●これは自分のお金じゃない
よくテレビなどで、こんな質問が聞かれる時がある。
「もし今、1億円が当たったら、どうする?」
貴方だったら、何と答えるだろう。
家や土地を買う?
車かバックを買う?
それとも貯金か、親に楽させてあげる?
1億円は大金です。
何に使うかを考えるだけでも、楽しい。
しかし、世の中には誰も予想しない様な事を、答える人がいる。
私が知っているある男は、
「もし今、1億円が当たったら、どうする?」
と聞かれたら、きっとこう答えるだろう。
「当たったお金は、私のお金じゃない。」、と。
そんな変人とも思える男は、
1948年、10月。石川県に産まれた。
普通、子供が生れると家族全員で喜ぶものだが、
彼の場合、誰も彼の誕生を喜ぶ者は居なかった。
なぜなら、
生れた時、すでに両親はいなかった。
自分は捨てられたのか、邪魔で預けられたのか?
それとも死んだのか。それさえも分からなかった。
気がついた時には、孤児院に居た。
3歳になった時、養父母にもらわれていった。
しかし、養父はギャンブル好きで、毎日競輪・競馬三昧。
ギャンブル通いで働かない父と、パートで頑張って家計を支えていた母。
そんな中で、トクジは育った。
電気代も水道代も払えない貧乏家族だった。
やがて父は、払うべき家賃も母から取り上げてギャンブルにつぎ込んだ。
当然、そんな状況で勝つ訳も無く、
一家は全財産を失う。
払う家賃も無くなり、夜中に養父母とトクジの3人で夜逃げする。
逃げた先は岡山県の玉野市だった。
しかし、逃げた先でも父親のギャンブルは止まらなかった。
母は、そんな父に愛想を尽かし、父とボクを残して出て行った。
生活費の当てが無くなった父は、しょうがなく日雇いの仕事を始めました。
でも父は仕事から帰って来ると、よくボクに暴力を振るいました。
ちょっとでも機嫌が悪いと、ボクを叩きました。
それでも私には父だけしか居なかったから、
必死に父に気に入ってもらえる様に、「お父ちゃん、お父ちゃん」って、
見捨てられない様に、気に入って貰える様に、ボク、頑張ったよ。
電気代が払えなかったので、夜はロウソクの明かりで過ごしたよ。
貧乏のどん底に居たので、お米なんて滅多に食べられなかった。
いつもメリケン粉を水で溶いた物を食べていたんだ。
父ちゃんが家に帰って来ない日が続いた時は、お腹が空いて死にそうになり、
外に行って、雑草を食べて飢えをしのいだんだよ。
それでも父ちゃんは、家賃を滞納したんで、ボクたちはアパート転々とした。
そんなある日、ボクが8歳の時、
逃げて行った母が、名古屋で暮していると分かったんだ。
父とボクは、再び母の元に行き3人一緒に暮らし始めました。
でも、父ちゃんはまたギャンブルを始めたんだ。
結局1年も経たないで、再び離婚。
また父ちゃんとボクの生活が始まった。
家賃を滞納して追い出されるの繰り返し。
半年で家を転々とする生活で、ボクに友達が出来る事は無かった。
夕飯の為、近くの川に行ってメダカやフナを獲ってました。
父ちゃんはタバコが好きだったけど、買えなかったので、
よく父ちゃんとパチンコ屋に行ったんだ。
ボクの仕事は、パチンコ屋の床に落ちているタバコの吸い殻を拾い集めるんだ。
吸い殻をパイプに詰めると、タバコになったんで、父ちゃん喜んでよく吸っていたんだ。
そんな生活だったけど、ボクは自分が不幸だとは一度も思わなかった。
父ちゃんは一年に2回、ボクにリンゴを買ってきてくれたよ。
それがとっても、美味しくて、幸せだった。
ボクが15歳の時、そんな父ちゃんが死んだ。
ボクは再び母さんの所に行き、母さんとの6畳一間の暮らしが始まった。
それでも貧乏暮らしは変わらなかったので、
ボクは毎朝学校に行く前に、友達に頼み込んで、友達の家がやっている豆腐屋さんで、
アルバイトして学費と生活費を稼いだ。
この頃には、もう「何事も誰にも頼らずに、一人で生きていかなければ」と思っていました。
