●土下座の母と、未来を信じた少年
1966年〈昭和41年〉9月30日、
神奈川県川崎市に一人の男の子が生まれました。
名前をのりゆきと名づけられました。

しかし、お父さんが酒好き、ギャンブル好きで生活がままならず、
安定した生活を求めて親族を頼って岡山県に引っ越します。
そこでもお父さんの酒好きから仕事などが安定せず、
愛知県の名古屋市に引っ越します。
でも、そこでもお父さんのギャンブル好きで生活がままならず、
お父さんの実家がある神奈川県川崎市に助けを求めて引っ越しました。
そんなある日、ノリ(のりゆき)がまだ生後8カ月の時、
ノリの両足に大やけどを負ってしまいます。
この火傷でノリの左足の指が変形してしまいます。
後の大きくなった時、ダンスなどを続ける上で大きなハンデとなってしまいました。
しかし、ノリは自分には欠陥があると嘆くのではなく、
「だからこそ鍛え抜くしかない」と決意しました。
腹筋1000回を日課 にして、それは20年以上欠かさず続けてきたといいます。
火傷で変形した足を見つめながら、彼は床に手をつき、腕立てを始めた。
100回、200回…やがて1000回。それは自分の弱さに打ち勝つための祈りのようでした
また、腕立て伏せやランニングも徹底しており、
1か月に100km走ることを自らに課していた時期もありました。
父親の実家に戻ったから、もう大丈夫だと思ったのが間違いでした。
お父さんもお祖父さんも酒好き、ギャンブル好きだったのです。
ノリが今でも忘れらないという出来事があります。
それはノリが1歳の時でした。
家に借金取りが来て、いきなり畳に包丁を刺して、
金を払う様にノリの目の前で脅したのです。
母は彼らの前で土下座している風景でした。

母親は朝から晩まで働きづめだったそうですが、
家には借金取りが取り立てにくる毎日でした。
それは過酷な環境だったといいます。
この生活に耐えられなくなり、母親は離婚を決意し、
ノリは母子家庭となってしまいました。
しかし、父親はその後まったく姿を見せず、養育費を払わず蒸発し、
非常に貧しい生活になりました。この時期に父親がいなくなったので、
ノリは父の顔を覚えていないといいます。
離婚したので、父方の実家には居られず、
母と妹と3人で、川崎市内の桜本にある
コリアンタウンと呼ばれる地域に移り住みました。
コリアンタウンとは、在日韓国・朝鮮人が多く住む地域でした。
この為に、後に実は韓国人ではないかという間違った噂もたちました。
そこは風呂なしの狭い6畳と3畳のアパートで、
食べ物にも困るほどの貧しい暮らしでした。
しかし、それも仕方ありません。
ノリたちは文無しでアパートなど借りれなかったのです。
だから在日韓国人の家庭の離れを借りて母・妹と3人で暮らしていました。
近所で焼肉店を営む在日の方が、東山さん兄妹をよく家に招き入れてくれ
親子に食事を分けてもらいました。
そこのおばさんは「お腹すいてるでしょ」と言ってくれ、
店の余り物の豚足やトック(韓国餅)入りのスープ を分けてくれ
なんとか親子の空腹をしのいでいました。
ノリと妹はそれにかぶりつき、
「あの人たちがいなかったらどうなっていたか分からない」と後に語っています
コリアンタウン地域の人々に助けられたのでした。
当時、子どもたちの間では
「朝鮮学校の子に会うと割り箸を鼻に突っ込まれる」などの
差別的な噂が流れていましたが、実際にはノリ達が接した在日の人々は、
空腹の子どもに食べ物を分け与えてくれる優しい人たちでした。
この体験から、ノリは
「世間の偏見と現実の人間性は違う」ということを強く学んだのです。
風呂無しだったので、ノリは時々どうしても風呂に入りたくなったら、
学校のプールに忍び込んで体を洗っていました。
母親のしつけは厳しく、食事の作法などについて
「ビンタなんて当たり前。いつも靴べらで叩かれました。
でもそれは、家が貧しくても、母は「食べ物を粗末にしてはいけない」と教え、
少ないおかずをきれいに分けてくれました。
厳しい作法の裏には「どんなに貧しくても人としての品格を失わないでほしい」
という願いがありました。
3人の生活を支えるために、母親は理容師として、
NHK放送センター(渋谷)の職員向け理容室に勤務しました。
母親は朝から晩まで働きづめで、家計を支えるために必死に働いていたと言います。
母は女手一つで子供2人を養うため、朝から晩まで働きづめだったので、
洗濯とご飯と味噌汁を作るのは子供たちの仕事でした。
そんな中でも、母は朝から晩まで働き詰めでしたが、
帰宅すると必ず子どもたちの顔を見て「おかえり」と声をかけました。
疲れていても、子どもを安心させる一言を欠かさなかったのです。
やっと生活が安定してくると、間借りしていた在日韓国人の方にお礼を言い、
小学校3年生からは川崎市立古川小学校の学区に引っ越しました。
小学4年生の時に母が再婚しました。
これでやっと生活が安定して幸せになれる。
相手は母より年下のトラック運転手で、最初は優しい人と思えました。
しかし次第に酒癖や暴力が表面化し、壮絶なDVを受ける日々を送ることになります。
義父は小学生のノリの事を殴る蹴る。
DVの矛先が母に向かうこともあり、幼いながらも
「自分が盾にならなければ」と思い、強くならざるを得なかったと語っています。
小学校3年生から剣道に磨きをかけました。
6年生の時には川崎市の地区大会の地区大会で優勝しました。
剣道を通して、ノリは礼儀と強さを学びました。
自分にだけ暴力を振るうなら我慢できるが、母や妹にも手をあげるのは許せない。
母と妹は、ぼくが守るんだ。
結局、母親はDVが原因で離婚しました。
小学6年生の春の事です。
ノリの運命が変わる時がやってきたのです。
母がNHK放送センターの理容室で働いていた縁で『レッツゴーヤング』の公開収録チケットを手に入れ、ノリに渡しました。
友人3人とNHKホールへ観覧に行った。その帰り道でした。
渋谷スクランブル交差点で信号待ちをしていた坊主頭の東山の姿が、たまたま車で通りかかった事務所関係者の方の目に留まり、芸能事務所にスカウトされたのでした。
1982年に
錦織一清、植草克秀とともに少年隊のメンバーとなった
ノリこと東山紀之さんは、

1985年12月12日に少年隊として「仮面舞踏会」でレコードデビュー
デビュー曲ながらオリコンチャートでいきなり初登場第1位を獲得し、
「第28回日本レコード大賞」「'86FNS歌謡祭」で最優秀新人賞を獲得、
「第37回NHK紅白歌合戦」では「仮面舞踏会」で初出場を果たしたのでした。
去年の2024年、能登半島地震の被災地を訪れ、子どもたちにお守りを手渡しながら
「君たちには未来がある」と声をかけた姿は、かつての自分を励ますようでもありました。 苦難を背負った少年は、今では人々を支える大人になったのでした。
東山さんは木村拓哉さんや井ノ原快彦さんらと共に、被災地の輪島市を何度も訪問しました。
避難所で中学生にラーメンの炊き出しやお菓子の詰め合わせと日用品を手渡した。
受験を控えた子どもたちに「お守り」を配る
被災者と直接言葉を交わし、写真撮影にも応じて励ました。

「これからも微力ながら、一人でも多くの皆様が笑顔になれるように活動を続けます」と。
END
参考:カワサキ・キッド 懸命に生きたいたあのころ 東山紀之著作。
