【1】自己憎悪社会 |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

  「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

突きつめれば「命どぅ宝」!
【新】ツイッター・アカウント☞https://twitter.com/IvanFoucault
徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。


“ミシェル・フーコー
――ピエール・リヴィエールとエルキュリーヌ・バルバンとのあいだは、時間にすれば半世紀ですが、
距離としてはほんの数キロと離れていません。
ある意味で、2人とも
自分たちが生まれた環境と社会階級に刃向かった人間でもあるともいえるのです。
わたし〔フーコー〕は、ピエール・リヴィエールの行為が
――母親殺しとほかの3件の殺人を含むものでありながら――
苦しみに喘ぐ精神や犯罪的精神の発露であるとは考えていません。
たしかに、それは何かの表出であり、
エリキリュリーヌの場合と比べて
信じがたいほどの暴力性をともなうものであったけれども、
ピエールが育ったノルマンディーの農村社会は
人間の暴力と堕落を日常生活の一要素として受け入れていました。
その意味で、ピエールは 彼が属する社会の産物だった
それは
エリキュリーヌが彼女の属するブルジョワ社会の産物であったのと
まったく同じ
であり、
また、われわれこの洗練され、機械化された環境の産物であるのと
まったく同じこと
なのです。
罪を犯したあと、ピエールは
村の住民たちの手で簡単に取り押さえられてもよさそうなものでした。
しかし、住民たちは、
みずから法を司ることは共同体の義務ではないと感じていた。
復讐者の役を引き受け、
状況を正す義務を負った人間がいるとすれば、
それはピエールの父であるとかたくなに信じていたのです。
批評家のなかには、
ピエール・リヴィエールに関するわたしの書物を
実存主義理論の再確認と見なす人もいた。
わたしからすれば、とんでもない話です。
わたしは、ピエールを
彼が生きた時代の宿命のイメージとしてとらえている。
エリキュリーヌが
19世紀末、つまり世界が流動化し、
何が起きても、どんな狂気が現われてもおかしくない時代の
楽観主義を映し出していた
のと まったく同じ
なのです。”
(「M・フーコー、
『権力構造』を分析する哲学者とのコンプレックス抜きの会話」
 /菅野賢治【訳】
『ミシェルフーコー思考集成Ⅶ』
 2000年、筑摩書房、300-301頁)

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東京 渋谷 母娘殺人未遂事件
15歳少女 “死刑になりたくて

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220821/k10013780941000.html
2022年8月21日 11時56分 NHK

20日夜、東京・渋谷区の路上で50代の母親と10代の娘が刃物で背中などを刺され、大けがをした事件で、殺人未遂の疑いで逮捕された少女は、埼玉県に住む15歳の中学生と確認されました。
調べに対し「死刑になりたくて、たまたま見つけた親子を刺した」などと供述しているということで、警視庁が詳しいいきさつを捜査しています。

20日夜7時半ごろ、渋谷区円山町の路上で、53歳の母親と19歳の娘が背中や腹、腕などを刃物で刺され、病院に搬送されました。

警視庁によりますと、2人は現場付近を歩いていたところを突然、背後から刺されたとみられ、いずれも全治3か月ほどの大けがをしたということです。

この事件で、その場で取り押さえられ殺人未遂の疑いで逮捕された少女が、埼玉県戸田市に住む15歳の中学3年の女子生徒と確認されたことが警視庁への取材で分かりました。

警視庁によりますと、女子生徒は親子2人と面識はないとみられ、調べに対し「死刑になりたいと思って、たまたま路上で見つけた親子をナイフで刺した」などと供述し、容疑を認めているということです。

女子生徒からは襲撃に使用した包丁に加え、衣服のポケットに入れるなどしていた2本の、合わせて3本の刃物が押収されていて、警視庁が詳しいいきさつを捜査しています。

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京王線刺傷事件 服部恭太容疑者を再逮捕
悪役「ジョーカー」の服装は「弱さをごまかすため」か

