〈近日イベントなどの告知〉
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『種子 みんなのもの? それとも企業の所有物?』予告編
☞ラテンアメリカのドキュメンタリー映画
『種子(たね)-みんなのもの?それとも企業の所有物?』
日本語版制作ファンディング中
(目標金額は、すでに達成はされていますが、
スタッフさんの自己犠牲が軽減される追加的目標が
合計200万円のようですので、
ご興味や御関心のおありの方、
クラウド・ファンディングへの御参加のご検討を、
お願い申し上げます。)
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モンサント遺伝子組み換え種子を拒否するカナダ農民 Democracy Now !
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TPPについて - 日本の皆さんへのメッセージ
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ドキュメンタリー映画
『fire in the blood』(薬は誰のものか?) 日本語版予告編
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〈前回記事〉から続く形となりますが、
ヴァンダナ・シヴァの叙述を通じて、
インドを襲った
《近代西欧からの現代技術-開発-経済成長》、
そして《多国籍企業》と《国際機関(IMFとIBRD、またWTOなど)》の正体について、
捉えようとしています。
《人工知能と監視社会》を取り上げた
今回の一連記事ですが、
このシリーズ記事の最終地点も、
「人工知能と、人工知能にまつわる事柄」です。
というのも、《人工知能活用の無責任》と
《人工知能による安全保障のジレンマ》の‟悪循環”とに心から憤って書き始めたからです。
〈前回記事〉では
産業経済で「成長」とされる経済の在り方では、
たとえば、自然林を
《単一種大面積栽培(モノカルチャー)の人工林に
変えるが、
それにより、自然を《痩せさせたり》、
また、
森林から生物多様性と土壌や水を保持する能力を
《奪い取る行為》だったり
あるいは、
森林に依存する人々の暮らしから、
食物、飼料、燃料、繊維、医療品、
洪水や旱魃に対する従来の安全保障の源泉を
《奪い取る行為に基づく》ので、
《成長志向の経済の在り方》は、
ヴァンダナ・シヴァたちの眼から見れば、
自然や人々からの《窃盗の一形態でもある》
という告発を見ました。
今回も、その続きで、
今回は、もう少し長期的に歴史的に、眺めてみたいと思います。
今回は、
同じくヴァンダナ・シヴァ『緑の暴力』(邦題)から
見てみたいと思います。
緑の革命から得た持続可能性についての教訓が 今ほど必要な時はない。
自然の持続可能性は、
自然のプロセスを再生し、自然の返報の法則を遵法することにある。
農業共同社会の持続可能性は、
農業生産の文化と地方経済を再生し、活性化することにある。
市場における持続可能性は、
原料の供給、商品の流れ、資本の蓄積、投資に対する利益を確保することにある。
生命を維持している自然の能力を損なうことによって失った持続力は、
市場によって与えられることはできない。
世界的市場の成長は、
国内生産と消費の国内経済の破壊を覆い隠す。
持続可能な農業への移行には、
自然と人間の二つの軽視された経済を、
農業の生産性とコスト利益分析の評価のなかで、
目に見える形で表さなければならない。
環境と社会の両方の持続可能性が損なわれてきたのは、
経済発展の支配的のパラダイムにおいて、
「自然の経済」と「人間の経済」が軽視され、崩壊しているからである。
このパラダイムにおいては、
市場の成長がたいていは
自然の経済や人間の経済の破綻と縮小を
ともなっている
にもかかわらず、
市場経済の成長しか測定しない。
農業の生態的な基礎が破壊され、
大勢の農民が立ち退きをせまられ、根なし草となっている。
持続可能な農業に移行するには、
軽視されている自然の経済と人間の経済の二つを、
農業の生産性評価とコスト利益の分析に
目に見える形で表に表さなけらばならない。
持続可能性の基準を農業に内部化できるのは、
自然の経済が健全な自然生態的プロセスを表し、
人間の経済が
現実に健全な社会経済状態および栄養状態を表している場合のみである。
開発と経済成長は、もっぱら
資本蓄積のプロセスという条件でのみ認識されている。
しかし、市場経済レベルでの金銭的資源の増加はたいていは、
人間の生存のための経済や自然の経済から、
自然資源を取り上げることによって行なわれている。
一方、
経済成長は、
自然資源をめぐる争いを引き起こし、
他方では
自然、人間、資本の経済的に不安定な関係を
つくりだしている。
(ヴァンダナ・シヴァ『緑の革命とその暴力』P.ix-x)
以下の引用内容からは、
今シリーズでの、これまでの記事と、
内容的に重なるところも数々見られますし、
いま私たちが直面しているバイオテクノロジーと
近代の《所有権》という枠組みという歴史的なものとを同時に、見させられ、考えさせられることになります。
支配的パラダイムにおいては、
