●徳川家康という男。
誰も知っている天下人、戦国武将・徳川家康。
日本を統一し、平和な世界・江戸260年を築いたその人です。
私は個人的に、日本人で最も成功した人ではないかと思っています。
そんな徳川家康とは、どんな人だったのでしょうか?
当時の徳川家康の性格をよく表している言葉があります。
日本の歴史で最も有名な武将と言えば、
織田信長・豊臣秀吉そして、徳川家康。
その代表的な3人の性格を、ホトトギスにちなんだ句で表したものがあります。
当時、夜に鳴く鳥として、ホトトギスは珍重されました。

特に正月、年初めに初めて聞くホトトギスの鳴き声を聞くのは縁起が良いされ、
誰よりも早くホトトギスの鳴き声を聞きたいと
夜どうし寝ずに待ったとも言われています。
①■織田信長

鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス。
③■そして、徳川家康。

鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス。
それぞれの武将の性格を表しています。
①■織田信長は、短気で気難しい性格として知られ、
天下統一に邪魔だった比叡山延暦寺を焼き討ちし、
延暦寺の伽藍を焼き払い、僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言い、
その死者は1,500人~4,000人と言われています。

②■豊臣秀吉は、どんな事も自分の才能で、実現させてやる。
という自信にあふれる人だった様子がうかがえますね。
昔、彼がまだ織田家の下僕として働いていた頃、
普通であれば下僕の身分では、信長と話すこともできません。
しかし、ある雪の降る夜、信長の草履が雪で冷たくなっていました。
そこで、自分のふところに草履を入れて温めていました。
信長がその草履を履いた時、なぜ草履が温かくなっていたのかを問いただすと、
秀吉は「自分が懐で温めておきました。」と言い、
信長はその心意気を気に入り草履頭にしたのでした。
つまり、自分の実力で上に上がっていったのが豊臣秀吉なのです。
③■それに対して、徳川家康の句は、
我慢強く、忍耐強く機会をうかがって待つ性格を表しています。
その3人の結果は、その後の歴史が証明しています。
①■短気だった織田信長は、天下を統一せず亡くなり、
②■才能があった豊臣秀吉は、わずか7年しか天下人になれず、
③■それに対して徳川家康は、260年もの天下平和の世を築いたのでした。
ちなみに、
松下電器(現:パナソニック)の創業者である松下幸之助は生前、
「鳴かぬなら それもまた良し ホトトギス」と詠んだそうですよ。
私が今回、皆さんに一番知ってもらいたい徳川家康は、下です。
小田原征伐の時、徳川家康率いる軍勢は、ある山の崖にさしかかります。
その崖には、人がやっと通れる丸太の橋がかかっていました。
それは、歩いて渡るにしても、とても恐ろしい橋でした。
当時、馬の扱いなら、家康は「海道一の馬乗り」と言われるほど巧みでした。
さて、ここで問題です。
当時、馬術の名手と言われていた徳川家康は、多くの家来が見ている前で、
どうやって、その橋を渡ったと思いますか?
下からお選びください。
①■馬に乗り走って、橋をあっという間に渡った。
②■馬に乗ったまま、ゆっくりと橋を渡った。

③■馬を降りて、馬をひきながら歩いて渡った。

④■馬を降りて、誰かに馬をまかせて歩いて渡った。
⑤■馬を降りて、家来の背中におんぶしてもらって橋を渡った。
⑥■怖いので、橋を渡らなかった。

少し考えてみてから、先をお読みください
正解は、
⑤■馬を降りて、家来の背中におんぶしてもらって橋を渡った。
橋を渡るのが上手い家来を呼び寄せ、その家来の背中に。
しかも、徳川家康は崖から30mも手前から馬を降りて、橋まで歩いています。
つまり、馬が何かの拍子で驚いて崖に突っ込む可能性をも排除しているのです。
その様子を見ていた多くの家来たちは、
「あれが、海道一の乗りざまか」と、大笑いしたと言います。
しかし、当の徳川家康は、どこ吹く風。
家康にとって、一番大事なのは、橋を安全に渡る事。
その為なら、誰に笑われようと、
誰に中傷されようとも関係ないのです。
私を含め、多くの人は、
つい見栄を張って、周りに合わせて高いランチを食べたり、
必要も無い高い物を、見栄で買ってしまったりしますが、
誰に笑われようと、誰に中傷されようとも、
本当に自分が正しいと信じる道を選びたいものですね。
徳川家康さんの様に。
最後に、
徳川家康の我慢強く慎重な性質をよく表した名言があります。
皆さんが生きていく参考になれば、幸いです。
①■人の一生は、
重き荷を負うて、遠き道を行くがごとし、
急ぐべからず
②■不自由を常と思えば、
不足なし。
END
参考:画像は100分de名著 覇王の家 司馬遼太郎
https://www.nhk-ondemand.jp/program/P202300355200000/index.html