東京新聞Web 2021 年11 月23 日 07 時51 分

東京都調布市を走行中の京王線の電車内で起きた刺傷事件で、警視庁調布署捜査本部は22日、複数の乗客に火を付けて殺害しようとしたとして、殺人未遂と現住建造物等放火容疑で、住所不詳、無職服部恭太容疑者(25)を再逮捕した。
死刑になるために有効かつ効率的な手段で、多くの人を惨殺する計画を実行した」と容疑を認めている。刑事責任能力を調べるため鑑定留置される見通し。
 再逮捕容疑では、10月31日午後8時ごろ、国領駅付近を走行中の京王八王子発新宿行き特急電車の先頭から6両目で、都内の女性会社員(60)ら10~60代の男女15人にライターオイル3リットルをまき、火の付いたライターを投げ、殺害しようとしたとされる。床の一部が焼けたが、火が燃え移った人はいなかった。
 車両に防犯カメラは付いておらず、捜査本部はSNSに投稿された動画を解析して被害者を特定した。
􀘙捜査関係者によると、服部容疑者は調布駅で乗車し、8両目に座っていた都内の男性(72)の胸をナイフで刺した後、逃げる乗客を追って6両目に移動。5両目との連結部手前でオイルをまいた。「乗客を先頭車両まで追い詰めて逃げられなくしてから火を付けたかった」と話しているという。
 服部容疑者は事件当日、刺された男性に対する殺人未遂容疑で現行犯逮捕されていた。男性は一時意識不明の重体となり、16人が軽傷を負った。
◆動画撮られ「内心はドキドキ」
 事件直後、車両のシートに座り、ナイフを片手にたばこをふかす服部容疑者を撮影した動画がSNSで拡散した。映画「バットマン」シリーズでためらいなく人を殺す悪役「ジョーカー」に似せた服装だった。
 捜査本部の調べに、当時の心境を「撮影されているのは分かっていた。今更じたばたするのは格好悪いので平静を装ったが、内心はドキドキしていた」「普段はほとんどたばこを吸わない」と話したという。捜査関係者は「彼は本当は気が小さい。
精いっぱい虚勢を張ったのでは」と話す。
 服部容疑者は福岡市出身。母親と妹と暮らし、地元の中高を卒業後、介護ヘルパーやネットカフェ店員として働いた。3年前に携帯電話関連会社に就職したが、今年5月に客とトラブルになり、6月に退職した。
􀘙捜査関係者によると、精神的にもろい部分があり、死のうとしたが死にきれなかった過去もあった。退職後、死刑になるため大量殺人を思い描き、ネット通販でナイフを買ったという。
􀘙7月末、家族に「気分転換に旅行に行く」と福岡を離れ、神戸と名古屋に1カ月ずつ滞在。8月の小田急線刺傷事件を参考にし、ハロウィーンの東京の電車で事件を起こそうと考えた。
 孤独な悪のカリスマであるジョーカーに、以前から憧れていた。8月下旬、ジョーカーが登場する映画を鑑賞し、改めて陶酔。ジョーカー姿で事件を起こそうと9月末に東京へ移動、10月に紫のジャケットなどを「勝負服」として買った。
渋谷の美容院で金髪に染めた。
 同31日、ジョーカーに自分を近づけて事件を起こしたとみられるが、駆け付けた警察官に「疲れた」と漏らしたという。
 殺人事件の被告らの心理鑑定を手掛ける一般社団法人「こころぎふ臨床心理センター」の⾧谷川博一センター⾧は「人間関係や仕事がうまくいかず孤立していった自身の境遇をジョーカーに重ね、社会に対する復讐心から凶行に走った。衣装を似せて、ふてぶてしい態度を取ったのは、弱さをごまかすためだったのではないか」と話した。(天田優里、山田雄之)

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「申し訳ない」と被害者に初めて謝罪
 事件「起こすべきではなかった」
京王線刺傷「ジョーカー」事件で被告人質問