技術は社会よりも上にあると見なされており、
社会の構造と発展の両方において、
技術が解決策を与えたり、決定要素になる
という理由でそのように考えられている。
技術は、
社会に存在する諸問題の解決策の源と見なされていて、
新たな社会問題の源として認識されることはほとんどない。
その方向は
自己決定的なものと考えられている。
急速に技術的な変化が起こっている時期は、
その変化を平等、持続可能性、参加という社会価値観に合わせる
のではなく、
社会と大衆が
その変化に合わせなければならないと考えられている。
【――※引用者
ティモシー・メイ&ジグムント・バウマン【著】
『社会学の考え方』(第2版)
〈第9章「テクノロジーとライフスタイル」〉
においても、
「私たちの行為が、
情報機器や職場環境との関係によって、
様々な形で制約を受け、変更を余儀なくされる」
という指摘が出てきましたが、その指摘を思い出させます。――】
しかしながら、技術的変化は
支配的な人々の優先順位によって形づくられており、
その優先順位に役立たせるプロセスである
と考える別の視点もある。
この視点では、
技術的選択が
狭い社会基盤にもとづいていれば
人間的な関心事や大衆参加が排除される。
その狭い層の利益が、
本質的に革新的であり、社会的に中立な技術を持続するという名目で
保護される。
一方、社会的基盤が広がれば、
支配サークルを現在の小さなグループから広げることによって、
人権と環境が保護される。
新しいバイオテクノロジーが出現したことで、
この二つの傾向が顕著に現れた。
バイオテクノロジーの技術的アプローチは、
技術の発展を自己決定的なものとして描きだし、
社会的な犠牲を必然と見なす。
したがって、大衆の生活権などのような人権は、
革新的プロセスを保護する所有権のためには
犠牲にしなければならない。
皮肉なことに、人権を犠牲にするプロセスが、
あたかも自動的に人類の幸福を導くものとして
描き続けられている。
新しい所有権をつくるために
大衆の権利を犠牲にすることは
新しいことではない。
これは資本主義の勃興とその技術的構造の
隠れた歴史の一面であった。
15世紀から16世紀にかけて現れた私有権法は同時に、
森林や牧草地を使用する人々の行動の権利を侵し、
産業化を通じて資本蓄積の社会的条件をつくった。
私有権の[という]新しい法律は、
財貨として個人の所有権を保護することをめざしており、
生計の基礎としての共有地の集団的権利を破壊した。
私有権の語源であるラテン語のPrivateは、
「取り上げること」を意味する。
人権から私的な所有権にシフトすることは、
排他主義的な技術が社会に根をおろすための
一般的な社会的および政治的前提条件である。
そのようなシフトの舞台がいまや設営され、
企業と産業が発展するバイオテクノロジーの時代を迎える用意が
整っている。
狭い考え方では、
科学と技術は科学者や技術者がつくりだしたものとして
慣例的に受け入れられており、
発展とは
科学と技術がつくりだしたものとして認められている。
ここでいう科学者や技術者とは、
西欧の科学技術について正規の教育を
西欧の研究所や団体、
あるいは西欧のパラダイムを模倣したアジアの研究所で受けている
という社会学的範疇に属する人々として受けとめられている。
こうした同義反復的な定義は、
大衆や、とくに貧しい人々を除外し、
多彩で特異な文化をつくってきた地球の文化的多様性や独特の文明史を
無視するというのならば問題はない。
この考え方における発展とは、
非西欧的な状況に
西欧科学と技術を導入することと同義として
受けとめられている。
この不可思議なアイデンティティとは、
発展=近代化=西欧化というものである。
科学を「知ることの手段」と考え、
技術を「為すことの手段」として考えるような広い文脈では、
すべての社会は
その多様性を残したまま、
それぞれの独特の多様な発展の土台となるような科学と技術体系をもってきた。
技術あるいは技術体系は、
天然資源と人間のニーズのギャップをつなぐかけ橋となっている。
知識と文化体系は、
科学と技術の定義を認識する上での枠組みを与える。
科学と技術はもはや西欧独特なものとしてではなく、
すべての文化や文明と多元的に関連するものとして見なされる。
そして、特定の科学や技術が
自動的にあらゆる場所における発展に転化されることはない。
生態的にも経済的にも不適切な科学と技術は、
低開発の解決策にはならず、むしろ低開発の原因となる。
生態的にも不適切であるということは、
生命維持システムを再生する自然の生態的プロセスと、技術的プロセスの資源要求や影響がミスマッチなのである。
技術的プロセスは
天然資源を大量に取りだし、
汚染物質を生態的な限界を超えて放出する。
そのような場合、
技術的なプロセスは
生態系を破壊し、低開発に寄与する。
経済的に不適切であるということは、
社会のニーズと技術体系の要求がミスマッチだということである。
技術的なプロセスは原料と市場の需要をつくりだすので、
原料と市場の両方を支配することが、
技術的変革の政治の必須の要素となっている。
(ヴァンダナ・シヴァ『緑の暴力』P.239-243)
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