●消えない遺産。


いきなり問題です。

下の国旗は、どこの国の国旗でしょうか?

 

分かる方は、すごい!

少し考えてみてから、先をお読みください。

























答えは、

満州国(まんしゅうこく)の国旗です。

満洲国とは、昔、日本の関東軍が占領した日本の植民地です。(今は中国)

当時、日本は、満州国の建国と満州開拓が国策となって、

「満州農業移民100万戸移住計画」が推し進められて、

 疲弊した農村の経済の立て直しや食糧増産などを目的に推し進められましたが、

実際には、「満州国」の支配、防衛といった軍事的な目的でした。

一時期は、満州は夢の国と歌われ、

実際に都市部ではレンガ造りの立派な家に水洗便所がある家に住めるし、

日本で勤めるよりも、外地手当てがつくというので、喜んで渡った人もいました。

また、第二次世界大戦中には、満州に住めば空襲が無いし、

食料も豊富で、内地にいるよりも安全で豊かな生活が出来ると渡った人もいます。


しかし、その後の満州の人達を襲う悲劇は、皆さんもご存知だと思います。

終戦前後の混乱に殉難して亡くなった人は、20万人以上にのぼると言われています

また、2万人以上の人が自決したといわれます。

なんとか引き上げて来れた人も、

「あれは、この世のものとは思えない恐ろしい情景だった。」と回想します。

それが日本が国策として推し進めた結果でした。


軍部を始め、日本が国策として満州に進出していく中、

 

軍部に目をつけられるのを承知で、

一人の実業家が、勇気をもって満州国建国に反対します。

講演やラジオで、何度も、平和の大切さを訴えました。



「軍備を拡張し、よってもって他国を圧迫し、

 これを併呑するがごときは、

 まったく国際法を無視したる野蛮行為である。



さて、この勇気ある声を発したのは、誰だったと思いますか?


少し考えてみてから、先をお読みください


























勇気ある声を発したのは、渋沢栄一さんでした。

そうです。来る2024年に1万円札になるあの渋沢栄一さんです。





渋沢栄一さんと言えば、

今テレビ番組でも度々取り上げられていて、ご存知だと思います。

約500の会社を育て、約600の公共事業に関わった功績がありますね。

日本初の株式会社を設立したり、

日本初の銀行を設立したり、(今のみずほ銀行)

日本女子大学校(現在の日本女子大学)や商法講習所(現在の一橋大学)、

東京女子大学校(現在の東京女子大学)を設立した。

1100以上ですから、挙げたらキリがありませんね。




多分、渋沢栄一さんの事をテレビで知った人は、

こんな風に思うかもしれませんね。

「凄い人だ。 きっと大金持ちになったに違いない。

 子孫達がうらやましい。


私個人としては、渋沢栄一さんの事をそこで終わって欲しくないと思い、

今日の記事を書いています。

 

私はむしろ、彼の晩年の活躍の方が1万円札に相応しい人物だと思っているので。






大正5(1916)年、76歳になると、

渋沢栄一さんは、全ての事業から完全に引退します。

引退した後は、より一層、慈善活動と平和活動に専念します。


7年後の渋沢83歳の時、大正12年9月1日昼の11時58分。

関東大震災が起きます。

靖国神社に設置された仮設住宅


渋沢栄一の事務所は兜町にあったので、当然大損害を受け、

事務所にあった宝物などは、全て焼けてしまい、ビルも崩壊します。

奇跡的に自宅に戻れた渋沢栄一。

その時、家族にこう言われます。

「危ないから今すぐ郷里埼玉県に避難しましょう。」

それに対して、渋沢栄一は、こう叱責します。

「私のような老人は、こういう時に、

 いささかなりとも働いてこそ、

生きている申しわけが立つというもの。」

 

そう言うと、渋沢はすぐに動いた。

「食べる事にも不自由な人達がいるはずだ。」と、

自費を投じて、埼玉から米4000俵を買い入れ、

自宅を開放して、食料の配給を始めた。


 

また、自宅に来れない人達の為に、炊き出しを行った。

 

そして、火傷や怪我した人達の為に臨時病院を設立した。

 