7/20(木) TBS NEWS DIG Powered by JNN
https://news.yahoo.co.jp/articles/8f6f018a8023ba0ec2eaf29d7043f041f7c6ff75


おととし、東京・調布市を走行中の京王線の車内で乗客を刺し、車内に放火した罪などに問われている男の裁判で、男が被害者に対して「申し訳ない」と初めて謝罪の言葉を口にしました。

無職の服部恭太被告(26)はおととし10月、京王線の車内で乗客の男性(当時72)をナイフで刺して大けがをさせた後、車内に火をつけ、別の乗客12人を殺害しようとした罪などに問われています。

きょう午後行われた裁判の被告人質問で服部被告は、弁護側からナイフで刺された男性や別の乗客12人について問われると、「申し訳ないと思っています」などと述べ、初めて謝罪の言葉を口にしました。

また事件については「起こすべきではなかったと思います」と話し、死刑になりたい気持ちが今もあるのか問われると「全くないです」と述べました

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犯行の動機が、
死刑になりたくて
たまたま見つけた親子を刺した
あるいは、
死刑になるために有効かつ効率的な手段で、
多くの人を惨殺する計画
を実行した」
・・・というものならば、
懲役などの罰則や制裁を課すことで
犯罪を抑制しよう
、とする刑法の前提は、
これら犯罪の前には、歯が立たない事になる。

死刑になるための犯行〉という現象を
目の当たりにして、これら犯行や現象を
私たちは、どう捉えるべきだろうか。


こうしたテーマは、実はこれまで何度か書き、
そして何度も引用してきた、
在野哲学者エリック・ホッファーの叙述が、
その説明や理解の鍵として、
うってつけのように思える。
それは、
ホッファーによる或る叙述。


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“        〈100〉
驚くべきことに、
われわれは自分を愛するように隣人を愛する。
自分自身にすることを他人に対して行なうのだ。
われわれは自分自身を憎むとき、他人憎む
自分に寛大なとき、他人にも寛大になる。
自分を許すとき、他人も許す。
自分を犠牲にする覚悟があるとき、
他人を犠牲にしがちである。

 世界で生じている問題の根源
自己愛にではなく、自己嫌悪にある


(エリック・ホッファー【著】/中本義彦【訳】
『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』
2003年、作品社、53頁)

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自分自身にすること他人に対して行なう
という指摘は、
ホッファーだけでなく、
エーリッヒ・フロムも行なっている。


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"     〈d 自己愛〉

 ……自分を愛することと他人を愛することは
根本的に矛盾するという説は、
心理学上の証拠によって裏づけられるのか。
自分にたいする愛は利己主義と同じ現象なのか、
それとも反対
〔自己愛は利己主義と反対のもの〕なのか
さらに、
現代人の利己主義は、
ほんとうに、

知的・感情的・感覚的能力を備えた一個人としての
自分自身にたいする関心なのか
現代人は、
その社会的・経済的役割の付録になってしまった
のではないか

現代人の利己主義は自己愛と同じものなのか

むしろ
自己愛が欠如しているために
利己主義的になっている
のではなかろうか。


 利己主義と自己愛の心理学的な側面について論じる前に、
他人にたいする愛と自分にたいする愛とは
たがいに排他的であるという考え
論理的に間違っていること
指摘しておく必要がある。
隣人を一人の人間として愛することが美徳だとしたら、
自分自身を愛することも美徳であろう。
すくなくとも悪ではないだろう。
なぜなら自分だって一人の人間なのだから。
そのなかに自分自身を含まないような人間の概念はない。
自分自身を排除するような学説は 本質的に矛盾している。
聖書に表現されている
汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方の裏にあるのは、
自分自身の個性を尊重し、
自分自身を愛し、理解すること
他人を尊重し、愛し、理解することとは
切り離せない
という考えである。
自分自身を愛することと
他人を愛することとは

