【前回記事からの続き】
〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇
前回までの一連記事から、
お気づきの方も、いらっしゃるかもしれせんが、
――今回記事では
《技術》や《開発》(そして《債務》)を通じて
〈途上国〉が
〈先進国の多国籍企業〉に《従属させられ》、
結果的に〈先進国〉にとって必要な物資を
《供給せざるを得なくなるように縛られる》帰結から、
《技術》や《開発》も、〈開発や技術の研究〉が
“何故このように偏っているのか?”
その事情や背景を、以下に見ていきます。
それを通じて
今日における《技術》や《開発》の‟役割や機能ぶり”を、
あるいは
‟ドコに向けて機能する性格の《技術》や《開発》なのか”
スーザン・ジョージ
『なぜ世界の半分が飢えるのか』を通じて
見ていきたいと思います。
今回記事では、
前回記事でも扱った‟緑の革命”について触れ、
“技術そのもの”と《開発理論》の仕組みについて
見ていていくつもりだったのですが、
文字数制限上、
今回も“緑の革命”で始終します。
なお、以下の引用での
《》〈〉〔〕❝❞、下線、太字強調は
引用者によるものです。
【技術――多国籍企業が拡大してゆくための資金づくり】
❝――緑の革命のどこが悪いのか――
技術革新が単に技術の問題だけにとどまらないということを除けば、
おそらく悪いところなど どこにもない。
だが、低開発国にとって最悪のコースは、
伝統的な土着のものと外国からとり入れた近代的なものとを
どう結びつけるかを考える余地もないままに、
一連の技術を買い入れてしまうことである。
忘れてはならないのは、
〔緑の革命の作物として開発された〕多収穫品種が、
低開発国では普通生産できない物資を必要とし、
もしそれらの生産資材がなければ
全体の体系が崩壊してしまうということである。
しかも、こうした生産資材は
天から降ってくるわけではなく、
外から持ってこなければならない。
こうしたことがわかってくるにつれ、
「緑の革命」の勝利の声は次第に弱まってきた。
だが、
〔ワールド・ウォッチ研究所の〕レスター・ブラウン〔博士〕の声だけは
そうではなかった。
もちろん彼も、
農民が作物に規則正しく、
しかもひんぱんに水を施さなければならないことは
知っていた。
だが、彼の言い分では、
こうした余分の労力と費用は使っただけの価値が十分にある
というのである。
なぜなら「買い入れた生産資材を使い、
余った生産物を市場に出すことで、
小農が経済の表舞舞台へひき出されるからだ」。
しかも、都合のよいことに、
「肥料は、農民が新しい品種をフルに活用するための
生産資材のひとつにすぎないが、
ひとたび近代技術を使って利潤をあげることができれば、
他の生産資材に対する需要も急速に増えてくるのである」
では
低開発国の農民たちが引き入れられていく経済の表舞台とは
どのようなものだろうか。
ブラウンは、彼の国、つまりアメリカの経験が
ひとつの指針として役立つだろうという。
つまり、それは、
農民の需要を満たすこと自体が
ひとつの大きな商売になるという意味である。
1965年
――当時すでにアメリカの農業は高度に機械化されていた――
「アメリカの農民が工業などの非農民部門からの購入した生産資材は
125億ドルに達した(10年後、この数字は約750億ドルになる)。
(引用者中略)
――この生産資材を供給しているのは だれか――
つまり「緑の革命」で 儲けているのは だれか
ブラウン〔博士〕はいう。
「アグリビジネスだけがこうした新しい生産資材を供給できる。
言ってみれば、多国籍企業は貧しい国々と並んで
農業革命には深い関わりを持っているのである」。
貧しい国々は、
もし生産を増やしたいのなら、
かつてアメリカがたどった道を絶対に歩まなければならない。
「そのアメリカでは、
開発と農業技術の普及に
もっとも大きな責任をもつのが私企業であり、
なかでもいちばんたくましい多国籍企業が
技術の普及を全世界的規模で組織化する能力を持っている」。
