●中学も出ていない奴に、何が出来るんだ!!



1890年9月9日。

アメリカのインディアナ州ヘンリービルに、

一人の男の子が産まれました。

名前をハーランドと名づけられました。

 

 



普通の家庭に産まれましたが、

彼がわずか5歳の時、

父親が他界
したため、一転貧乏な生活に陥ります。

母親は、近くの農場で働く事になりました。



家に残された弟妹(ていまい)の面倒を見るのがハーランドの仕事になりました。

まだ7歳のハーランドは、工場で働く母を助ける為に、料理を始めます。

ある日、弟妹(ていまい)と母の為に、パンを焼きました。

彼は生まれて始めて焼いたパンを、どうしても母にも見てもらいたくなりました。

そこで、幼い弟妹を連れて、5キロ離れた母が働く農場へ行きました。

すると、お母さんは、

「偉いわよ、ハーランド。

 とっても、美味しいわ。」と褒めてもらいました。

お母さんから誉めてもらった彼は、その時から料理に興味を持つようになります。

この時の嬉しさと感動が、その後の彼の信念となりました。

「美味しいもので、人を幸せにしたい。」



10歳になった彼は、家計を助ける為に学校に行きながら農場で働き始めます。

しかし、仕事に集中していないという理由で、わずか1ヶ月で解雇されてしまいました。

その時、母は彼に、

「仕事に必要な事はね。ベストを尽くす事なのよ。ハーランド。」と言いました。

この言葉は彼のその後の人生で、「忘れられない言葉」となります。




やがて、母が再婚します。

「ああ、これで生活も楽になる。」と思ったハーランドでしたが、

新しい父親は、自分の子供じゃないハラーンドに暴力を振るうのです。

殴られる日々を悲観した彼は、入学したばかりの中学を辞め、

洋服が入ったスーツケース一つを抱え、わずか13歳で家出しました。

こうして彼の最終学歴は小学校卒となったのです。

しかし、なかなか良い仕事にありつけません。

中学も出ていない奴に、何が出来るんだ!!と、すぐに断れたり、クビにされました。

15歳の時、とうとう彼は年齢を誤魔化して、手っ取り早く稼げる軍隊に入ります。

キューバに送られますが、まだ幼い彼はついていけなくて僅か4ヶ月で除隊になりました。

キューバから戻った彼は、アラバマで機関車のかまどから灰をさらう仕事に就きます。

彼は昔母親から言われた言葉を忘れずに、一生懸命働きました。

「仕事に必要な事はね。ベストを尽くす事なのよ。ハーランド。」

 

 



その後、機関車修理工、ボイラー技士、機関助士、保線区員と順調に技術を学び、順調に出世していきました。

ところが、ある時、組合の苦情処理を担当していた時の事でした。

苦情を寄せて来る人の中には、病気や怪我で、家族を養えなくなったという人達も沢山いたのですが、

そんな働けなくなった従業員に対して、会社はとても冷たかったのです。

何事も一生懸命で、かつ正義感が強かった彼は、

病気や怪我をした従業員の立場にたって、会社と交渉してあげました。

すると、弱い立場の従業員の見方をする彼をうとましく思った会社は、難癖をつけて解雇したのでした。

クビになった彼は、今までの経験を生かして、他の鉄道会社に就職します。

 



そんな時でした。

鉄道会社が大事故を起こしてしまったのです。

 

 



多くの負傷者がでましたが、会社はろくに賠償もしないで逃げようとします。

何事も一生懸命で、正義感が強かった彼は、せめて治療費でもと思い、

負傷者たちの署名を集めて抗議し、多額の賠償金を負傷達にあげる事を勝ち取ったのでした。

 



負傷者たちは、彼にとても感謝しました。

しかし、鉄道会社は彼の存在をうとましく思いました。

即刻彼をクビにすると、それだけじゃなく、彼は「鉄道界の敵」だと他の会社にも風潮し、

もう彼は他の鉄道会社でも働けなくなってしまったのでした。

 

 

 



その後、彼はオハイオ川でフェリーサービスを始めました。

フェリーサービスとは、川の向こうに行けない人達を、フェリー(船)で運んであげる仕事です。

ところが、その後、川に橋が架けられる事になり廃業になってしまいました。

 

 



次にやったのが、アセチレンランプの会社です。

貧しい農夫たちは安いランプが必要だろうと始めた会社でしたが、

エジソンが発明した電球と電気の普及で、これも廃業となりました。

その他にも、市電車掌、判事助手、保険外交員やタイヤのセールスマンもしましたが、

中学も出ていない奴に、何が出来るんだ!!

