●霊現象を恐れたマッカーサー元帥。
マッカーサー元帥と言えば、
戦後、日本を統治したアメリカの連合国軍最高司令官・
ダグラス・マッカーサーの事である。

1945年8月14日。
日本は連合国に対し敗戦を認め、、ポツダム宣言を受諾した。
当時、日本占領を任せられるのは、海軍のニミッツ提督だと思われていた。
ニミッツと戦争中にずっと東京への先陣争いをしてきた
マッカーサーは半分あきらめていたが、
最後の最後でニミッツに勝利して、この任を得たのである。
マッカーサーにとって、最初の大きな仕事は、
日本の降伏を受け入れる降伏調印式であった。
当時の連合国側・特にイギリスは、
降伏調印式をフィリピンで行う事を提案した。
日本の昭和天皇をフィリピンのマニラまで来させて、
フィリピンの地で、降伏文書に調印させて、
昭和天皇と日本人に屈辱を与えてやりましょう。という方針が大半だった。
実際、先に降伏したドイツに対して、
アイゼンハワーは、ドイツの将軍らをドイツではなく、
わざわざフランスの地に来させて、
しかも、報道関係者なども誰もいない早朝に、
寂しく降伏文書に調印させていた。
しかし、これに猛烈に反対したのが、
ダグラス・マッカーサーだった。
マッカーサーは、その様に、昭和天皇と日本に屈辱を与えるやり方は
日本人を敗戦に向き合わせる為には、良くない。
日本人には威厳に溢れた戦争終結の儀式を行ってあげる事を提案したのである。
こうして、降伏調印式は、
9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で行われることとなった。

この時、日本を代表して調印した日本側全権・重光葵は、
この時の様子をこう語っている。
「仮にわれわれが勝利者であったとしたら、
これほどの寛大さで、敗者を包容することができただろうか。」
また、当時、ほかの連合国や対日強硬派やアメリカの多くの国民が
天皇の戦争責任追及を求めて、最大の戦争責任者としての絞首刑を望んでいた。
しかし、マッカーサーは、昭和天皇と会見したのち、
「天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、
占領軍増員が必要となるだろう」と本国に報告した。
つまり、マッカーサーは、米国に、
「天皇に責任なし。」と報告して、昭和天皇の処刑を思いとどませたのである。
それに対して、A級戦犯として126人を逮捕した。
逮捕に関しては、小泉親彦と橋田邦彦の2名が自殺し、東條英機が自殺未遂した。
そんなマッカーサーが、霊現象を恐れた事件がある。
第二次世界大戦終結後、連合国による占領下に置かれた日本は、
1945年9月12日に、羽田飛行場の連合国への引き渡しが命じられた。
羽田飛行場は日本に駐留する連合国軍が使用する基地となり、
ハネダ・アーミー・エアベースと呼ばれる事になった。
そのため、早急な拡張工事を行いもっと広い飛行場にする事が求められた。
アメリカ軍の重機によって家が取り壊され、
アメリカ軍808飛行場建設部隊による空港拡張工事はまたたく間に進展した。
ところが、当時その地にあった穴守稲荷神社も、
高い鳥居が軍用機の着陸時に危ないという事で、取り壊す事になった。
そう、呪いの鳥居 事件である。

門前の赤鳥居だけは撤去しようとすると、作業していたアメリカ兵が怪我したり、
撤去作業する日に限って、飛行機にトラブルが起きる現象が続いたのです。
それでも強引に作業を進めると、作業員が怪我したり、責任者が病死したり、
あげくの果てには、作業中に重機に挟まれて死ぬという痛ましい事故が起き、
GHQは何度やっても撤去出来ないこの鳥居の取り壊しを中止したのでした。
この時から、この残された鳥居を「呪いの鳥居」と呼ばれる様になったのです。
詳しく事を知りたい方は下記を。
●神社の土地 https://ameblo.jp/hirosu/entry-12480377608.html
ここまでの「呪いの鳥居」の話は、超有名な話なので、
知っている方は大いかと思います。
しかし、その後、極秘文書公開やアメリカ側の文献公表などで、
意外な事が分かったのです。
みなさん、上の「呪いの鳥居」の話を読んで、
こんな疑問を抱いた方はいませんか?
「なんでGHQは、
そんな簡単に鳥居を壊すのを飽きられてしまったのだろうか?」
鳥居を倒せなければ、爆破すればいいだけだし、
倒すのを日本人に任せて、日本人労働者が何人呪いで死のうがやらせてもよかったのでは。
では、なんでマッカーサーは、
穴守稲荷神社の鳥居を壊すのを止めたのでしょうか?
実は、内部文書でこんな驚くべき事件が起きていたのである。
それは、羽田空港に着陸しようとする多くの軍用機のパイロットから、
驚くべき報告が、何度もあったというのです。
それは、
「滑走路にキツネが沢山いて、危なくて着陸出来ない。」
というパイロットから管制塔への連絡でした。
そこで、管制官たちは、急いで滑走路を点検に行きますが、
キツネなど一匹も見当たらないのです。
しかし、それでもパイロット達は、
「滑走路にキツネが沢山いて、危険でしょうがない。」と言ってきます。
やがて、この報告がマッカーサーの耳に入ります。
こうして、鳥居の取り壊しは中止になると、
滑走路上に、キツネが現れる事も無くなったといいます。
ちなみに、稲荷神社の象徴でもあるキツネさんは、
神様の眷属(けんぞく)なのです。
最後にこんな話を。
日本人が初めて金メダルをとった1928年のアムステルダムオリンピック。
実は、その時、アメリカ選手団の団長だったのがマッカーサーでした。
日本は、アジア初のオリンピックを東京でという夢がありましたが、
まだ連合国の占領下にあった日本でオリンピックは不可能に近いものでした。
しかし、最高司令官のマッカーサーは、そんな日本の願いを叶えさせようと、
まずは、独立を回復した52年にヘルシンキオリンピックに復帰できるように、
関係者のパスポート発行などに最大限の配慮をしてくれたのです。
そして、1964年に念願の東京オリンピック開催となったのです。
マッカーサーと親交があった吉田茂は、
マッカーサーを東京オリンピックに招待したいと考えていましたが。
マッカーサーは、そのわずか半年前に亡くなったのでした。
こうして日本復興の象徴的なイベントとなった
東京オリンピックをマッカーサーが見ることはありませんでした。
END