多国籍企業は
これまでにも先進国農業の“離陸”に責任を持ってきた。
(中略)
これはまったくみごとなからくりである。
貧しい国々は、新しい品種のために否応なく生産資材を買う。
それによって、これらの国々は
多国籍企業が拡大してゆくための資金づくりをさせられるのである。
そこで、企業はさらに多く売りつけようとする。
〔外貨不足に悩む国への援助について〕
こうした“援助”の実態はインドの場合によく現れている。
ブラウンの説明によれば、
「1960年代なかば、インドをはじめ数多くの国々は、
肥料輸入だけのためにアメリカの国際開発局から
多額の借款を受けていた。
アメリカ政府と世界銀行は、
多国籍企業が現地の肥料産業に投資できるよう
インド政府に圧力をかけた。
その結果、インド政府は急に政策を変更し、
多国籍企業は
インドで製品の価格決定と販売を自由にできるようになった。
(引用者中略)
〔なぜインド政府は、米国政府と世界銀行の圧力に屈したか、というと〕
1965年から66年にかけて、インドは
旱魃のため再び飢饉に襲われて塗炭の苦しみに陥り、
もっぱらアメリカの‟平和のための食糧”援助に頼っていた。
しかし、
送られてくる食糧、さらにアメリカ国際開発局からの援助資金も、
その場限りのものであり、
しかも、削減される恐れが十分あった。
このとき、アメリカ政府と世界銀行は
‟すさまじい圧力”をインドにかけたのである。
当時の『ニューヨーク・タイムズ』はこう報じている。
「ヒモつきだろうと条件つきだろうと、
‟平和のための食糧”計画を再開してもらうためには、
インドはアメリカのいうなりになるほかなかった。
条件の主たるものは、
投資一般、とくにインドの肥料産業経営に関して、
アメリカの私企業に大幅な自由を与えることであった」。
〔【引用者】まさしく今の《規制緩和》《TPP》《ISD条項》と重なる〕
『クリスチャン・サイエンス・モニター』も次のように指摘した。
「アメリカの企業家たちは、
建設中の肥料工場の設備機械のなかには
インドで賄えるものがあるにもかかわらず、
すべてアメリカから輸入することを強硬に主張した。
また、彼らは
インドで大量に生産できるナフサを肥料原料に使うかわりに、
アメリカから液体アンモニアを輸入させよといった」。
もっとも重要なことは、
彼ら〔アメリカ私企業〕が価格、利益マージンを決定でき、配給ルートを
支配し得たことであった。
低開発国の農民にとって、
「緑の革命」の“恩恵”にあずかろうとする際に起こる問題が
肥料だけだとしたら、まだ救われる。
しかし、多収穫品種は、
殺虫剤はじめ散水機、乾燥機などの動力機具を必要とし、
そして、ここでも多国籍企業の出番となるのである。
ブラウンのいうところによれば、
「エクソン〔社〕はフィリピンで、
エッソ肥料のために400にのぼる農業サービス・センターを設立したが、
このセンターは
作物の種子、殺虫剤、農機具も取り扱うことになっていて、
フィリピンの農民にとっては
何でも間に合うショッピング・センターである」。
驚くべきことに、
「これらのセンターは
新しい品種の人気が出かかるや否や開設され、
フィリピンにおける米の飛躍的増産に戦略的な貢献をした」という。
しかし、ブラウンは、
戦後、
多収穫品種の普及に多額の投資を行ってきたロックフェラー財団の役割、
ロックフェラー系の大会社であるエクソンの立場、
そして、かつてロックフェラー財団で働いたという彼の経歴
――この三者の関係については何も語っていない
(もっとも、ロックフェラー財団がたてた周到な計画でも
しくじりを仕出かすことが間々ある。
『ビジネス・ウィーク』誌によれば、
フィリピンの農業センターは
十分な利益があがらないという理由で1970年に閉鎖された)
(引用者中略)
ブラウンは、
アメリカ企業の国外投資が、
1930年代の170億ドルから
1966年には870億ドルまで伸びたことをあげながら、
次のように述べている。
「これまでのところ、多国籍企業の国外投資のうち、
貧しい国々の農業に振り向けられたものは
