●もう二度とピアノが弾けない。


1974年、

大坂府堺市(現在の西区)に、一人の男の子が生まれます。

子供の頃、何をやってものんびりしていたため、

みんなから、「のび太」と呼ばれてしまいます。

中学生になると、彼はブラスバンド部に入り、チューバを始めます。

やがて先生の様に上手くなりたい。と思う様になり、

中学3年の時に、音大に進学したいと決意します。

しかし、音大受験は、チューバだけでは不可能でした。

なんと、音大受験にはピアノ演奏が必須だったのです。

それを知って、愕然としましたが、

彼は部の顧問に頼んでピアノを教わり始め、

その日に大学の志望学科をピアノ科に変更することを決めたのでした。

しかし、周りからは、

お前はバカか!!!

 15歳からピアノを習い始めて音大に入るなんて、

 絶対無理だ
!ヤメロ!!」 と言われてしまう。


実際、音大に入る人は、

子供の頃からピアノの英才教育を受けてきた人ばかりだったのだ。








それでも、「のび太」は諦めなかった。


ピアノがある祖母の家で、毎日7~12時間練習に明け暮れた。

その結果、見事、周りの予想を覆し、

大阪音楽大学短期大学部ピアノ科に現役で合格したのである。

大阪音楽大学短大卒業後は、アルバイトを掛け持ちしながら海外を回り、

なんとか4年制の音楽大学への編入試験を受けましたが、

残念ながら2年連続で不合格となります。

のび太は、親を安心させる為に、

和菓子屋の「たねや」に就職し、

 

 

大阪高島屋店の食品売り場で和菓子を販売しました。

それでも、和菓子店の店員として働きながら、

ピアノ演奏の依頼を受けると、仕事が休みの日に演奏して夢は追い続けました。

そんな1999年のある日、

あるピアノ調律師から、

「海外の有名なデュオピアニスト(ブラッドショーとブオーノ)が

 大阪でコンサートをするから、その前座で弾いてみない?」と誘われます。

 

プロのピアニストの前座として1曲弾かせてもらうチャンスが訪れたのだ。

ただ、そのチャンスも、思うような演奏が出来ず、彼は陰で落ち込んでいた。


しかし、のび太の演奏を聞いていたブラッドショーとブオーノから、

「荒削りだけど、ユニークでドラマティックな演奏だったよ。

 もし、本気で勉強したければ、金銭的な心配はいらないから

 ニューヨークに来て、僕たちの弟子にならないか?」と誘ってくれたのである。


「たねや」の店主にこの事を伝えると、

「職場の籍はこのままにしておくから頑張っておいで」と背中を押され、

3ヶ月間の予定で渡米した。

マンハッタン近郊で居候生活を初めて、夜から早朝4時まで課題をこなし、

昼間はマンハッタンのブラッドショーのもとに通ってレッスンを受ける日々を送った。

2ヶ月後、リサイタルを開くとこの公演が成功し、

すぐにスポンサーがついてプロのピアニストとしての道が開けたのである。

一時帰国して「たねや」の店長にピアニストの夢を叶えた事を報告。

感謝して退職し、再びニューヨークに戻ったのだった。


彼はプロになって、順調な2年が過ぎようとしていた。

アメリカン・ドリームは、すぐ目の前だった。


そんな時だった。


リサイタル中に手の指が、思うように動かなくなったのである。



ジストニアだった。


ジストニアとは、

 

中枢神経系の障害による不随意で持続的な筋収縮にかかわる運動障害で、

体の一部を酷使する人が発病しやすいといわれていて、

明確な治療法が発見されていない難病である。

彼の場合、なんと両手がジストニアにやられてしまい、

右手が3本、左手が2本しか動かなくなってしまった
のである。

一時は両腕が使えなくなった。


その後病院をいくつか巡るが、

ボトックス注射、飲み薬、催眠療法など色々試したが効果は、まったくなかった。

診察した5人のそれぞれの医師全員から、

プロとしてピアノを弾くことはもう不可能ですね!」と診断されてしまう。

 

もうその手では、ピアノを弾く事はできませんよ!!