不可分の関係にあるのだ。

 いまや私たちは、
私たちの議論の結論を根拠づけている基本的な心理学上の前提について
述べなければならない。
一般に、そうした心理学上の前提とは次のようなものだ。
すなわち、
他人だけでなく私たち自身も、
私たちの感情や態度の「対象」になりうる。

他人にたいする態度と自分自身にたいする態度
矛盾しているどころか、基本的に連結しているのである。
他人への愛と自分自身への愛は
二者択一のようなものではないということになる。
それどころか、
自分自身にたいする愛の態度は
他人を愛することのできる人すべてに見られる

原則として、愛は、
「対象」と自分自身とのあいだのつながり

という点に関していえば、分割できないものである。
純粋な愛は
生産力の表現であり、
そこには
配慮、尊敬、責任、理解(知)が含まれている。
愛は
誰かに影響されて生まれるものではなく、
自分自身の愛する能力にもとづいて、
愛する人の成長と幸福を積極的に求めることである。
愛とは、本質的に
人間的な特質が具体化されたものとしての
愛する人を、根本において肯定することである。
一人の人間を愛するということは
人間そのものを愛することでもある。
自分の家族を愛するが、他人には目を向けない
といったことを、
ウィリアム・ジェイムズは「分業」と呼んだが、
これは根本的に愛することができないことのしるしである。
人間そのものを愛する というのは、
特定の個人を愛することの後からくる抽象的なものだと、
しばしば考えられているが、そうではない。
たしかに現実には、
特定の個人を愛するときに
はじめて人間そのものを愛することになるが、
人間そのものを愛することは
あくまで特定の人間を愛することの前提
なのである。

 以上のようなことから、
私自身も 他人と同じく私の愛の対象になりうる
ということになる。
自分自身の人生・幸福・成長・自由を
肯定することは、
自分の愛する能力、
すなわち
気づかい、尊敬、責任、理解(知)に
根ざしている。
もしある人が生産的に愛することができるとしたら
その人はその人自身をも愛している
もし他人しか愛せないとしたら
その人はまったく愛することができないのである。

 自分自身への愛と他人への愛が
基本的につながっている
としたら、
利己主義を どう説明したらよいだろうか。
というのも、
利己主義は
他人にたいする純粋な関心を
いっさい排除しているように見える。
利己的な人は
自分自身にしか関心がなく

何でも自分の物にしたがり、
与えることには喜びを感じず、
もらうことにしか喜びを感じない。
利己的な人は
外界を、自分がそこから何を得られるか
という観点からのみ見る。
他人の欲求にたいする関心も、
他人の尊厳や個性にたいする尊敬の念も、
もたない。
利己的な人には自分しか見えない
彼は、
自分の役に立つかどうか
という観点から、いっさいを判断する。
そういう人は
根本的に愛することができない


 だとしたら、
他人への関心と自分自身への関心は
たがいに相容れないものだ
ということになるのだろうか。
利己主義と自己愛とが同じものだとしたら、
そうなるだろう。
しかし、
〔他人への関心と自分自身への関心とは相容れない、という〕
この仮定は誤りである。
そしてこの誤りがもとになって、
私たちの論じている問題に関する、数多くの間違った結論が
生まれたのだ。
利己主義と自己愛とは、
同じどころか、まったく正反対である

利己的な人
自分を愛しすぎるのではなく、
愛さなさすぎるのである。
いや実際のところ、
彼〔利己的な人〕は自分を憎んでいる
のだ。
そのように自分自身にたいする愛情と気づかいを
欠いているのは、
彼が生産性に欠けていることの一つのあらわれに
ほかならないのだが、
そのおかげで、
利己的な者〕は
空虚感欲求不満から抜け出すことができない
当然ながら
彼〔利己的な者
不幸で、
人生から満足をつかみとろうと必死にもがく
自分で自分のじゃまをしている

