●おバカなスージー(発達障害)。


1961年、イギリス、スコットランドの、

エディンバラに一人の女の子が生まれました。

 

末っ子として生まれたスージーでしたが、

母親のブリジェットが47歳の時に産んだ子で、

生まれた時に酸欠状態で生まれた為、

脳に軽い障害を受けて生まれました。


のちに、アスペルガー症候群(発達障害の一種)と診断されます。

知的能力に遅れは見られないものの、

「気を利かせる」とか「他人の気持ちを察する」といった

他人とのコミュニケーションが苦手だったり、

限定的な関心やこだわり強かったりする事で、

対人関係や日常生活に支障をきたしてしまう障害です。


本来、知的能力に遅れは見られない障害なのですが、

まわりの子供の中には、残酷な子もいます。

スージーがちょっと可笑しいと気が付くと、

彼女の目の前で、「お前、脳に障害があるだろ!」と平気で言い、

それから学校では、彼女の事を「おバカなスージー」と呼びイジメが始まります。

このイジメによって、彼女は自信を失くし、

重度の学習障害を発症してしまいました。

 

彼女の学習障害を理解してくれなかった教師は、

生徒と一緒になって、彼女をイジメました。


 

 

それに加えて、父親は鉱夫でしたが、戦争に行った後PTSDを患い、

イライラすると、スージーに暴力を振るったのです。


同級生や先生、そして父親からもイジメられた彼女でしたが、




唯一幸せだったのは、

母親が彼女を愛した事です。

元々教師志望だった母親は、勉強が出来なくても彼女を愛し、

タイピストだった事から、彼女の為にピアノを弾いてあげて、

スージーが音楽に興味を持つようにさせました。

少なくとも学校の音楽の授業だけでも興味を持つようにと。

学校でイジメられない様と、母子で決めた事があります。



気分が激しく変化しそうだと感じたら、

その場を離れるの。

パニックなったら、一旦人前から離れ一人になるの。

そして落ち着いたら戻ってくるのよ。 

出来るわね。スージー。



これが彼女の対人関の対処方法だったという。



頑張って高校を卒業すると、働き始めました。

母親は彼女が安全に楽しく働ける場所として見つけたのが

「ウェストロージアンカレッジ」というキッチンでした。

近くに劇場があり、仕事終わりなどに劇場に行ってミュージカルなどを見ました。

その時見たのが「レミゼラブル」でした。

その中の歌、「I Dreamed a Dream」を聞いて感動した彼女は、

いつの日か、自分も「I Dreamed a Dream」が歌えれば。と夢見ました。

母親の協力の元、デモテープを沢山作り、

それをさまざまなレコード会社やテレビ局、ラジオ局に送りました。

スージー35歳の時、テレビ「My Kind of People」のオーディションを受ける事が出来ました。

長年頑張った母子のチャンス到来です!!

彼女は見事な歌を歌いあげたのです。

しかし、結果は予選も通らないという惨敗でした。

(後にお兄さんは、この時の失格について、

 妹の歌は最高だった。本当によくやった。

 なのに・・・


 テレビに合わない外見(ブス)だから落とされたのさ。と語った。)


のちに出場した音楽番組では、男性司会者が彼女の事を「mong=ダウン症」と

侮辱的な言葉を浴びせた事もあった。(今なら問題視される発言)


それに対して、彼女は、

「私はこれまで、数多くの侮辱を受けてきたの。

 私がどうするかって?

 

 無視するのよ。」と語った。



みんなが(私の事を)どう思っていたかは分かっている。

けど、歌えればいいんでしょ?

ミスコンじゃないんだから。



その後も母親の後押しもあり、

彼女は地元のクラブや教会・パブでの歌のパフォーマンスを続けました。

41歳の時、母親は自分たちの生活費を切り詰めても、娘スージーの為に、

プロの歌のレッスンが必要だと感じて、歌手コーチのフレッドオニールを雇いました。


さあ再挑戦! そんな時期でした。



姉が喘息の発作で亡くなり、

父親も亡くなり、母親も病気になってしまったのでした。


彼女の歌手になるという夢は、ここで終わります。


彼女は全てをあきらめ、病気の母親の世話をするために戻りました。

今まで私を愛してくれた母親をほっといて、自分の夢など追えなかったのです。


結婚もせず、定職も持たず、年老いた母親の面倒をみながら、

教会でボランティアをしました。

母親の介護をしながら教会やパブなどで歌を歌う毎日。


しかし、2007年、もっとも恐れていた事が起きてしまいます。

最愛の母が亡くなったのです。

今までずっと彼女を愛し、支えてくれてきた母親の死。

 