と、同僚や上司から嫌味を言われたりして長続きしませんでした。

今まで15以上の社会経験を積んで失敗を繰り返した彼は、

ようやく、自分は人に雇われても大成しないことを学んだといいます。

そうは言っても、お金の無い彼には、会社を新たに立ち上げる余裕はありません。




そんなる日、

アメリカ南部にあるガソリンスタンドが、経営者を探していることを知ります。

彼は一生懸命働きました。

他の店より2時間も早い朝5時に店を開き、

他社はまだやっていない窓拭きのサービスで評判を得る様なります。

やがて、お店は繁盛店になりました。




しかし彼が39歳の時でした。

ガソリンスタンドは、順調でしたが、1929年10月24日、世界大恐慌が襲いかかります。

世界大恐慌に加えて、今まで貧乏でお金が無い農家の人たちにツケ払いでガソリンをあげていたのですが、

その代金も回収できなくなってしまいました。

彼は家財道具も売りに出しましたが、

とうとうガソリンスタンドの家賃も払えなくなり、店を手放す事になってしまいました。


またもや無職となってしまった彼。

世界大恐慌ですから、小学校卒の彼が新しく仕事を探しても見つかりません。

それでなくても職を探している人が溢れている時代です。

中学も出ていない奴に、何が出来るんだ!!と、面接さえもしてもらえません。









そんな職が無く1年経った時でした。



なんと、


小卒の彼にガソリンスタンドを経営してみないかという話が来たのです。





実は、彼が前の職場で、

一生懸命お客様に尽くしている姿を見ていた石油会社の人がいたのです。

「彼のお客に対する姿勢は、なかなかのものだった。

 彼にチャンスをあげてみたい。」


新しく任されたガソリンスタンドは、交通量の多い国道沿いにあり絶好の立地でした。

世界大恐慌の後だけに、経営は苦しかったものの、彼の

他の人に一生懸命サービスする人が、最も利益を得る人間である。」

という信念が、店を存続させていました。

注文の前に、無料で埃まみれの車の窓を洗い、

ラジエーターの水を確認するサービスを行いました。



そんなある日、

ガソリンを入れにきたお客が、

この辺りには、レストランがないな。」と言っているのを聞きます。


お腹を空かせているドライバーが、意外と多い事に気づきます。



そこで、

「車にガソリンが必要なように、

 お客さまにはおいしい食事が必要だ」と思い立ち、

ガソリンスタンドの裏に、たった6席だけですが、

倉庫を改造して、カフェを開業します。


レストランの裏手にある農場で育てた新鮮な野菜と鶏を使い、料理は彼自らが作りました。

40歳にして、初めて飲食業を始めました。

ハム料理や鶏肉料理、豆料理やビスケットの提供を始めます。

人を雇う余裕が無かった彼は、ガソリンスタンドの支配人から、調理係、レジ係の全てを担当しました。


「自分の利益のことを考える前に、まず貢献する事だ。」

 

