●野村克也元プロ野球監督の死去で、いち占い師が思う事。
今日は何を書こうと、テレビを見てみると、
野村克也元監督(84)の追悼番組をやっていた。
私も彼の野球解説は好きで、特にフジテレビの
S-PARKでの「ぼやき解説」は大好きでいつもみていた。
死因は、虚血性心不全で、奇しくも約2年前に亡くなった奥さんの
野村沙知代さん(85)と同じだった。
ただ、この虚血性心不全。他人事では無い。
今回、野村監督が虚血性心不全になったのは、
自宅の浴槽内でのことだった。
つまり、入浴中に心肺停止状態になったのである。
冬に多い虚血性心不全は、風呂場に入る時に服を脱ぎ、
そこが寒ければ、急激に血圧が低下する。そしてすぐに浴槽に入ると、
今度は血圧が急上昇。意識障害を起こし、そのまま浴槽から出られなくなり、
さらに体温が上がっていき、溺死するのである。(11月~3月に多い)
みなさんは、いつも交通事故に遭わない様には気を付けているだろうが、
実は、交通事故よりも、倍以上も浴室内での溺死は多いのである。
つまり、血圧の高い人や70歳以上の方は、外出時よりも、
自宅での交通事故(風呂場への行き来)に気を付けた方がいいのである。
もしお金の余裕があるなら、着替える所はあらかじめ暖房しておきたい。
ただ、常時暖房しているのはお金がかかってしまう。
そこでお勧めなのは、人が来た時だけ動く人感センサー付大風量セラミックファンヒーターだ。
中でもアイリスオーヤマのファンヒーターは、値段も約6000円と安く、
野村克也元監督と言えば、沢山の名言を残している。
例えば、
■不器用な人間は苦労するけど、徹してやれば、
器用な人間より不器用な方が、最後は勝つよ。
■「もうダメ」ではなく、「まだダメ」なのだ。
など。
そんな野村監督は、京都の貧しい家に生まれた。
バットさえ買えるお金が無く、お酒の一升瓶に水を入れて練習した。
そんな弱小高校だったいち野球部員にプロ野球の声がかかる訳は無かった。
しかし、当時高校の野球部の部長だった恩師の先生が親身になってくれ、
全ての球団に、「こんな良い選手がいる。ぜひ見てやって欲しい。」と、
手紙を出してくれたのである。
野村監督は生前、こんな事を言っている。
私の人生、なぜか、節目節目で良い人が現れて助けてくれるんですよ。
返事が来たのは、南海ホークスだけだった。
これでプロ野球選手への道が開けたと喜んだのだが、
母が反対した。
「そんな華やかな世界に行っても、
田舎モンがそんな所で、成功するわけない」
サラリーマンなどの地道な道を行きなさい。
プロ野球選手なんて、この子には無理。」
それに、大阪まで交通費さえ出せるお金も無かったのである。
そんな時、恩師の先生がわざわざ自宅まで訪ねて来てくれて、
野村の母親を説得しに来てくれたのである。
「野村君に、3年間、野球をやらさしてもらえませんか。
もし、ダメだったら、
もし、クビになって帰って来たら、
私が責任をもって就職の世話をします。」と頭を下げたのである。
しかも、大阪までの旅費も先生が自腹を切ってくれたのである。
最後には、母親は「先生にお任せします。」と折れた。
当然、町からはプロ野球選手第一号という事で、
旅立つ日の駅前では、母親を始め多くの市民が見送りに来てくれた。
町のスターの誕生である。
と、そんなにプロ野球は甘く無かった。
南海ホークスは、野村にそんなに期待はしていなかったのである。
たまたまブルペンキャッチャーが足りなかっただけだった。
だから、野村が一軍でプレーする事など考えらなかったのである。
それどころか、二軍でもなく、ただピッチャーの練習の球を受けるだけの、
壁の役目であるキャッチャーの仕事がメインだったのである。
野村は、ただ練習場で球をうけるだけの壁だったのである。
ただ球をうけるだけ。それだけでほぼ1年が終わった。
そして、契約公開。
南海ホークスは、野村に、
「君とは、来年契約する意思は無い」と告げたのである。
突然の解雇通告だった。
しかし、当時19歳の野村克也にとって、
「そうですか。わかりました。」と引き下がれない理由があった。
実は、監督の紹介でテスト入団だった野村の契約金は0円だったのである。
自分を駅で見送ってくれた町の人々。
母を一生懸命説得してくれた先生。
そして、母親に楽をさせてあげたいと思った母の顔が目に浮かんだ。
今、手ぶらで故郷に帰る事など出来ない。
野村は食い下がった。
「タダでもいいんです。 クビにしないでください。」
しかし、上層部の判断の「解雇」は変わらなかった。
というか、ただの壁であるブルペンキャッチャーなどに価値は無かったのである。
「アカンな、お前は、クビや!」
うなだれた野村は最後の手段に出た。
野村は、部屋を出る時、こう言ったという。
「1年でクビにされて、
田舎には帰れません。
どうしてもクビだと言うなら、
帰りに南海の電車に飛び込んで、自殺します。本気です。」
野村監督は後に、当時の事を振り返り、こんな事を言っている。
「こういう時に、支えてくれるのは、故郷よ。
大勢いの人にさぁ、見送られて、汽車に乗って大阪に出て来たんだよ。
それが頭をよぎって、どうしても帰れない。
母親と故郷がオレをぐうっと我慢っていうか耐えられる。」
そんな野村の必死の意気込みに折れて、契約をもう一年延長させたのである。
