父親が72歳の誕生日を目前に控えた6月14日に永眠いたしました。

葬儀は6月22日に家族葬で相済ませました。


※父親へ伝えきれなかった気持ちと、自分の気持ちの整理のためにつらつらと書き連ねたため、長文です。気の向いた方だけお読みいただければ幸いです。


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急遽の入院からここ3週間ほど、仕事の調整や欠席を繰り返しておりました。クライアントやパートナー、いつもセミナーやイベントに来ていただいている大事な友人たち、そしてキュレーションズの仲間たちにはご迷惑をおかけました。


しかしそのおかげで、少ないながらも父親と最期に色々と話す時間を確保することができました。本当にありがとうございます。感謝してもしきれません。


しかし、あっけなく逝きました。まるでいつも実家に行った帰り際に「じゃあな。身体に気をつけろよ」と言った時のように。


安らかに眠るその顔は、小さい頃からよく見た笑顔を絶やさぬままで、いまにも起きてきそうな気がしました。家に戻って眠る姿を見ても、棺に入った姿を見ても、もう父親がこの世にいないなんて信じられませんでした。


火葬が終わった今でもまだ実感が湧きません。どこか何かの物語を見ているような、疲れて深い眠りについた時にみた夢のような気分が続いています。


また今度実家に帰ったら、いつものように「おう、ヒロ!」と玄関に笑顔で手を挙げながら出てくるような気がしてなりません。


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反抗期が長く、35歳まで人生に悩んで放浪していたボクは、自分のことに精一杯で、あまりいい息子ではなかったと思います。


ようやく多くの人に支えられながら、人より遅くなりましたが自立することができるようになり、親孝行がこれからできると思っていた矢先です。まだまだ親孝行ができるものと勝手に思っていました。


親孝行がまだまだできていないのに。感謝の気持ちすら、伝え足りないのに。よくありがちな後悔の念に押し潰されそうです。


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良い父親でした。厳しくも優しい、本当に良い父親でした。


シャッター工の親方だった父と小さい頃に繋いだ大きな手は、いつもキズだらけで塗料がつき、ゴツゴツしていました。ちょこちょことついてまわった、大きく筋肉質の背中はよく覚えています。


若い頃俳優をやっていただけあって、カッコいい父親でした。チョイ役だそうですが勝慎太郎と共演したことを誇りにしていました。映像が円盤化されていないので、父親の勇姿を見れないのは残念です。


色々な経験をさせてくれました。小さい頃からキャンプとスキーはよく連れてってもらいました。貧乏旅行だったけど、車で長野まで行って、小さい旅館の小さい部屋で泊まったスキー旅行は特に覚えています。車に布団を積んで車中泊で行ったこともありました。あれは楽しかった。


キャンプの思い出もたくさんあります。虫が苦手な親子は、カブトムシをとりにいったのに、結局ほとんど捕まえられないで、2人で笑い合っていました。


オープンしたてのディズニーランドにもよく連れて行ってくれました。今思えば、家族で行った楽しい思い出が、ボクをディズニー好きにさせたのかもしれません。


今思い返せば、幸せな日々でした。


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野球少年だった親父が甲子園の夢を託して、運動音痴だったボクにはじめさせた少年野球は、生涯ヒット数2本に終わりました。初めてツーベースヒットを打った時、二塁からみた父親の嬉し涙は今でも鮮明に覚えています。


巨人ファンだった父親は、いつも会社で余った大洋ホエールズの巨人戦以外のチケットを持って帰ってきて、横浜スタジアムに連れてってくれました。その結果残念ながら巨人ファンにならず、熱烈な大洋ホエールズファンとなったボクは、父親を巨人ファンから大洋ファンへ鞍替えさせました。


横浜スタジアムに父親と行った時に、外野スタンドで食べるカップヌードルが好きでした。弱くて人気のない球団だった当時は、いつでもチケットが取ることができなので、金曜に観に行って負けて悔しくて、土曜にも行って負けて、日曜にも行って負けてなんてこともありました。