自分自身をあまりに愛しすぎているかのように見えるが、
実際には、真の自己を愛せず、
それをなんとか埋め合わせ、

ごまかそうとしてる
のである。

 フロイトによれば、
利己的な人間は
ナルシシズム傾向がつよく、
いわば
自分の愛を他人から引きあげてしまい、
自分自身に向けている〔という〕。
たしかに利己的な人は
他人を愛することができない

同時に
自分自身を愛することもできない
のである。”

(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『【新訳版】愛するということ』
1991年、紀伊国屋書店、92-97頁)

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自分自身に対する態度と他人に対する態度とが
根本的に繋がっている
、のだとすれば、
死刑になるために他人を刺そうとした》犯行や事象の説明になる。

愛の欠如状態〉と、
ヘイトや差別を含む
広い意味での〈暴力性〉や〈憎悪〉、
そして、
ホッファーの箴言やフロムの叙述を踏まえれば、
他者憎悪≒自己憎悪》が、
今日の日本社会に蔓延している

やまゆり園事件が起きたとき、
犯行者の植松聖の言動を
「神」だとして賛同する反応

部分的にではあっても、
ネット上に見られた

つまり、こうした犯行現象
犯行者個人だけで収まる問題ではなく、
社会全体に広がっている危機的状況

と言えるのではないだろうか。

障がいをもったお子さんをお持ちの、
放送局記者の神戸金史氏が、
植松の事件と植松の言動を受けて、
その子をもったことの喜びを、
フェイスブックに綴(つづ)った文章が反響を呼び、
やがて書籍化される事となる。



金子氏の文章を新聞で取り上げた数日後に、
その新聞記事を読んだ読者から、
神戸氏の会社宛てに怒りのハガキが送られてきたという。

権利ばかり主張して 本当に腹が立ちます
もっと社会のお荷物であるという事を自覚して下さい
充分謝ってから言いたいことを述べて下さい」

(神戸金史【著】『障害を持つ息子へ』ブックマン社、2016年、27頁)

こうした葉書を送ってきた投函者にたいして、
神戸氏は、次のように斟酌(しんしゃく)する。

役に立つか立たないか
そんな価値観苦しんでいる人
自分より役に立たない人』として
障害者を見出しているように見え」、
こうした憎悪

社会に根深く裾野を伸ばしつつある
(神戸金史【著】『障害を持つ息子へ』ブックマン社、2016年、28頁)


今年、或る経済学者が
高齢者は集団自決」発言をし、物議をかもした、という。

こうした発想と発言は、私には、
命のコストパフォーマンス化》や

【☞〈B(一連バージョン)〉"遺伝子組み換え技術ワクチン” ~斎藤貴男『子宮頸がんワクチン事件』~
経済学者の(故)宇沢弘文氏が
書籍や講演・講義などの中で指摘していた
Kill-Ratio☞効率的殺戮)やDeath-Ratio☞死の効率化》の発想同じ水脈のもので、

それと何ら変わらないように見えて仕方がない。

そこでは
我の命も、汝の命も、
単なる資源以外の何物でもない》。

そして、こうした世界観や論理は、
『それでも人生にイエスと言う』の中で
回顧している、
ナチスドイツ政権下での
強制収容所のなかの光景
と変わらない。



‟ 〈人間の尊厳と生命の価値の剥奪〉

 カント以来、ヨーロッパの思索は、
人間本来の尊厳についてはっきりとした見解を示すことができました。
カントその人が定言命法の第2式(※)で
つぎのように述べていたからです。

「あらゆる事物は価値をもっているが、人間は尊厳を有している。
人間は、決して、目的のための手段にされてはならない。」

 けれども、もうここ数十年の経済秩序のなかで、
労働する人間は たいてい、たんなる手段にされてしまいました。
自分の尊厳を奪われて、経済活動のたんなる手段にされてしまいました。
もはや、労働が
目的のために手段に、生きていく手段に、生きる糧になっていることですら ありませんでした。
むしろ、人間とその生、その生きる力、その労働力が
経済活動という目的のための手段になっていた
のです。