9月8日、震災から1週間後、

芝浦湾に、大量の救援物資を乗せたアメリカ軍の船が届く。

 

実は、17年前、アメリカでサンフランシスコ大地震が起きた時、

渋沢栄一が日本の政財界に働きかけて、多額の義援金を送っていたのだ。

その恩返しだと言われる。


あまり知られていないが、実は、

渋沢栄一は、2度もノーベル平和賞に推薦されノミネートされた事がある。

 

 

更に渋沢は、被災地の復興計画に役立つように、

国際的な人脈を生かし各国の有力者に頭を下げ、多額の義援金を集めて、

東京を復興させる資金に提供したのである。




他にも渋沢栄一さんがおこなった慈善活動にはこんなものがあります。

■東京養育院の設置。

 当時の東京には、障害者や障害児親に捨てられた孤児や震災孤児が大勢いました

 そんな人達に救済の手を差し伸べたのです。

 

■結核予防協会を設立。

 当時の日本には、時不治の病と恐れられていた結核がありました。

 その結核を予防する為に渋沢の資金援助で結核予防協会を設立。

■積徳育児院という埼玉県で初めての孤児院が潰れそうになっているのを知ると、

 資金援助して立て直し、多くの捨て子や孤児がみられ、恵まれない子供達を救った

■アメリカに渡り、アメリカ大統領に逢い、日米平和の懸け橋になるべく翻弄した。


■日本で最初の「知的障がい者施設滝乃川学園」の理事長に就任して支えた。

日本赤十字社(現在の日本赤十字)の設立に携わった。




1100もの会社の設立に携わった渋沢栄一は、

さぞかし大金持ちだと思われていた。

しかし、その実情が戦後明らかになる。

第二次世界大戦終了後の日本は、GHQに統治されていた。

そんなGHQは、日本に再軍備をさせない為に、

戦時中に軍国主義の温床になった財閥を解体する命令を出す。

住友財閥や、三菱財閥、三井財閥、芙蓉財閥などが次々と解体を命じられる。

その中に、渋沢の会社も入っていた。

しかし、GHQが渋沢の会社を調べて見ると、

ほとんど財閥言えるほどの資産が無かったのである。

実は、渋沢栄一は、沢山の企業の設立を行ったのだが、

ほとんど無償に近いものだったのだ。

渋沢栄一は、自分の資産を増やすという事にまったく興味がなく、

人々が幸せになる為になるならと、無償で動いていた
のである。

その為に、渋沢栄一はどんな人にも会って困っている事を聞いたという。


当時、こんな話がある。

財閥が幅を利かせていた頃、

金持ちが民の利益をむさぼっているとして、

金持ち実業家の暗殺が横行していた。


例えば、三井財閥の当主・團琢磨が暗殺された。

当時の首相原敬も、東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺(刺殺)された。

安田財閥の創設者・安田善次郎もこの時に神州義団団長を名乗る朝日平吾に暗殺された。

実は、暗殺団の一人で、安田善次郎を殺した朝日平吾は、

渋沢の家にも行っていたのである。

しかし、渋沢が常に人々を救う事しか考えず、

 

人々を助ける慈善事業をしていると知ると、

渋沢の名前は、暗殺の標的から消えたのだった。


渋沢栄一は、妻や子供達に大金は残さなかったが、

1つだけ大きな遺産を残した。

それは、人徳と言う遺産だった。

渋沢が設立に携わった会社が成功して大物財界人になると、

渋沢が別に頼まなくても、お世話になった恩返しと、

渋沢栄一の子供を企業に入れてくれたり育てくれたのである。

それは戦争や大震災、GHQによっても消えなかった遺産だった。



91歳で亡くなった時、

飛鳥山の渋沢の家から青山の葬儀場まで、

お世話になったという4万人の人が見送りに来たといいます。

 

その時の香典は全て、慈善事業に寄付されたという。

END

 

 

 



参考:MAG2NEWS https://www.mag2.com/p/news/493899
最期と死因ドットコム https://saigotoshiin.com/shibusawaeiichisaigotoshiin/#i-7
ドローン iontheaction sky  https://www.iontheaction.jp/eiichi-shibusawa-assets/
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