高校を卒業すると、
車に乗って回れる仕事がしたいと思い、新聞の求人広告を見ながら、
高卒でも良い所を探して面接に行くと、そこは不動産会社でした。
どんな仕事をするのかも分からず学生服で面接に行くと、なぜか即採用されて、
ああ、これで生活が出来ると安堵しました。
私は内向的で、営業トークなど出来るタイプでは無かったのですが、
トークが上手く出来ない分、心を込めて対応しました。
すると、当時は高度経済成長の真っただ中だったので、私でも何軒か契約が取れました。
ところが、入社して2年半が経った時でした。
突然本社がある神奈川県の川崎市に転勤になったのです。
そこで半年働いた時、こう思いました。
「名古屋に帰りたい。」
母がいる地元名古屋で仕事を探そうと決意しました。
私は名古屋が大好きなんだなぁと、つくづく思いました。
さっそく名古屋に支社のある住宅建築会社に面接に行くと、内定をもらいました。
あとは名古屋に行ってその会社で働くだけでした。
しかし、ここで私の人生で最大の運命の分かれ道がやってきたのです。
あと2日で入社という時でした。
たまたま新聞の求人欄をみていると、
「大和ハウス工業」の求人広告が目に留まったのです。
当時、私は会社に入社するにあたり自分の戸籍謄本を見る機会があり、
その時初めて、自分の本当の親だと思っていた母ちゃんが違うという事に気がつき、
少し複雑な気持ちの中にいたからなのかもしれませんが、
本来なら、仕事はもう決まっているのに、なぜか気になってしまうのです。
ちょっと話を聞くだけならいいかと、電話してみました。
すると電話に出た人が高卒の私に対して、やたら熱心に勧めてくるのです。
「絶対うちの会社に来た方がいいよ! 面接に来なさい!」
結局私は入社が決まっていた会社を入社前日に丁重にお断りし、
「大和ハウス工業」に無事採用されたのでした。
入社すると、そこは男性ばかりの職場でしたが、
たった一人だけ20歳位の女子社員(直美さん)が働いていました。
朝からお酒やタバコの匂いが漂う男の職場で、彼女はいつも笑顔を絶やさず、
男性社員達の「お茶をくれ!」「タバコを買って来てくれ!」という要望に、
快く対応し、決して嫌な顔ひとつせずに笑顔で働いているのです。
私はそんな彼女にいつしか心を奪われてしまいました。
入社2ヵ月が過ぎた時、彼女の誕生日だと分かったので、
私が好きなクラシックのレコードをプレゼントしました。
私の中では、もう彼女と結婚したいと決めていました。
しかし、彼女の反応はイマイチ。どうやら当時彼女の同僚には、
「クラシックが好きな男性なんてねぇ。
しかも髪型は七三で、ズボンの丈も短いし……好きじゃ無いタイプ!」
と言っていた様です。
それでも彼女へのアタックは止まりませんでした。
毎日、仕事が終わると彼女を家まで送り届け、休日は朝早くから彼女の家に行き、
猛アタックを続けました。
当時の彼女(直美さん)の気持ちが後に語られています。
私がまだ18歳の時に初めてトクジさんと出会ったのですが、
パッと見る限りでは、生真面目そうで、いい所のお坊ちゃんという感じでした。
実際は貧乏出だったので違いましたけど、その時は好青年に見えたんです。
ただ、私は自分をぐいぐい引っ張ってくれる人が望みだったので、
彼はまったく逆のタイプだったんです。
だから、毎日家に送ってくれるのも、最初はアッシー君みたいで便利だと思っていました。
ただ毎日家に送ってくれても、私だってまだ18歳でしたから、
仕事が終わったらまっすぐ家に帰るのではなく、先輩や同僚と食事とかしたいんです。
それなのに、彼は毎日私を家に送るだけでなく、
休日も来るし、電話も2・3時間おきにしてくるんです。
その事で大喧嘩した事もありました。
今だったら、完全にストーカーですよね。
私は縛られるのが嫌いなので、やがてもう限界。「ふざけるな」と思いました。