 それから第2次世界大戦が始まりました。
いまや、人間とその生命が、
死のために役立てられるまでになったのです。
そして、強制収容所が建設されました。
収容所では、
死刑の判決を下された人間の生命さえも、
最後のひとときにいたるまで 徹底的に利用されたのです。
それにしても、
生命の価値はなんと低く見られたことでしょうか
人間は どれほどその尊厳を奪われ、おとしめられたことでしょうか。

 このことを確認するために、ちょっと思い浮かべてみましょう。
一国家が、自ら死刑の判決を下したすべての人間を
なんとかして もっと徹底的に利用しようとするのです。
猶予された人生の最後の瞬間にいたるまで
なおその労働力を役立てようとする
のです。
おそらく、そのような人間をあっさり殺してしまったり、
それどころか
生かしておいて死ぬまで養ったりするより、
そうする方が合理的だという考えから、そうしようとするのです。

 また、強制収容所では、私たちは、
スープをやる値うちもないといって非難されることさえしばしばでした。
そのスープはといえば、
1日に1度きりの食事として与えられたものでした。
しかも私たちは 土木工事を果たして、
その経費を埋め合わせなければならなかった
のです。
価値のない私たちは、
この身にあまる施しものを受け取るときも、
それにふさわしい仕方で受け取らなければなりませんでした。
囚人は スープを受け取るとき、帽子を脱がなければならなかったのです。

 さて、私たちの生命がスープの値うちもなかったように
私たちの死もまた、たいした値うちはありませんでした
つまり、私たちの死は、一発の銃弾を費やす値うちもなく
ただシクロンBを使えばよいものだったのです。

 おしまいには、
精神病院での集団殺害が起きました
ここではっきりしたのは、
もはや どんなみじめなあり方でも
生産的ではなくなった生命すべて

文字どおり生きる価値がないとされたということです。”
(V・E・フランクル【著】/山田邦男・松田美佳【訳】
『それでも人生にイエスと言う』
1993年、春秋社、4-7頁)

(※)カントの定言命法の第2式について
「汝の人格およびあらゆる他の者の人格における人間性を
つねに同時に目的として取り扱い、
けっして単に手段としてのみ取り扱わないように行為せよ。」
(イマニエル・カント『道徳形而上学の基礎づけ』)


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哲学者のマルティン・ハイデガーは、
現代に生きている人々/我々が
資源」の一つとして
現代のテクノロジーシステムの渦中》に
呑み込まれ(「徴用化」)、

自立性を失っていることを、
彼によるテクノロジー論で論じた。

(⇒【7-⑱】〈4b〉《テクノロジー》考(《徴発的かり立て&物象化》)~ハンス・ヨナス《無限の円環》)



生産的ではなくなった生命すべて
文字どおり生きる価値がないとされる、とする
この《テクノロジーへの生命の組み込み》、
生命の資源化》、
生命のコストパフォーマンス化》、
Kill-Ratio(効率的殺戮性)》は、
一体、ドコから来るのか?

その根源は、ドコにあるのか?

それは、
哲学者/思想家のミシェル・フーコーが
生権力」と名づけた、
生命を統べるテクノロジーが発明された時代
そのテクノロジーが形成されるに至った近現代に、
端を発するのではないだろうか?

というのは、
生権力テクノロジーでもって運営される社会では、
上に見てきたような発言や発想が出てくるように、
必要としない》からだ。

 今日、社会に根強く裾野を広げる《憎悪》に加えて、
社会学者で犯罪学者のジョック・ヤングの炯眼を借りれば
ルサンチマン怨恨)》にも満ち満ちている

憎悪》や《ルサンチマン怨恨)》が
社会に根強くはびこっていれば
そうした中から《ファシズム》や《戦争化の土壌》が
いとも簡単に何度も生まれてくるリスク
(はら)んでいるではないか、と
フロムの思想を通じて思うようになった。

