●中学校ゆうところは、ひとつも面白うない。
1943年1月7日、広島県広島市に一人の女の子が生まれる。
予定日より一週間早く、元気に生まれました。
両親は、元気に育つようにという願いをこめて、禎子(さだこ)と名付けました。
ちなみに、「禎子」の「禎」の字は幸せをつかむという意味が込められています。
禎子は、すくすくと育ち、やがて広島市立幟町小学校に入学します。
運動神経が抜群で足が速く、学校の友達いわく、
ゴムとび、縄跳び・ドッジボール・鉄棒。
何をやっても女の子では禎ちゃんが一番だったといいます。

そんなさだこの将来の夢は「学校の体育の先生」になる事でした。
禎子の父親が経営していた理髪店(床屋)は繁盛していたのですが、
禎子が6年生の時に、父親は知人の保証人になっていて、
その知人が夜逃げをしてしまい、
借金取りが、禎子の家に押し掛けて来る様になってしまいました。
それでも禎子は、親孝行で元気いっぱいな女の子でした。
小学6年生の春の運動会で、
学級対抗リレーの選手の一人に選ばれたが6年竹組でしたが、
バトンを2度も落とすなどして屈辱の最下位になってしまいました。
意気消沈している6年竹組の皆に、禎子は言います。
大丈夫、練習すればきっと今度は勝てる。
その後は禎子が中心になってリレーの練習を続けました。
そして、秋の運動会で、6年竹組は優勝したのです。

しかしその直後から体に異変がみられるようになり、
首や耳の後ろにしこりができた。

しこりは少しずつ大きくなり、顔がおたふく風邪のように腫れた。
かかりつけの小児科医の畑川先生から父親に言われた病名は、
亜急性リンパ腺白血病。
余命は、早くてあと3ヶ月、長くても1年はもたんでしょう」と告げられた。
実は、禎子(さだこ)は2歳の時、あの原子爆弾(ピカ)にやられていたのである。

広島に原子爆弾が着弾した爆心地から、わずか1700m離れた楠木町にいたのだ。
そして原爆が落とされた日が、8月6日。そう今日なのです。黙とう。
爆発と同時に家屋は外形をとどめる事なく倒壊。
爆発の衝撃で禎子ちゃんだけが裏庭まで飛ばされていました。
しばらくすると空が真っ黒になって、
黒い雨が降り始めました。
黒い雨はドッロした粘り気があり、
子供心に「大変な事態が起きている」と気づきました。
2歳の禎子は「お母ちゃん、こわい・・」と母にしがみつきました。
その顔には墨汁の様な黒い雨の水滴が筋になって流れていました。
その雨こそが、放射性物質を含んだ(黒い雨)であり、

その雨が禎子ちゃんを白血病にした死の雨だったのです。
被爆してから9年経ってから牙を向いた放射能。
借金に追われていた禎子の両親の生活はかなり苦しく貧乏でした。
だから病院の治療費もままならなかったそうです。

当時、保険制度はまだ充実してなく薬代が無いと治療が受けられなかったのです。
輸血や関節の痛み止め等は、かなりの金額がかかり、
例えば、内出血した時に使うコルチゾンという薬は、2200円だった。
1回目は何とか用意出来たが、2回目は用意出来ませんでした。
すると、病院にいる禎子から家に電話で、
「お父ちゃん、私、700円持っているから、
1500円用意出来たら、お父ちゃん持ってきてね。」と言うんですわ。
ごめん禎子、父ちゃん、金無いんや。
その後、病院に行って禎子に用意出来なかった事を謝ると、禎子は、
首の出血部分を隠しながら、「いいよ。いいよ。」と言ってくれるんですよ。
この時の事が、私にとって一番辛かったです。

禎子ちゃんは入院中、お父ちゃん、お母ちゃんに心配かけまいと、
「痛い」「苦しい」「助けて」という事を、 一度も言わなかったという。
6年竹組の先生は、みんなに言いました。
「佐々木(禎子)は、これから長いこと、病院へ入院せんといけんようになった。」
「なかなか難しい病気らしい。」
「佐々木は小さい頃に原爆におうとる、どうもそれが原因らしい。」
「のぉ、みんな、佐々木はこれから長い事病気と戦わにゃならん。」
「竹組の目標は団結じゃったのぉ。
友達が苦しんでいる時は、一緒に苦しんでやろうじゃないか。」
さっそくホームルームで、お見舞いに行く順番を決めました。
一度に行くと病気に障るといけないので、
3・4人づつ交代で毎日行く事にしました。
一番最初にお見舞いに行く時に、何か禎ちゃんに持って行こうという事になり、
みんなで相談して禎ちゃんが大好きなコケシを買って行きました。
そのお見舞いは、卒業の日まで毎日続けました。
その年の夏、禎ちゃんが入院している病院に、
お見舞いとして、 愛知淑徳高校の青少年赤十字部から千羽鶴が届き、
折り鶴が各病室に分けて配られました。
その時、「千羽鶴を折ると願いが叶う」と聞いた禎ちゃんの目が輝きました。
その日から禎子ちゃんは鶴を折る様になりました。
当時は今の様に色紙がなかなか手に入らずに、
飴や薬の包み紙や、身の回りで手に入れた紙を使いました。
病院内の人達が紙を取っておいてくれたり、
わざわざ持って来てくれる人もいました。
その紙を使って禎子ちゃんは一心不乱に折り鶴を折り続けました。

