今日は、友人のお芝居を観てきた。金子みすゞさんの作品をとりあげている劇団「座 東京みかん」の「夢見町心の花を咲かすまで」

さて、そこへ出かける前に、NHKで3年経った被災した人達の今というような内容の番組を冒頭だけ見た。その番組で、特にフォーカスしていたのは、「登校拒否が増えていること」。そして、私が気になったことは、「悲しみをシェアできない苦しみ」
ある女の子。(中学生か高校生)「津波にはあったが、家は皆無事だった。」
そして、その子の親友は「お兄さんとおばあさんを亡くしてしまった。」
親友は、震災してしばらくしてから、彼女に本当の心を見せなくなった。(様に、彼女には映っている。)
彼女も、親友と悲しみの気持ちをシェアできず、溝を感じるようになった。
一体、これは、誰が悪いのか?
誰のせいでもないはずなのに、女の子も親友も苦しい。
しかし、悲しみをシェアすることがそんなに大事なことなのだろうか?
シェアと同情はどう違うんだろう。
そんな番組の後に劇団を見たわけだ。
その劇を見ながら、この作者は、何かの気持ちをシェアしたいと思って、書いたのだろうかと考えてしまった。
人の気持ちは、時にとてもシンプルで。
時に、複雑すぎて、自分にすらわからないほどだ。
そして、家に帰って、テレビをつけると、韓国のフェリーで助かった男の人の話がでていた。
彼は、たまたま、そのとき、デッキにでていた。傾きがひどくなり、そのまま海に飛び込んで、助かった。
しかし、彼は、今も、自分が高校生達を助けられなかったことを後悔し、罪悪感にさいなまされている。
彼に非はまったくない。
すべての偶然が、彼を生かし、彼は生きるべき人となった。
しかし、経験した以上は、前の生活というか、気持ちには決して戻れない。
私は、彼の気持ちのほんの少しはわかる。
震災後の10日間、怖がって、ベッドの中で、泣いていた私は、被災した人たちへの罪悪感とこれからの生活への不安感で、いたたまれなかったからだ。その感覚は、自分でも理解できず、その理解できない気持ちが、私をおびえさせていたのかもしれない。
ボランティアにいくわけでもない。
積極的な募金をするわけでもない。
津波の映像を見るたびに、声をあげて泣き、
余震のたびに、さけんでいた。
こうやって、文章を書くことは、誰かと気持ちをシェアしたいからではない。(と思う)
ただ、言葉でしか感情を表せない私たちが、言葉では表せない気持ちをどこかへしまわなければならないということをいいたいだけだ。
少しだけ離れて、そこにある事実と自分にべったりとくっついている感情を切り離してみたいだけだ。
そして、少なくとも、今、私は生きている。