というのは、人は古今東西、
孤独に苦悩し、孤独を最も恐れてきたが、
人が、孤独から逃れるべく
自由を手放し、自由と引き換えにして、
大きな権威や帰属先に、
自分を同一化させて身を委ねた先
が、
ドイツなどの場合、
ファシズム》であったとすれば、
その《ファシズム》の下であっても、
依然として、
《生命の選別》《差別》、《人の資源化
生権力テクノロジーの活用》が行なわれるからである。

そしてまた、
人が「孤独」を克服する方途は、
ファシズム》のように
集団全体に同調し、集団の一員として溶け込む
という、
孤独が満たされる事のない
《その孤独を紛らわすための手段(=同調)》には無く
フロムは「」にある、というからだ。


いま一つ、
ホッファーは、
憎悪》も、人々を繋げる
という箴言がある。

愛と違い、
憎悪》が人々の紐帯
(ちゅうたい)をはたす
共同体的憎悪が、
社会に深く根を張っている時
そうした社会状況は、
ファシズム》や《戦争化》の、
格好の土壌をなすのではないだろうか。

―――――――――――――――――


‟「人間を無用視する」…・・・「倒錯した意志」には
根源的な悪」があるとアーレントが診断をくだすときがそうですが、
これは別の言い方をしますと、
過去のものでもまだ潜在しているものでも、
全体主義的な人間は、
自分自身の生の意味を根絶して、人間的な生を破壊するということです。
いやそれ以上です。
アーレントは
人間的な生を「無用視する傾向
帝国主義の興隆のうちに認められることを力説していますが、
オートメーションに支配されている現代の民主主義でも、
そういう傾向はなくなっているどころではありません


 「根源的な悪
 すべての人々をひとしく無用視するシステム結びついて現れたと言っていい。
 そういうシステムを操っている者たちは、他の人々を無用だと思っているだけでなく、自分自身も無用だと思っている
 全体主義における殺戮者たちがそれ以上に危険なのは、
 かれらが自分の生死を意に介することなく、
 自分は生まれても生まれなくてもどうでもよかった
 と思っているから
である。
 死体製造工場や忘却による裂け目がもたらした脅威は、
 今日では世界中で人口が増加し故郷喪失が深まるとともに、
 無数の人々が絶えず無用なものとされている事実である。
 世界を功利主義的な用語で考え続けているかぎりそうなるほかはない
 政治的、社会的、経済的な出来事はいたるところで
 人々を無用なものとすべく考案された全体主義の様々な機構ひそかに結託している
のである。」”

 こういう脅威に対して、
アーレントが『人間の条件』で力強く擁護するものこそ、
まさに生そのものにほかなりません。
消費活動を生命過程として捉える決定論によって、
あるいは現代技術による「生命過程」への介入によって
型通りに生み出される生命
とは正反対に、アーレントは、
端的に「生の奇跡」と呼ぶものを開始するすべての人々の生誕を称賛します。
(ジュリア・クリスティヴァ【著】/青木隆嘉【訳】
『ハンナ・アーレント講義』P.6-7)

―――――――――――――――――

“ 強制収容所という実験室のなかで
人間の無用化の実験をしようした全体的支配の試み
きわめて精確に対応するのは、
人口過密な世界のなか、
そしてこの世界そのもの無意味性のなかで
現代の大衆が味わう自己の無用化
である。
強制収容所の社会では
人間の行為と何ら関係がなくてもいいし、
搾取何ぴとにも利益をもたらさなくてもかまわないし、
労働が何らの成果を生まなくてもいい
ということが 時々刻々数えられる。
この社会
すべての行為、すべての人間的な感動
原則的に無意味である場所

換言すれば 
無意味性がその場で生み出される場所なのである。”

(ハンナ・アーレント【著】/大久保和郎・大島かおり【訳】
『全体主義の起原3 ~全体主義~』
1974年初版、みすず書房、262頁)

―――――――――――――――――


に続く