ごくわずかしかない。
しかし、その額は次第に増えてきている。
農業生産資材の販売と新しい投資の機会、
それに関連する諸活動は、
貧しい国々における
多収穫品種の作付面積の拡大に比例して
増大しつつある・・・・1970年代には、
多国籍企業による農業投資が
他産業への投資をはるかに上回ることも可能であろう。
しかし、これが順調にゆくためには、
寡黙な貧しい人びとに、
自分の国の農業が外国によって支配されても
“民族主義”的な嫌悪感を抱かせないようにすることが必要であり、
さらに農業の企業化が、
技術的な知識導入をはかるうえで驚くほど効果をあげるものだということを悟らなければならない。
・・・・農業革命は、
扱いにくい問題に、より実際的な解決をもたらす手段である。
(引用者中略)
多国籍企業が「緑の革命」からあげる利益をテーマにした研究も
いくつかある。
アメリカの政治学者フランシーヌ・フランケルは、
小麦生産のほとんどを
多収穫品種が占めるにいたったインドのパンジャブ地方において
ある農業会社が与えた悪影響を調べているが、
さらに、この研究について、
やはり政治学者であるリチャード・フランクが
次のように述べている。
「フランケルは、
マッシー・ファーガソン社が『緑の革命』を進める農民相手に
トラクターを懸命に売り込んでいる様子をみた。
銀行員とインタビューした結果、
フランケルは、
借金返済のめどもつかない多くの農民が
新しい機械にひきつけられるのは、
熱中と見栄が行きすぎたためであることを知った」
だが、現在、貧しい農民たちは、
トラクターが
不経済なしろものになり得ることを身をもって知りつつある。
「では、クレジットを与えることが、
なぜマッカーシー・ファーガソンの得になり、
貧しい農民たちの損になるのだろう。
トラクターが本当に経済的に引き合わないなら、
なぜ売られているのだろう。
“耕作者階級”が、
指導者も組織もないのに、
自分たちの貧しさがひどくなっていくのに気づかされるのはなぜだろう。
彼らの土地はどうなるのだろう。
しかし、フランケルは、こうした疑問は持ちだしていない」。
(スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』P.145)
うえに見てきたように
第三世界の農民が、具体的には
《アメリカ政府や世界銀行の後援》を受けた、
アメリカなど西側先進国の
〈多国籍アグリビジネス企業〉と〈銀行〉との
《餌食にされる格好》で、
《従属関係に縛られる》ことになるのですが、
その《従属のツールとしての技術や開発》の研究は、
前回記事でも垣間見たように、
さまざまな理由や事情があるでしょうが、
ほとんどが〈先進国〉で行なわれ、
開発の方向性が‟偏っている”のを
前回記事でも、以下の引用でも
確かめることができます。
‟――「緑の革命」は農業研究にどんな影響を与えたか――
農業研究のほとんどは先進国で行なわれ、
しかも、これらの国々は
「緑の革命」推進に入れあげているから、
度外れた数の研究が、
①炭水化物の含有率が高い多収穫品種
②多量の肥料を必要とし、
化学薬品によってのみ病虫害予防ができる作物
③こうした食物を育成し得るような気候を持つ地域、
といったテーマだけを対象とするようになった。
その結果必然的に、
①蛋白質の含有率が高い作物
②有機的な農法による収穫の増加と病害虫予防
③水利の悪い地域、
といったテーマについては ほとんど研究されない。
第三世界には、
水利に恵まれた地域はごくわずかしかないから、
雨だけが唯一の水資源である地域についても、
多収穫品種をつくり出したCIMMYTやIRRIのような研究機関が
あって当然のはずである。
ハイデラバドにある
「半乾燥熱帯地域のための国際作物研究所」(ICRIAT)は、
こうした正しい方向に向かっての小さな歩みといえる。
さらに、農業構造全体について、
もっと注意がはらわなければならない。
ルネ・デュモンによれば、
「現在知られている食用食物品種は約8000、
そのうちわずか50品種ほどで
