●盆踊りをしてはいけない。
2021年7月26日、徳之島は、奄美群島国立公園に属し、
「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」 として、
「世界自然遺産」に登録されました。
鹿児島県佐多岬から南南西に約382km離れた所にあります。
沖縄からの方が近いですが、鹿児島県です。
真上にある大きい島が奄美大島です。
年間平均気温21.9 ℃という温暖ながら、
強い風が吹く気候に加え、海と山の距離が近く起伏の激しいコースは、
野球や陸上部などのアスリートたちに最適な合宿地として注目されています。
年度によって差はあるものの、合宿受入の延べ人数はおおむね年間1万〜2万数千人規模という数です。
そんな遠い日本の地・徳之島に、
霊能者の宜保愛子さんが赴いた事があります。
1日に何便も無いプロペラ機に乗って徳之島の子宝飛行場に降り立ちました
実は、この徳之島は、「子宝の島」と呼ばれているのです。
合計特殊出生率が高く、地域の助け合いが子育てにも反映され、
他人の子であっても分け隔てなく、子は宝として地域全体で育てふれあうという古き良き風習があり、自治体の子育て支援も充実している島なのです。そんな背景からつけられた空港名でしょう。
(合計特殊出生率とは、一人の女性が一生の間に出産する子供の人数。
15~49歳までの全女性の年齢別出生率を合計した人口統計の指標です。)
そんな徳之島を訪れていた宜保愛子さんに、霊視を依頼したのは、
島に住む老夫婦でした。
それはそれはとても不思議な事件でした。
老夫婦は息子夫婦と一緒に暮らしていたのですが、
ある日、この家に嫁いだばかりの若奥さんが、買い物の途中、
交通事故で突然の死を遂げてしまったのです。
しかし、おかしいのです。
なぜなら、死んだ場所は徳之島でも特に辺ぴな片田舎です。
車はおろか人間だって1日に何人も通らない場所です。
それなのに、交通事故で死んだなど考えられませんでした。
でも、広い道路に若奥さんの無残な死体が転がり、
その周りには、買い物カゴの中身が全て道に散乱していたのです。
それは交通事故のひき逃げ現場としか思えない状況でした。
その時から、息子は朝から酒をあおり、誰とも口をきかなくなり、
荒れた生活を送るようになってしまいました。
老夫婦は息子を案じて、酒を控えた方が良いとかアドバイスしましたが、
息子はまったく老夫婦の言葉には、耳をかしませんでした。
とうとう老夫婦は、しばらく息子を一人にしておいてやろうと、
息子をおいて親戚の家にしばらく行く事を選択しました。
1カ月ほど経った時、老夫婦は息子の様子を見に来ました。
すると、息子は多分、先ほどまで酒を飲んでいたかのように、
盃を手に持ったまま死んでいたのです。
不思議な事に、息子の前のテーブルには、2つの盃があり、
もう1つの盃には、まだ酒がわずかに残っていました。
いったい息子は死ぬ間際に誰と酒を飲んでいたのでしょうか?