 

 



ピアノ弾けなくなった彼は、あっという間に貯金を失い、

収入がなくなったため清掃員や民泊の運営の仕事を掛け持ちした。

師匠のブラッドショーとブオーノに迷惑をかけられないとの思いから、

マンハッタンのわずか2畳半の狭い部屋に引っ越した。

そこは治安も悪く、アパートの周りには、浮浪者が路上で寝ていたりした。


もう僕はダメだ。

もう二度とピアノは弾けない。


こんな動かない手でピアノを弾いたのでは、笑われてしまう。

ピアノを弾けない自分と将来を悲観して、彼は状態に陥った。

その後、清掃員やホテルマンなど様々な仕事で食い繋ぎますが、

ピアノの仕事は当然ながら無かった。

 
しかし、そんな彼を見ていた師匠のブラッドショーだけは、諦めていなかった。

師匠は、彼に、

それなら右で和音、

 左でベース音が弾けるね。

 1本でも動くならピアノを弾き続けなさい
」と励ましたのである。

そして、指が動く時だけピアノに触れさせ、動かない時は、

コンサートのビデオなどを観せるなどして、彼を精神的に支えてくれたのである。


そんなある日、

落ち込んでいた彼に、ある依頼が舞い込む。

それは、幼稚園児の前で「きらきら星」を弾いてもらいたいという依頼。

彼はためらったが、幼稚園児になら笑われてもいいかと引き受ける。

へんてこな指使いで、「きらきら星」を弾いた。


しかし、なんという事だろうか?

幼稚園児たちの一人も、彼のへんてこな指使いを笑う人がいない。

それどころか、音楽を楽しむ園児たちの姿に、彼は勇気をもらった。

もう一度、やってみよう。

 

神様、

こんな私でもピアノを弾いてもいいですか?


それからは必死のリハビリ。

3分のピアノ曲を2~3時間かけて一音一音弾くことを必死に繰り返した。

懸命のリハビリを続けた結果、

 

5本しか動かなかった指が7本まで使えるように回復した。

 

いや、7本も使える様になった!。

発症から8年目に、

イタリアの国際音楽フェスティバルでヨーロッパデビューを果たす。

病気のことを伏せて演奏したが観客からスタンディングオベーションが起こり、

再起への手応えを感じたのだった。


やがて、西川悟平さんは、

7本指のピアニスト」として知られるようになり、



 

■ニューヨーク市長公邸で演説と演奏を依頼されたり、

■国連創設70周年のコンサートなどにも依頼を受けて出演した。

■世界的な大富豪ロスチャイルド家の7代目でソプラノ歌手の

シャーロット・ド・ロスチャイルドから連絡をもらい、日本で演奏会を開く。


そして、2021年9月5日、

 

2020年東京パラリンピックの閉会式に

 

出演し演奏を披露したのである。


今や彼は、世界的なピアニストである。

指が7本しか動かない現実も、

 

7本も動く」と考えを切り替えたことがきっかけで、

他のマイナスなことも受け止め方次第でプラスに変わると学んだのである。














最後に、

 

ニューヨーク生活での、こんなこぼれ話を2つ

彼が、治安の悪いアパートに引っ越した時の話である。




いつもの様に、

寝ぼけた顔で朝マンハッタンをグランドセントラルへ向かって歩いていたら、

私に向かって、

HI FRIEND!!!!  HI  FRIEEEEND!!! と叫ぶ声が聞こえた。



ちなみに、Hi Friend!と呼ぶのは、

名前はしらないけど、親しい気分の顔見知りを呼ぶ時に使います。



まさか自分をよんでるとは思わなかったけど、

あまりにデカイ声なので振り向いた。


そうすると、

自転車に乗ったおじさんが大振りで僕にむかってニコニコして手を振っている。


僕は、 「なんや、このおっさん?」と思った。


すると、キョトンとしている私に向かって、


以前、布団ありがとう!