歌手になりたいと思っていたスージーは、もう45歳になっていました。

「もうダメ。 

 私にはもう何も無い。」

あまりのショックに、電話に出る事も出来ず、数日間家に閉じこもっていたので、

近所の人はスージーも後追い自殺したのではと心配するほどでした。

悲しみに潰れた彼女は、もう歌も歌えなくなりました。

ただ教会などでの慈善活動だけは続けていました。

この頃から、近所に住む不良たちからもイジメを受け始めていたと言います。

スージーが買い物なので見かけると、不良たちは、

「汚ねえ~ぞ・ババア!!」と罵倒しながら、

彼女の顔を狙って、石を投げられる事もありました。















そんな時です。


テレビをつけると、

テレビのオーディション番組で、素人のポール・ポッツが優勝するのを見ます。

それを見て、羨ましいという気持ちと、自分にも出来るかもしれない。と思います。


その時、母の遺言を思い出したのです。


「貴方は本当に歌の上手い子なのよ。

 だから、絶対あきらめないで。

 テレビに出られるように、挑戦し続けてね。」


彼女は母との最期の約束を果たす為に、再び歌を練習し始めます。

そして、2009年彼女は既に47歳になっていましたが、

『Britain's Got Talent』のオーディションを受ける事に。

勝負の曲は、あの「レミゼラブル」の「I Dreamed a Dream」でした。

大舞台で歌った事などありません。

 

ただ、

 

教会に救いや助け・癒しを求めてやってきた人の為に、

 

心を込めてボランティアで歌っているだけでした。

 

このボランディだけは、母が亡くなっても、どんなに苦しい時でも続けていました。

 

 

 

 


全国から多くの芸達者な若者がオーディションに来ています。

みんな自分の順番を待っている間、緊張していますが、

 

そんな中、スーザンだけが他の人と違っていました。

若者の中で47歳という飛びぬけて高い年齢というだけではなく、

まるで緊張していないかの様に食べ物を食べている余裕さえ感じさせています。







彼女の番が来ました。

審査員が彼女に年齢を聞き、47歳と分かると、

会場のみんなは、呆れて、彼女の事を「こんなおばさんが」と鼻で笑った。



続いて、貴方の夢は?と聞くと、

エイレン・ペイジの様な歌手になる事。」と言うと、

エイレン・ペイジ

会場から「あんたの容姿で、なれる訳が無いじゃない」という様な笑い声が沸きます。





ところが、

スーザンが歌い出すと、観客も審査員も「ギョッ!」とします。

審査員の一人は、「君は、今までの3年間で、最も大きな衝撃だったよ。」と称賛。


スーザンは、パニックになったのか、歌い終わると、

すぐに帰ろうとして、スタスタとそでに下がろうとするハプニングもありましたが、


見事予選を通過し、結果は準優勝。

その後、スーザン・ボイルCDが全世界で発売される事になり、

デビューアルバム「I Dreamed a Dream」をリリースし、瞬く間に成功。

これは、史上最高の売り上げを誇るイギリスのデビューアルバムと見なされていて、

総売上枚数は世界で250万枚以上にのぼると言われています。

2009年と2010年にそれぞれリリースした2枚のアルバムは、

アメリカとイギリス両国のチャートでナンバー1を達成。

たった1年間で、これを成し遂げたのは、

 

モンキーズとビートルズだけという快挙だったのです。



スーザンは足が震えて身がすくむような恐怖を感じるたびに、

アメリカの数学者フランク・クインが言ってくれた言葉を思い出すようにしているといいます。


その言葉とは、


自分を信じなさい。

自らの物語を書くのは、

あなた自身なのだから。」

 

 

 

 

 


貴方も、夢をあきらめないで。 

私でも出来たのだから。      スーザン・ボイル

END