老夫婦は、この家に以前から毎日来ていた
新聞配達と牛乳配達の人に聞いてみました。
すると、
「時々、亡くなった若奥さんにそっくりな女の人が、この家に出入りしていましたよ。 多分、若奥さんの姉妹でも来たんだろう。」と言うのです。
「そんなバカな、彼女は一人娘だったのですよ。」
この奇怪な事件は、狭い島中の語り草となったといいます。
そんな時、
この島にテレビの取材で霊能者の宜保愛子さんが来られると知った老夫婦が、
宜保さんに霊視のお願いをしたのでした。
実は、息子さんが亡くなった後も、不思議な現象がこの家で起きるのです。
老夫婦が夕食の支度をしていると、
突然、コショウやしょう油のビンが動きだすのです。
それはまるで、まだ若奥さんや息子がこの家にとどまっているかの様でした。
さっそく息子さんが死んでいたという家に、宜保さんがやってきました。
そんな宜保さんを、80歳はとうに過ぎているだろうと思われ、腰を曲げ、
杖をつきやっと歩いている様子の老夫婦が出迎えました。
出迎えてくれた老夫婦に宜保さんは、
「おじいさん、まず私がこの家に一人で入ってみます。
どうぞおばあさんと一緒にクーラーの効いた車の中で休んでいてください。」
老夫婦は嬉しそうにうなずきました。
宜保さんが家に入る前に、沢山の蚊の大群が宜保さんを襲ってきました。
そこで洋服から出ている手足全てに蚊よけスプレーを吹きかけて、家に入りました。
玄関入り口の右側に大きな扉があり、その反対側には、
仏壇と息子さん夫婦の大きな写真が飾ってありました。
宜保さんは仏壇の前にゆっくりと腰を下ろすと、
息子さんの写真をじっと見つめました。
どのくらい時間が経った事でしょう。
突然、誰かが私の肩を後ろからつかんできたのです。
それはそれは強い力で、まるで私に、その存在を知らせるかの様です。
やがて、私の耳元に、男の人の声が聞こえてきました。
それはまぎれもなく、亡くなった息子さんの声でした。
「私の家の庭にある大きな石を見てください。
あれは、到底人間の力では持ち運べる石ではありません。
あれは、その昔、この辺りを襲った大地震の際、
裏山から落ちてきたものなのです。」
そこまで聞くと、私は庭に出てみました。
確かに、庭に大きな石があります。
そして、その背景の夕闇の中に、石が落ちてきたという裏山が見えました。
黒々とそびえたる裏山。
そして、その裏山の木々がまるで生き物の様に揺れています。
それは、闇の中に人を誘い込む魔の手にも似たような不気味な光景でした。
その時です。
「あらっ、何か白い物が見える。」
裏山の中を白い物が見えては隠れ、見えては隠れる姿があります。
すると、私の前に世にも恐ろしい光景が浮かんできたのでした。
時は、江戸時代の終わり頃でしょうか。
村の寄り合いの場の様です。
粗末な身なりの農民たちが、数人で何やら熱心に話し合っています。
どうやらこの村では、数カ月前から大地震が続き、
島にある民家のほとんどが壊滅状態で、
「わしの家の田んぼは全て灰に埋まってしまった。
もう家には、口に出来る物は米粒1つも残ってねえ。」
「うちは、子供がみな山の火に焼かれて死んでしまった。」と、
みな口々にわが身に降りかかった不幸を語っていました。
「こうなったら、もうこれしか方法がねえ。
裏山の山神様にお願いするしかねぇ。」
「そうだ、そうだ、
この大地震を鎮めるには、山神様にお願いするのが一番だ!」
「山神様に、生贄(いけにえ)を捧げよう。」
という相談がまとまりました。
しかし、一体誰を生贄にするのか、それが問題でした。
皆お互いの顔を見回すばかりで、話はそれ以上なかなか進展しません。
当然ですが、誰もが自分の身内の娘を生贄にしたくなかったのです。
その時でした。
1人の男が、「あの娘。あの娘はどうだ!!」と声を張り上げたのです。
その男が生贄にしたらいいと推したのは、
両親に先立たれ、孤児となっていた娘でした。
村人たちの簡単な仕事を手伝う事で、やっと生きているという哀れな身の上の娘でした。
「そうだな。あの娘ならいいだろう。
生きているより、早く親の元へ行かせてやった方が、あの娘の為というものだ」
村人たちは口々にそう言うと、
その娘を山神様の生贄にする事に決めてしまったのです。
やがて、その娘が村人たちの前に引きずり出されました。
言葉を発する事もなく、ただ泣きじゃくっている少女。
ガタガタと小さな肩を震わせて娘はうなだれています。
「いいか、村のおきてで、お前が山神様の生贄に決まった。
これから一週間身を清めて、白装束で山神様の生贄となるのだ。」
やがて、一週間が経ち、娘が生贄になる時がきました。
しかし、哀れな娘に涙する村人は一人もいませんでした。
その時です。
霊視をしていた宜保さんが、一人の村人を見て、
「あっ!!」と声をあげそうになりました。
そこで問題です。
なぜ、宜保さんは、霊視中に一人の村人を見て、
「あっ!!」と声をあげそうになったと思いますか?