というのが彼の信念でした。

ガソリンスタンドはサービスの良さに加えて、カフェは料理のおいしさで繁盛しました。

カフェは、テーブル1つと、椅子6脚しかなく、

お客さん同士のヒジがぶつかるほど狭かったが、料理はとても好評で、

ガソリンの売上とともに順調に利益を上げ、

やがて、食事を目当てにガソリンスタンドにくる客まで現れ始めました。

このチャンスに、彼は全財産をつぎ込んで勝負に出ました。

ガソリンスタンドを売り払い、レストランに専念することにしたのです。


この賭けが大成功。

彼のレストランはたちまち好評を博し、

州のレストランガイドに掲載されるまでになり、

「彼のカフェに寄らずに旅は終われない。」と言われるくらい評判になりました。

その裏には、彼が小さい頃に母と弟妹にパンを作ってあげた時の思い、

「美味しいもので、人を幸せにしたい。」という信念がありました。

その為なら、従業員に家でさえもタバコを吸わない人を雇ったと言われています。

肉料理も、7年かけてスパイスの調合を繰り返して美味しい料理を完成させていました。



しかし、そんなある日、彼を悲劇が襲います。

レストランが火事になり、全焼してしまったのです。



ここまで全財産をかけて開いた自分のレストランが燃えるのを見ながら


「もうダメだ。」と愕然とします。


49歳で、またもや全てを失ってしまいました。


そんな落ち込んでいる彼を、救ったのは、常連客でした。


多くの常連客の励ましにより、彼は店の再建を決意します。


そして、資金集めに奔走し、火災から2年後、


150人近くの客を収容できる大型レストランを復活させたのでした。

新しくレストランをオープンさせるにあたり、彼には1つ勝算がありました。

それは圧力鍋との運命的な出会いです。


圧力鍋を使うことにより、


今まで30分かかっていた工程を、15分で作れるようになったのです。

圧力鍋との出合いによる料理の量産が可能になり、お店は大繁盛。


客席を回ってお客様に、満足しているか伺いながら、



「私の料理がもし美味しくなかったら、お代はいりません」と明言したといいます。


こうして借りていた再建資金をたった1年で返済したのでした。



ああ、これで安泰だと思った矢先でした。






またもや悲劇が彼を襲います。






なんと、近くにハイウェイが建設される事が決まったのです。


やがて、ハイウェイが完成すると、

今まで交通量の多い国道沿いにあった彼のレイストランの前を通る車が激減!

客の大半が旅行客だった為、彼のレストランは閑古鳥が鳴くようになりました。

このまま続けていても、負債が増えるだけです。


彼は仕方なく、店をオークションにかけて売却する事に。

75,000ドルで売却できましたが、税金と未払い金、売掛金の支払いをすると、

彼の元には、ほとんど残りませんでした。


65歳にして、またもや全てを失ったのです。





もうお爺さんと呼ばれる年になっていた彼は、引退しかないと思いました。

しかし、家に帰り調べてみると、

予想をはるかに下回る年金しかもらえない事が分かり、妻と途方にくれました。


貯金0で、この額の年金じゃ、二人で暮らしていけないかもしれない。


どうしたらいいんだ。


もうレストランも無ければ、こんな小卒の老人を雇ってくれる所も無いだろう。


今度こそ、おわりか。


そんな時、「美味しいもので、人を幸せにしたい。」という昔からの思いが頭をよぎりました。

そうだ、私にはお金は無いが、

たった1つだけ、財産があるじゃないか。


それは、レストランで好評だった肉料理のレシピ。

その肉料理を食べに、遠くから来てくれたり、

店が火事になった時も、復活を願う常連客までいた。


また、「美味しいもので、人を幸せにしたい。」

私が作れなくても、他の人がこのレシピ通り作れば、多くの人が喜ぶ料理を提供できる。


彼はレシピを提供し、作り方を伝授する代わりに、1つ売れるにつき5セントを受け取れないかと考えた。

いわゆる今で言う売上の一部をロイヤリティとして受け取るフランチャイズである。


彼は妻を自宅に残して、圧力鍋とスパイスの袋をトランクに詰めて営業を始めた。

ホテルなどに泊まるお金など無い彼は、車の中で寝泊まりしながらレシピを売り始めました。

長距離を運転しながら、レストランやカフェを次々に訪れ、お願いしました。


しかし、初老の老人がいきなりレストランを訪ねて、レシピを売ると言っても、

そんな話、聞いてもくれません。

レストランで働いているシェフにもプライドがありますから、

そんな老人が考えたレシピなど買う訳がなかったのです。

ほとんどが、話さえ聞いてもらえず、冷たく追い返される門前払いの日々。

100軒回っても、ほとんどが厨房にも入れてもらえず笑われて「NO!」と言われるのがオチでした。

やがて彼は、色々な営業の方法を学習して、段々と話だけは聞いてもらえるようになりました。

しかし、500軒回ってもレシピを買ってくれるという飲食店はありませんでした。

なけなしの年金でガソリンを買い、出費を抑えるために車の後部座席で夜を過ごす日々。

極貧で我慢している妻に申し訳ない。でも、ダメなのかもしれない。

1000軒回ってダメだったら、帰ろうかな。 

しかし、1000軒回っても、ダメでした。

66歳になっていました。


帰ろうとも思いましたが、

「美味しいもので、人を幸せにしたい。」という信念が、1001軒目の門を叩かせました。


しかしダメでした。


そんなある日、

飲食店のオーナーたちの親睦パーティーに行ってみると、

一人のユタ州の若きレストラン経営者ピート・ハーマンと意気投合します。


「それ面白いじゃないか。

 何か名物料理がないか探したんだ。

 私がやってみよう。」


1952年、ピートの店は大きな看板を掲げて、彼の料理を売り始めました。


やっと契約が取れた!!