起きている時は、常に折り鶴を折り続けました。
しかし、何百折っても、禎ちゃんの病気は良い方向に向かいませんでした。
心配したお母さんは、ある日、禎子に、
「まだ折り続けるの?」と聞くと、こう言ったといいます。

「お父ちゃんの借金が早くなくなります様にってお祈りしてるの。」
禎子ちゃんのそんな優しい思いに、お母さんは涙が止まらなかったそうです。
被爆して亡くなる直前まで鶴を折り続けた禎ちゃんでしたが、
1955年10月25日午前9時57分、佐々木禎子は永遠の眠りにつきました。
竹組のみんなは葬式に参加すると、
禎ちゃんに何もしてあげられなかったから、せめて、
お墓を建ててあげようと募金を始めます。

しかし、募金をしている過程で、禎ちゃんの様に原爆症で亡くなった子供が、
広島市内の小学校には沢山いる事を知ります。
そこで、そういった子供たちをも含めた慰霊碑を作ろうという事になりました。
禎ちゃんの死から3年後、多くの人の寄付によって、平和公園に、
「原爆の子の像」が完成したのでした。

原爆の子の像のテッペンにある少女像は、禎ちゃんがモデルとなっています。

最後に、
禎ちゃん(佐々木禎子)の大親友だった川野登美子さんが、

当時、禎ちゃんのお見舞いに行っていた頃の思い出を語ってくれました。
小学校6年の途中から入院した禎子ちゃんでしたが、
学校の計らいで、小学校の卒業と、中学校の入学の手続きは完了していて、
親友だった川野登美子さんと同じ中学に席がありました。
ただ、一度も中学に行く事は出来ませんでした。
そんなある日、川野登美子さんお見舞いに行くと、
相変わらず、禎ちゃんは一心不乱で千羽鶴をおっていました。
病室の天井やベッドの周りに、折り鶴を糸で通して沢山ぶらさげていました。

禎ちゃんは、「病気がようならんけぇ、治るまでおるんじゃ。」
「早う中学校へ行かにぁ勉強が遅れるけぇ。」
そう言って、一生懸命鶴を折りながら、
私に、中学の事ばかり聞いて来るのです。
「中学校ゆうのは、どんなとこなん?」
「教科によって色んな事を勉強するんでしょ?」
「いいなぁ、私も早う行きたいなぁ」
けれども、私は禎ちゃんが、
もう中学校へや行かれんゆう事を知っていましたので、
中学校ゆうところは、ひとつも面白うない。
「教科によって先生が変わってしまうし、クラスのみんなはよそよそしいし・・・」
「小学校の竹組だった頃の方が、よっぽどええよ。」
「中学校ゆうところは、ひとつも面白うないよ。」と話をそらしました。

無心に鶴をおる禎ちゃんが可哀想でなりませんでした。
父さん、ごめんね。
いっぱい、いっぱいお金を使わせて、心配かけて。
母さん、泣かないでね。

禎子ちゃん最後の日、父親が、
「何か食べたい物はないの?」と聞くと、
「病院のお茶漬けが食べたい」と言ったという。
しかし、9時半を回っていたので、病院の食堂はしまっていました。
そこで、父親が外にある食堂に行ってお茶漬けを買って来ると言うと、
きっと禎子は、外の食堂は高いのを心配したんでしょうね。
「お父ちゃん、外の食堂のご飯ならいらない。
広島赤十字病院のお茶漬けを食べたい。」と言うんです。
しかし、広島赤十字病院のお茶漬けはもう買えないので、
困ったお父さんは、外に買いに行ってから、
病院に何度も頼み込んで器だけ借りました。
そして、
「禎子ちゃん、広島赤十字病院のお茶漬けよ。」と言うと、
禎子は、「うん」と言って、
最初に一口を食べた後「美味しい。ありがとう。」と言い、
二口目を食べ終えると「フーッ」とかすかに息をつきました。
「お父ちゃん、お母ちゃん、みんなありがとう。」
そう言って皆んなを見渡してから静かに眠る様に、
目を閉じ、天国へと召されていきました 。
中学生活を夢見ながら、永遠の眠りにつきました。
最後まで家族思いの優しい子だったそうです。
享年 12歳。
棺の中には、クラスメイトからもらった唯一の宝物のコケシが、
大事に添えられていました。

佐々木禎子さんが生きたいと願って折り続けた折り鶴は、
今、世界中の平和と核兵器の無い世界を祈る象徴となっている。
END
https://www.youtube.com/watch?v=dJNmQQjLjwU
参考:https://www.youtube.com/watch?v=K-Zu7Ynj5xA
https://www.youtube.com/watch?v=2a8PorooWhU&t=10s