われわれの食糧の90パーセントを占めている」
ということだ。
財団や企業の利益にかわって、人類の要求が
世界中の研究室における実験のあり方を
決定できるようになれば、
現在見捨てられている食物の利用度が
無限にひろがることは確かであろう。”
(スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』P.149)
以上の引用の最後の箇所に出てきた
‟財団や企業の利益にかわって、人類の要求が
世界中の研究室における実験のあり方を
決定できるようになれば”
という指摘があるように、
〈研究および実験の方向性や在り方〉が、
「人類の要求」に《沿っていない》のを
上記の様子から垣間見てきた訳で、
上記までに見てきた模様の内容から
得られる印象は、
〈(農業)開発〉〈テクノロジー〉〈市場経済〉
といった表面的内容よりも、
《従属関係構造の構築》や
《戦略的意図の関係的な権力行使》的機能が、
目につく‟悲惨な帰結”です。
さらに今ひとつ。
こうして見ると、じつは、
〈先進国〉への〈第三世界の国々〉の
《従属的束縛関係》に‟留まらず”、
比較優位的貿易世界観からくる
《世界的分業構造》化に基づいての
《開発》の結果、
自分たちの食物生産を後回しにしてまで、
(先進国への)《換金作物》を
〈第三世界の国々〉が《国際に向けて輸出》し、
《その換金作物》が、
結果的に全体としては
‟国際市場に飽和的に供給される”ことで、
日本のように
〈自由貿易的な国――関税も低く、
政府による農家保障が薄い――〉には、
先進国の《農業破壊や打撃》‟としても働く”
のだとすれば、
じつは全体的に見ると、
〈政府保障の薄い先進国の農業〉も、
〈換金作物を輸出する第三世界の農業〉も、
結局的には泣きを見る一方で、
世界を股に掛ける
〈多国籍アグリ・ビジネス〉‟だけが
絶大なチカラをもつ帰結”に
なっているのではないでしょうか?
ここで高樹は、
〈分業〉のことが思い浮かびます。
アダム・スミスが『国富論』で
当時まで続いてきている
《欧州列強による植民地支配》と‟通底”し、
《国家間戦争》を”誘発”しやすく、
‟貿易上の《制限的特恵や特権や独占を
国家が免許する事》が横行する最中”で、
自国産業を顧みるよりも、
貿易収支に拘泥する
そうした《重商主義》経済政策を相手取って、
当時の彼の課題意識で、
〈分業と市場の発展とによる生産性の向上〉で
国際収支を高めつつ、
国家の富を支えさせる格好の
〈市場経済体制〉の構築を求める主張する際に
当時すでに現れていた産業革命を特徴づけた
《機械》にではなく、
《分業》に、スミスは着目するのでした
――興味深いことに、
ガルブレイス『経済学の歴史』の〈アダム・スミス〉の章によれば、
産業革命と呼ばれるような多くのものも、
また政治・社会の場に出てくる産業家のことも、
アダム・スミスは“見ておらず”、
さらに産業革命の進展の最大の部分は
スミスの『国富論』が書かれた後に来た、と紹介しています。
“こうした専門化、分業によって、
当代の企業の高い能率が生まれるのであり、
この分業は、
人間が自然に持っているところの
「或る物を他の物と取引・交換、交易する傾向」と結びついて、
あらゆる商業の基礎となっている、とスミスは考えた。
しかし、これは産業革命の現実の姿ではなかった。
煙を吐く工場、機械、多数の労働者の群がり、といったものは
18世紀の末に現われたのであるが、
もしスミスがこうした事実を見たなら、彼を印象づけたものは
こうしたこと〔煙を吐く工場、機械、多数の労働者の群がり〕であって、
ピンの製造や分業ではなかったであろう。”
(ガルブレイス『経済学の歴史』P.86)※強調は引用者
〈18世紀当時の大英諸国で暮らしてた
アダム・スミスが抱いていた課題意識で
書かれたはずの『国富論』の中のビジョン〉と、
〈いま私たちが生きている現状〉との
《ズレ》を重点に置いて、
〈アダム・スミスの思想内容〉や〈分業〉に関して
いま二つ。
〈【19-⑥b】にページ移動する〉