 ほんとうに助かったんだよ
おお。」と言って来たのだ。


その時に思い出した。



そう言えば、ある晩、うちの近くでホームレスが強烈な暴風の中、



段ボールにくるまって寝てるのを横目に通り過ぎ、家に着いた。



寝る時になって、あまりの風のはげしさに、

そのホームレスがど~しても気になり、眠れず、

つい、そのホームレスの所に行き、自分の羽毛ふとんをあげてしまったのだ。

清水の舞台から飛び降りる感じで。。。

その人が、なんと僕をおぼえていて、声をかけてくれたのだ。


しかも、私が嬉しかったのは、

その後、彼がちゃんと仕事に就いていた事だった。

何度も,何度も、何度も、サンキュを言ってくれた。

周りが見ていて、恥ずかしかったけど、とても嬉しかった。

あの羽毛ふとんをあげてしまった後になって、

返して欲しく夢に見た事もあったから、

こうやって僕のことを覚えていくれていた事と、

そのホームレスが仕事をしていた事が、

見返りとして帰って来てハッピーになれた。

こちらこそ、ありがとう。












ある日、アパートのドアをノックする人がいて、

開けると、2人組の強盗に押し入られました。

ひとりは黒人、もうひとりはラテン系の男です。

透明の液体が入った注射器で脅されて恐怖を感じた西川悟平さんですが、

大学で心理学を学んだことがある経験と、2人に対する興味で、

どんな子ども時代だったのか聞いてもいいですか?」と質問しました。

最初は、「お前なんかには分からない」と取り付く島もない状態でしたが、

やがて幼少期に経験した親からの虐待など悲惨な過去について話し始めます。

その話を聞いて同情した西川悟平さんは号泣し、

なんでも好きな物を持って行っていい」と伝えると、

そのひとりが日本人を尊敬していて日本文化に興味があると語りました。

そこで、西川悟平さんが「緑茶を飲みますか?」と誘い、

一緒にお茶を飲むことになった3人。

ひとりが部屋の中に貼ってあったカーネギーホールのポスターを見て、

「演奏したことがあるのか!」と言い、

西川悟平さんが「小ホールだよ」と答えると、

「小ホールって何だ?」と返されます。

そんな2人のために、夜中4時にリサイタルしてあげたくなって演奏を始めましたが、

2、3曲弾くつもりだったのに、リクエストが止まりません。

結局、1時間弾き続け、ひとりから

「実は、今日誕生日だからハッピーバースデーをリクエストしていいか?

と依頼されて全力で弾いた結果、

誕生日に演奏してもらったのは人生で初めてだ。

 ありがとう
」と涙を流しながら感謝されます。

そして、シャワーを浴びてから帰宅することを勧めると、

強盗2人は不調だったシャワールームの暖房を修理してくれ、

結局、何も盗らず、鍵はちゃんと掛けろよ!

とアドバイスまでして出て行ったそうです。

西川悟平さんは、強盗2人が帰宅する際に、

警察には通報しないので、何か職業に就いてほしい。

「いつか、カーネギーホールの大ホールで演奏する際には、VIP席を用意するよ

 

と約束し、黒人と携帯番号の交換をしました。




すると、神のいたずらか、不思議な事に、その1年後、

本当にカーネギーホールの大ホールでの公演が決まります。

西川さんは、約束通り泥棒だった2人をVIP席に招待した。

2人はスーツを着て公演に来てくれたという。


そして、西川さんが一番嬉しかったのは、

2人共ちゃんと仕事していて立ち直ってくれていた事だったという。

その半年後、彼らからお礼のメールが届いた。

「清掃業をしてお金を貯めて、中古の日本車を買ったんだ。

 いつか、お前に観てもらいたいな。」

 

よっぽど嬉しかったのか、

 

車の写真が5枚も同封されていたという。









西川さんは、その後インタビューで、こう語っている。

「今となっては、

 病気(ジストニア)は神様からのギフトだと思ってます。」

 

 

 



 最悪の出来事もちょっとした考え方と行動の違いで、

 最高の出来事に変わることもある。
」  西川悟平。


END

 

 

 

 


参考:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B7%9D%E6%82%9F%E5%B9%B3

西川悟平さんのブログ https://goheinishikawa.blogspot.com/2011/02/blog-post_25.html