北条時村の母。 | 日本中世史を楽しむ♪

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―武士道と云は極道と見付たり。―

 北条時村の母は、三浦(大河戸)重澄の女なンだよね。

 重澄は、三浦義村の弟。


 んで、時村のオヤジの政村の烏帽子親は、義村。

 ほいで、政村は、義村から、三浦のこの頃の通字である「村」をもらってるわけだ。


 こうして見ると、三浦と政村の結び付きの強さが、よくわかる。


 時村の生まれたのは、仁治3年(1242)だから、三浦と北条の対立は、まだ表面化してないが。


 んで、5年後の宝治合戦で、重澄は甥泰村(義村の嫡子)らと共に滅亡するわけだ。


 宝治元年(1247)6月5日の宝治合戦の前後、半年以上、政村は『吾妻鏡』に出て来ないので、合戦までの具体的な動きは、わからん。


 でも、合戦の直後と言って良い6月26日・27日に姿を見せ、いずれも最高幹部の扱いであるから、合戦までの期間、政村は対三浦主戦派として行動していたのではなかろーか?


 三浦義村の子である泰村兄弟は、言ってみりゃ、政村の義兄弟だし、重澄は紛れも無い義父である。


 武家社会は、厳しい。

 いざとなれば、恩愛など切り捨てて進まねばならないのだから。



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