端末を取り出し緊急通報ボタンを押す。これで警察に現在位置と、緊急信号が送られるはずだ。
まあ、このいかれたシン・トウキョウの警察がどの程度まじめに対応してくれるかは、疑問であるが。
三発の銃弾は、ゾアントロピーで強化された筋肉が内臓を傷つける前にくいとめている。ただ、この呪術的ドーピングが切れれば無事では済まないだろうことはわかっていた。
グリモワールは奪われたが、それでもバイト代程度のはたらきはしたと思う。しだいに呪術的強化の限界がきて、激痛が襲ってきた。アキは膝をつき、そのまま路地に倒れ込む。やばいと思うが、意識はあっというまに暗黒にのまれた。

◆   ◆   ◆

「ようこそ、我が友よ。よくきてくれた」
彼は、その部屋に入ると身支度をする旧友に会釈をし、無造作にソファへ腰をおろす。その無遠慮な態度に気を悪くしたふうもなく、旧友は朗らかな笑みとともにグラスとボトルを差し出す。
彼はマッカランの五十年ものらしいボトルをみて少し眉をひそめたが、旧友が笑みとともに勧めてくるのを素直に受け入れる。
「もう少し、支度に時間がかる。一杯やりながら、待っていてくれ、友よ」
彼は、おそらく数百万はするであろうボトルから、無造作にグラスへ琥珀色の酒を注ぎ込む。
「ああ、そういえば」
彼は肩からかけていたバッグから、紙の袋を取り出した。
「誕生日だからね、祝いの品を持ってきた」
目にも鮮やかなライト・ブルーに染められた瀟洒なスーツを身に着け終わった彼の旧友は、紙の袋を手に取る。
「誕生日おめでとう、トキオ・ロングドウン・ナイト」
トキオと呼ばれた彼の旧友は、紙袋の中身を取り出す。それは、古めかしい拳銃であった。
大戦期の帝国軍隊が使っていた、八式拳銃である。トグルアクションと呼ばれる、独特の機構を持った拳銃であった。トキオはその美貌を、陽だまりに咲いた花のような笑みでみたす。
「わが友、ヒース・レイヴン。ありがとう。とても、うれしいよ」
ヒースと呼ばれた彼は、少し苦笑を浮かべる。
「珍しいといえば多少珍しいが、そんなにたいそうなものではない。トキオ、君は不思議だね。ダンジョンでも銃なんて使うことがなかったのに、こんなアンティークな武器をよろこぶなんて」
トキオは手にした銃をベルトの背中に差し込みながら、答える。
「これは僕たちの世界には存在しない文化が、生み出したものだ。最新の銃器にはない、独特な工芸品としての風格がある。とても、興味深いね」
トキオも自身のグラスにマッカランを注ぐと、ヒースのグラスと触れ合わせ一気に飲み干す。
「さて、ゆこうか。我が友よ。今宵は、ささやかな宴を用意している」
トキオの顔は、その言葉と裏腹に少し鋼の怜悧さを纏っている。ヒースは、薄く笑う。なぜかその表情に、かつて共にダンジョンへ下ったときの記憶を呼び覚ますものがあったからだ。
ふたりは部屋を出ると、緻密に描かれた絵画や巧みな細工の工芸品が並べられちょっとした美術館のような廊下をとおりぬけると、重厚なつくりの大きな扉の前についた。そしてその扉の前には、老境に達した風情のおとこが佇んでいる。
おとこは特徴のない印象が薄い顔立ちであったが、片目を眼帯で覆っており姿勢は老人らしくない軍人のような印象すらあるしっかりしたものであった。
「やあ、アカワ。会場のぐあいは、どうだい」
アカワはどこかニヒルな笑みを隻眼の顔に浮かべると、少し会釈しながら答える
「トキオ様、ご命令のとおりしっかりと仕上げておきましたよ」
トキオは、真夏の太陽がごとく大きく笑う。
「それは重畳だね、ご苦労だった。では、いこうか、我が友ヒース」
そういうと、トキオは重厚な扉をいっきに開く。