彼は喜んで妻に電話しましたが、それでもやっと1件です。

1010軒目の営業でした。

約1000軒回って、やっと1軒の契約です。

喜びと共に、先行きの不安も頭をよぎります。




しかも、やっと契約してくれたピートの店で、トラブルが起きてしまいます。


なんと、従業員が訪問販売の口車に乗せられて、

本来必要のない紙バーレルを大量購入してしまったのです。

紙のバーレル

 

 

ピートは、大量の紙バーレルを処理できずに困っていました。





ところがここで、奇跡が起きます。



大量の紙バーレルを買ってしまい困っていたピートは、


なんとか、紙バーレルを無駄にしないで使えないかと考えました。

 

 

そして、紙バーレルの中に、ハーランドから教わったレシピで作った、

フライドチキンと、ビスケットを詰め込み、

 

 

テイクアト用として売り出したのです。


すると、そのフライドチキンがとても美味しいと評判になり、

 

 

飛ぶように売れるじゃないですか!

 





しかも、持ち帰りの客だけでも十分に利益が上がり、店には大行列。

 

 

それがまた宣伝効果をあげたのです。


その様子を見ていた他の経営者たちが、


立派な店舗をかまえなくてもテイクアウトなら、

 

 

小さな店でも出来るじゃないか!!と、感心し、


これは良いビジネスチャンスになると、評判になったのです。



やがて、レシピを契約したいと考えるオーナーが急増。



3年間で200店舗ものフランチャイズ店が一気に誕生したのです。



ハーランド・サンダース(通称カーネル・サンダース)が


73歳の時には600店舗を超える規模までにフランチャイズは拡大します。



こうして、カーネルサンダースは、1000軒以上に営業をかけ、


血のにじむような努力が実を結び、1010件目で契約を取ることに成功したのでした。



のちに彼は、こう言っています。

何歳であろうと、根性があって、やる気と信念があるなら大丈夫。 


それが成功する最も大きな要因だ。





その後、カーネルサンダースは経営の権利を譲渡し、



「味の親善大使」として世界中のフランチャイズ店舗を視察する旅に出かけました。



その中でも、日本だけには3度も来ています。


彼は生前、こう語っています。




「日本の味が一番気に入っている。

 私の考えた通りのやり方を守り、理想の形を受け継いでくれている。」


日本が一番好きです。



カーネルサンダースは、飲食業をやりたかったわけでも、

料理が好きだったわけでもありませんでした。


しかし、常にお客さんに喜んでもらおうと思った結果、

最終的に行きついたのが、レストランであり、フライドチキンだったのです。

「おいしいもので、人を幸せにしたい。」



ケンタッキーフライドチキンは、

世界80カ国に1万軒近くを構える世界的企業へと成長しています。




当然、カーネルサンダースも莫大な利益を得たのですが、



彼は情け深く、自分の財産のほとんどを救世軍のような団体や慈善団体に寄付して、

亡くなる90歳その日まで、余り贅沢をせず、お金は困っている人の為に使ってしまい、

孤児院の子供たちのために毎日アイスクリームをつくったり、

肢体不自由児のための基金を作ったりしましたので、
 

 

自分の家族にはほとんど財産を残しませんでした。



最後に、彼はこんな言葉を残して亡くなっています。





































「人を幸せにすることに、引退はない」 


 カーネル・サンダース


END

 

 

 

 

参考:
日本KFCホールディングス株式会社 https://japan.kfc.co.jp/tale/
企業TV https://kigyotv.jp/news/kfc/
BuzzFeed News https://www.buzzfeed.com/jp/venessawong/the-real-colonel-sanders-jp