2017年に念願のCSを突破しての日本シリーズは、知人の好意もあってチケットを入手することができ、久々に父親と横浜スタジアムに野球を観に行くことができました。


体調が悪くなった一昨年、去年はたくさんの試合を観に行きました。いままで行ったことのないボックス席やバーベキュー席、エキサイティングシートと、一緒に楽しむ趣味になってました。今年もまだまだ観に行くつもりでとってたチケットがあります。


趣味を一緒に楽しむ相手がいなくなっちゃった。。。


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がんの闘病は20年。余命が短いと宣告されたボクが26歳ぐらいの頃でした。それから15年。よく闘い抜きました。


この数週間の中で、病室で2人になった時、ポロッと「オレはがんに勝てたのかなぁ」と呟いてました。


抗がん剤で辛くなりながらも家族のために仕事に向かっていたと母親に聞きました。まだまだ立派なものではありませんが、こうしてボクがいまこの仕事をできるまでになったのは、そうした父親の努力があってこそです。


だから「十分戦って、ここまで生き抜いたんだから、勝ったでしょう」とだけ伝えました。こうなっても照れ臭くて「ありがとう」は直接言えませんでした。伝えるべきだったなぁ、と後悔しています。


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親方として独り立ちし、会社を創業して約30年。たくさんの社員に慕われ、育て、独り立ちさせていきました。


バブルの不景気の煽りを一番に受けた建築業の末端にいながら、家族のために身を粉にして働き、ときには海外にまで出向いて稼いできてくれました。


今経営者として日々生きるようになってはじめて、父親の偉大さを感じています。「経営とは」「人の上に立つとは」をもっと父親に聞いてみたかった。


引退してから8年も経ったのに、家族葬だと伝えていたのに、父親の仕事関係の人が大勢通夜に足を運んでいただきました。父親の人柄、そして偉大さを実感しました。


いつしかボクの目標のひとつは父親を越えることになっていました。最初は父親の最高年収を越えたい、と。そして今は経営者として。


まだまだ少しも父親を越えることができていません。尊敬する父親を越えることがボクの大きな目標です。そんな話も父親にはまだできていませんでした。


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父親と2人で飲みに行ったのは、2回。がんの闘病が長かったせいもあって、お酒を飲み交わせたのは1回でした。


しかも、家族との距離感がわからなくなってたボクと、息子との付き合い方がよくわからなかった父親のふたりなので、そんなに言葉を交わすことなく終わってしまった時間でした。


それでも、夢が叶ったと満足気だった父親の笑顔は覚えています。今なら酔っ払って話したいことがもっともっとたくさんあるのに。


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まだまだ父親が亡くなった実感が湧きません。悲しみもそう簡単には癒えなそうです。そして何より、親孝行が全然できなかった後悔が何よりも大きいです。


しかし、いつも家族を最優先に考え、いつも家族を愛し、心配し、支えてくれた父親が、彼が愛した家族が悲しみにくれて暗い顔をし続けることを望んでいるわけはありません。


火葬場の番号が「7番」でした。父親はきっと「おいヒロ、ラッキーセブンだ」って言って笑いながら手を振って、旅立ったに違いありません。


父親が逝ってからの1週間。人生で一番涙を流した1週間でした。ここからは、冗談が好きだった父親を見習って、笑顔を持って皆さんとまた、未来を創るために仕事に邁進して参ります。


父親が残してくれたものを胸に。父親の背中を見習って。そして、いつの日か父親を越えたよと、報告できる日まで。


「散る花はまた来ん春も咲きぬべし 別れはいつか巡りあふべき」


Family-First, R.I.P. Dad.


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繰り返しになりますが、この3週間本当にご迷惑おかけしました。しかし良い時間を過ごさせていただくことができました。本当にありがとうございました。


皆様これからも引き続きどうぞよろしくお願いいたします。