●お化けの美佳ちゃんが来た!
1972年3月25日、韓国の済州島(チェジュ島)に一人の女の子が生まれる。
彼女が3歳の時、家族全員で大阪市生野区に引っ越す。
ただ貧乏だった家族は家を借りることさえも出来ず、
頼み込んで長屋の他人の家の2階の一室を借りて住むことに。
ただ、後から考えたら酷い部屋で、すきま風がひどく、
布団も薄くて寒くて眠れない様な部屋だったから貸したのかもしれません。
だから寒い時は、外に出て焚火をしていました。
防寒具を買うお金が無いので、新聞紙で服を作りました。
他人の家ですから、当然家に入る時は、お辞儀をしながら
よそ様の家の中を通って家族のいる2階に帰っていました。
しかし、家族7人で4畳半はとても狭く、テーブルを置く場所も無い。
食事は床に置いて食べました。
まともな食事を買うお金も無かったので、
家から徒歩で3駅くらい離れた青果市場に行き、
売れ残った野菜を頼み込んでもらったり、
捨てられる果物をもらったり拾ったりするのが、彼女の役目だった。
ある時、青果市場に行くと、お宝があった。
割れて売り物にならないスイカがあったのだ。
家に持って帰りみんなで食べた後、
スイカの種を大事に保管した。
そして、お腹がどうしてもへった時、
そのスイカの種をなめると、スイカの味がして幸せだった。
母は、美佳が拾って来た腐りかけた果物も、
工夫して美味しいおやつを作ってくれた。
また家にはお風呂が無かったので、
部活のシャワーが借りれない時は、スイカの皮の白い部分で体を洗った。
家での唯一の楽しみは、お兄ちゃんが拾って来た小さなテレビを見る事だった。
ただ、チャンネルを回す取っ手が無いので棒みたない所をペンチでつかんで回した。
家族の主食はすいとん汁。
よっぽど苦しい時は、物乞いもした。
ただ、家族はカトリックだったので、「清貧」は素晴らしいという考えで、
「持たざる者は美しい。他人に与えよ」を実践していることは、
むしろ、誇りでもありました。
背が低く、
太っていて、
貧乏だった美佳は、穴の開いたパンツをはいたりもして、
学校ではイジメられた。
6歳の時に、階段から転げ落ちるという事故にあい、口の中を切る大怪我をした。
顔に大けがをしたのもあり、顔を他人に見られるのが嫌でした。
「美佳ちゃん、笑うと怖い!」とか、
「お化けが来た!」と言われた。
元々は笑顔が素敵だった子だったが、笑顔が消え、
下を向いて自宅に帰る日々、
そんな姿を見た母は美佳に、
「美佳はスタイルもいいし、笑顔も可愛いから、
モデルさんになれるかもしれないわよ。」と言ってくれた。
母は、いつも前向きでポジティブでした。
いつも美佳の良いところを褒めてくれます。
母は化粧品の会社で働いていたのもあって、美佳に、
美しい人になる4つの秘訣を教えてくれました。
①■いつも姿勢を良くする事。
②■口角を上げて笑顔を作る事。
③■話す時は、ちゃんと相手の目を見て話す事。
④■相手に分かりやすく、ゆっくり話す事。
美佳は母の教えを覚えて実践しました。
そのお陰で段々と自信をつけ元気な少女になっていきました。

その頃、母が生まれて初めて誕生日プレゼントをもらいました。
「エチケット入門」という本でした。
とても優しかった母親は貧乏だった家庭のため、
■美容部員のお仕事の他にも
■生命保険の営業や
■ラーメン屋などをかけもち、過労がたたったのか
美佳が11歳の時、母がガンになった。
母の治療費の助けになる為にも、美佳は新聞配達を始める。
毎朝3時半に起きて、新聞配達をした。(その後7年間)
ちなみに、毎日休まず新聞を配っても月1万円だったという。
しかし、美佳が中学生になった頃から、母が寝たきりになった。
そうだ「母さんが死ぬまでに、モデルになってみせる。」
そう決心した美佳は、あらゆるモデル事務所20ヶ所に履歴書を送った。
しかし、当時は身長が160cmしかなく、
体型も陸上をやっていたためにモデル体型ではなかった。
案の定、全部のモデル事務所から不合格の門前払い。

普通の人なら、ここであきらめる所ですが、美佳はあきらめなかった。
「母さんが死ぬまでに、モデルにならないと。
時間が無い。」
中学3年生になった時、1つのモデル事務所に狙いをつけて、
履歴書を送った。
しかし、不合格。
きっと写真の映りが悪かったんだ。写真を取り直しまた履歴書を送る。
不合格。
また写真を取り直して、また履歴書を送る。
また不合格。
これを繰り返す事5回。
しかし、全部不合格。
普通の人なら、さすがにここであきらめる所ですが、美佳はあきらめなかった。
「母さんが死ぬまでに、モデルに。」
今度は、モデル事務所に直接電話した。
「写真写りが悪いので、実物を見た方が得だと思います。」と
面接のアポイントを取り付け社長に会った。
不合格。
面接した事務所の社長は笑いながら、
「また、大きくなったら遊びにおいで」と言った。
普通の人なら、さすがにここであきらめる所ですが、美佳はあきらめなかった。
不合格だったのに、遊びにおいでと言ってくれたのを、すぐ実践。
家から8駅も離れたそのモデル事務所に、
毎週自転車で通ったのだ。
これには、社長も根負け。
たまたま、キャンセルがあった1つのレッスン枠に参加する事を許したのである。
新聞配達の他にもパン屋でもアルバイトをして、レッスンを続けていると、
いつの間にか所属している様なことになっていた。
しかし、母さんは、それを見届けるかのうようにして、亡くなりました。
毎日の新聞配達やモデル事務所への自転車通勤や陸上部での練習などもあってか、
身長が中学時代より11㎝も伸びていた。
そんなある日、
仮所属だった事務所のマネージャーから京都でのファッションショーに誘われました
ただ、大阪から京都までの交通費が3000円もかかったのです。
貧乏な美佳には、大金でした。
それに、素人モデルのショーと聞き、気が進みませんでした。
せっかく勧められたのですが、行かないと決めました。
ところが、昼ごはんを食べに行った時、財布を無くしてしまいます。
お金を借りたので、急いで自宅の貯金箱のお金を取りに行くと、
父からの手紙がありました。
手紙には、「チャンスは突然やって来る」という様な事が書いてありました。
その言葉を見た美佳は、何かを感じました。
それは今かもしれない。
マネージャーに京都のファッションショーに行くを伝えたのです。
アルバイト終わりで待ち合わせて京都へ向かいました。
すると、
たまたまそのファッションショーにカメラマンとして来ていた
ドイツ人カメラマンのノーバート・ショルナー氏に声を掛けられます。
「モデルとして撮影してみないか?」
その時の撮影がロンドン雑誌の『i-D』に掲載されたのです。

やがてヨーロッパでも広まって有名になった美佳は、
その時に出会ったデザイナーが起用し続けてくれた結果、
そのデザイナーさんのパリコレが決まり、美佳のパリコレ出演が決まりました。
「母さん見てる、
美佳はモデルになったのよ。
パリコレに出るのよ。」
父は、美佳がパリコレに出たのを見届けると、亡くなりました。
いつも前向きでポジティブだった母の
話すコツなどの教えと明るい性格が、今の彼女の元となっている。
今、アンミカ(安美佳)さんは
通販の女王と言われるようになって頑張っている。