分かった方は凄いです。
少し考えてから、先をお読みください。
哀れな娘に涙する村人は一人もいませんでした。
その時です。
霊視をしていた宜保さんが、一人の村人を見て、
「あっ!!」と声をあげそうになりました。
生贄の娘を見送る村人の中に、
ほっと安堵のため息をもらしている男がいました。
その男こそ、この娘が生贄に良いと推薦した村人でした。
私は、その男の顔を見た途端、「あっ!!」と息を飲みました。
なんと、その男の顔は、
亡くなった若奥さんにそっくりではありませんか。
そうです。この男は、死んだ若奥さんの何代か前の祖先だったのです。
庭にある、あの裏山から降ってきた大きな石は、
哀れな生贄となって死んだ娘は、自らの墓にみたてていたようです。
そんな家に、生贄に良いと推薦した村人の子孫がやってきたのでした。
恐らく、若奥さんが嫁いで来た時から、生贄にされた娘の魂は、この家に復讐をするべくして見え隠れしていたのでしょう。
そういえば、この家に災難が降りかかるようになったのは、
息子さんが結婚してからでした。
息子さんと一緒に酒を飲み交わしていたのは、
若奥さんの霊であったはずですが、
生贄になった娘の霊も、息子さんの家にたびたび姿を現していた事でしょう。
私は、生贄になった娘さんに手を合わせました。
「可哀そうな娘さん、どうか安らかに成仏してください。」
老夫婦に、娘の霊の存在を知らせ、供養の仕方を説明して、
私たちはこの屋敷を後にしました。
ホテルに向かうワゴン車に乗り込んだのは、
もう夜中の一時をかなり過ぎて頃でした。
「さあ、帰りましょう。」
しばらく走ると、突然真っ暗な道の真ん中でワゴン車が止まってしまったのです。
何度となくエンジンをかけてみるのですが、空回りするだけです。
「おかしいな、どうしたんだろう。」
「バッテリーが上がったのかな?」
運転手さんが車から降りて、ボンネットを開けて調べ始めました。
しかし、何の異常も見当たらないと言います。
その時でした。
一緒に来た島の案内役の方が、突然大声をあげたのです。
「ここ、ここですよ!!!」
「若奥さんが交通事故で亡くなったのは・・・」
それを聞いた宜保さんは、
「ここで降りて、若奥さんにみんなで合掌しましょう。」
私の言葉に従って、みなゾロゾロと車から降りると、一斉に手を合わせました。
数秒間祈りを捧げると、再び車に乗り込み、
恐る恐るエンジンをかけてみました。
するとどうでしょう。
さっきまでうんともすんともしなかったエンジンが一発でかかり、
ウソの様に車は快適な音をたてて走り始めたのでした。
ホテルへと走り出した道中、誰一人として口をきく者はいませんでした。
いけにえの祟りについて、
最後に、こんな話を・・・
島根県松江市に、2015年7月に国宝として指定された松江城があります。
この城には悲しい言い伝えが残されているのをご存知でしょうか。
この松江城築城の際、
石垣を積み上げても積み上げてもどうしてもうまくいかない部分があった。
松江城の工事が遅れがちで、家臣たちはその責任を果たすために若い女性を人柱(いけにえ)とすることを決意したのです。
折しも盆踊りの時期であったため、城下で盆踊り大会が催されていました。
その盆踊りの夜に、盆踊りの参加者の中から一番美しく踊りのうまい娘が無情にも連れ去られ、生き埋めにされたとされたのです。
ようやく、城の石垣は無事に積み上げることができました。
しかし、松江城の完成は慶長16(1611)年ですが、吉晴、忠氏の父子はそれまでに相次いで死去。このうち忠氏は領内の見回り中、とある神社の禁足地に1人で入り、その直後に27歳の若さで謎の死を遂げました。
3代目の忠晴は跡継ぎのないまま寛永10(1633)年に死去したため、堀尾家は断絶。
続いて松江城に入った京極忠高は三の丸を完成させますが、数年後に亡くなり、京極家もお取潰しになったのです。
松江藩の藩主が2代続けて改易になったのは、生贄になった娘の祟りだという。
それだけではなかった。
城下で盆踊りが行われると天守が大きく揺れ動ごくという異変が何度も起きたと言い、城下で盆踊りが行われると城下で災いがあるとされ、
これは、盆踊り中に誘拐され人柱にされた娘の祟りとのうわさが領内に広まった。
やがて、松江では盆踊りを踊らなくなったといいます。
今でも松江城近くでは盆踊りを行ってはいけない。とされている。
END