それからの野村の目の色が違った。
人の倍練習し、どんなに苦しい練習にも耐えに耐え、研究に研究を重ねた。
一年目の打率が、000だったのに、
その年の打率は、252にし、なんとホームラン30本というリーグ最高を記録したのである。
翌年からは南海ホークスにとって欠かせない選手となったのである。
8年連続ホームラン王や日本で初めての三冠王となった。
日本人の良い所の1つに、謙遜(けんそん)や控えめ(ひかえめ)
という所があります。
例えば、料理が上手いのに、少しなら出来ますと言ったり、
卓球が上手いのに、普通に出来る程度ですが。と謙遜して言ったりします。
ただ、占い的な事から言わせてもらうと、
謙遜(けんそん)や控えめ(ひかえめ)は運を逃がしたり、
程度以上の事を言うと、逆に悪い運を引き寄せてしまう事さえあるのです。
私がアメリカに留学している時、
アメリカを始め多くの外国人は、
「オレ、卓球ウマいよ。」というからやってみると、ドヘタだった事が何度もありました。
でも、それでいいと思います。
後で、「なんだ、あいつ口ほどにも無い奴だな。」とは思いましたが、
結局その後、友達になったり、食事に気軽に行ける様になりました。
芸能界でもそうです。
上手く無くても、料理が得意と書いた子が、食レポの仕事をもらったのをきっかけに、
料理本を出すようにまでなった子もいます。
だから、よく相談者の方の話を聞いていて、
あまりに謙遜(けんそん)や控えめ(ひかえめ)の多い人には、
一度、謙遜(けんそん)や控えめ(ひかえめ)は止めてみては?
とアドバイスする事があります。
そうすると、運がアップする事が多いのです。
例えば、「貴方が書いた絵、うまいね。」と褒められたら、
「そんな事ないよ。誰でもこのくらいは書けますよ。」と否定しないで、
ただ、「ありがとう。」でいいじゃないです。
謙遜(けんそん)や控えめ(ひかえめ)で否定しているのでしょうが、
否定された方から見ると、
せっかく誉めたのに、否定されて、
きっともう二度と貴方を誉めなくなるでしょう。
もし、今貴方は運が良く無いと思ったら、
しばらくでもいいから、謙遜(けんそん)や控えめ(ひかえめ)を止めてみてください。
きっと運が上向いて来ると思いますよ。
あと、海外(アメリカやマレーシア)で感じた事ですが、
日本人の謙遜(けんそん)や控えめ(ひかえめ)で一番悪いなぁと感じたのが、
自分の奥さんを悪く言う癖です。
例えば、「うちの愚妻が作ったものですから、そんなに美味しく無いでしょうが・・」
とか、「貴方の奥さんは素晴らしいです。ウチのなんて、ひどいものですよ。」
と、実際は素敵な奥さんなのに、人前では悪く下げすむ言い方をする亭主が多いんです。
海外では、もう何度も耳にしました。
外人から見ると、本当に酷い奥さんだと信じてしまいます。
奥さんは謙遜(けんそん)だと分かっていても、きっと良き気はしていないでしょう。
これが、下手でもウチの妻も上手く作れますよ。と言えば、
そこから奥さん同士の交流が始まったりするかもしれません。
最後に、こんな話をして今日は終わりに致しましょう。
野村監督の奥さんの野村沙知代さんが亡くなる前日の事です。
一緒に、通い慣れた都内の老舗ホテルへ食事に出かけたそうです。
その時は、別に何の異常も無く、いつも通りだったそうです。
ただ、のちに野村監督は雑誌のインタビューで、
「最後の夜になるとわかっていたら、
大好物だったヒレステーキを食べさせてやりたかったな。」と語りました。
そして、
奥さんが亡くなった当日に起きた不思議な出来事を語ったのです。
それは、亡くなった日の朝の事です。
野村沙知代さんが、監督に、変な事を言ったといいます。
それは結婚してから約40年間、一度も口にした事が無い言葉だったそうです。
ベッドの中で急に、
「手を握って。」
と言われたそうです。
そんなことは初めてだったから、
何をおかしなことを言い出すのかと思ったけど、
拒絶する理由もないかと握ってやった。意外な感じがしました。
こんなに華奢な手だったかなと。
今にして思えば、あれは不思議な時間だったね。
その後、私は午後に起き出して、居間でテレビを観ていました。
そこへお手伝いさんが「奥様の様子がおかしいのです」と血相を変えて飛び込んで来た
ので、慌てて食堂へ向かうと、サッチーがダイニングテーブルに突っ伏していた。
「大丈夫か?」と声をかけると、
気丈に「大丈夫よ!」と。
でもそれが最後の会話になりました。息を引き取るまで5分だった。
救急車を呼んで病院に搬送したものの、
救急隊員の人からは「搬送しても手遅れかもしれない」と告げられて……。
それが最後でした。
結婚してから約40年。
離婚したいと思ったことは一度もなかった。
最後に、雑誌の記者に、監督は迷わずこう言ったという。
「生まれ変わっても、
沙知代と結婚したい。」
ご冥福をお祈りいたします。
END
画像は「ザ・復活」弱者が強者に勝つ方法より https://www.youtube.com/watch?v=CjO_c_5bYpk
参考:雑誌のインタビューは、婦人公論2019年8月9日号より
2人の写真は、PLEASANT ZONE よりhttps://anotherstorysign.com/nomusan2/