そしてある日、もう別れようと思い、一緒に車に乗っている時に、
「今日でお付き合いを止めたい!」と彼に言ったんです。
そうしたら、彼が泣いたんです。
ボロボロと涙を流して、私の袖を握って離してくれないんです。
「ちょっと困ったな」と思いました。
それからも彼の猛アタックは続き、彼女は根負けして、
「100万円貯めたら結婚してもいいよ」と言ってしまったのでした。
実は、直美さんも10歳の時に、目の前で父親が吐血して亡くなっていました。
それ以来、親戚の家に預けられて育ったのでした。
そんな二人が、どこかでお互いの気持ちが引き合ったのかもしれません。
こうして彼女が23歳の時に結婚したのでした。
彼にとって、彼女は幸運の女神だったと思います。
彼女と結婚した事で、私の運が少しづつ上昇していったのです。
一年後には、自宅を建てて、その一室を事務所にして二人で不動産仲介業を始めました。
経営は順調でしたが、不動産業は安定した職業ではありませんでした。
契約が取れなければ収入はゼロです。
今は順調でしたが、何か心の奥で物足りなさを感じていました。
そんな時、行動的な妻が喫茶店をやってみたいと言ってくれたのです。
善は急げで、さっそく信用金庫から500万円を借りて、喫茶店「バッカス」をオープンさせました。
オープン初日、私は軽い気持ちで妻の手伝いに行きました。
すると開店の物珍しさもあったでしょうが、大勢のお客様が来店してくれたのです。
それが心の底から嬉しくて、妻と二人で拍手するほどでした。
私の中から、不動産業では味わった事が無かった熱いものがふつふつと込み上げてきたのです。
「これからは夫婦で喫茶店をやっていこう!」
不動産業は廃業にしました。
妻がいなければ、飲食業をやる事は絶対になかったです。
しかし、喫茶店の経営は順調ではありませんでした。
現在もそうですが、名古屋の喫茶店と言えば、「モーニング」です。
「モーニング」とはドリンク代だけで、
あとのトーストや卵、サラダは無料で付いてくるというお得なセットです。
どこの喫茶店でも「モーニング」で客寄せをしていたのですが、
うちでは一切やりませんでした。
だから、当初は来てくれたお客様もガッカリされた方も多かったでしょう。
喫茶業の先輩方からは、それでやっていけるのか?と心配されましたが、
私達は「安さで人を呼ぶよりも、真心のサービスをしよう」と接客に力を入れました。
例えば、サンドイッチなら、その都度お客様にマスタードの量を聞き、
サンドイッチの具は最後の一口までキッチリ残る様に丁寧に作りました。
ウインナコーヒーなら砂糖の量もお客様に直接伺って作りました。
常に店を掃除して綺麗にし、毎回お客様が来店したら、
手を止めて「いらっしゃいませ!」
お帰りになる時は、「ありがとうございました!」と元気よく挨拶しました。
すると、じわじわと客足が伸びてきて、やがて繁盛店になったのです。
開店10ヶ月後には、調子に乗って2号店を出す事にしました。
しかし、これが思わぬ苦労を招いてしまいました。
この2号店が、全くお客様が入らないのです。
経済的にも苦しくなり、最初の半年間は、二人でパンの耳を食べる毎日でした。
しかし、一品一品真心を込めて出し、一生懸命接客しました。
やがて「名古屋で一番のウインナー珈琲」と売りにすると、それを目当てに遠くから
来てくれる御客様が増え、段々と1号店、2号店ともに地域で一番の繁盛店になったのです。
ただ、店は小さくて15席しかありませんでしたから、これ以上の成長は望めませんでした。
そこで、出前も始める事にしたのです。
その為には食事メニューを増やす必要がありました。
ピラフにしようか、カレーライスにしようか、牛丼にしようか。と悩みました。
当時名古屋には牛丼の専門店が無かったので、牛丼はいけるかもしれないと思い、
東京の牛丼繁盛店に視察に行く事にしました。
しかし行って見ると、東京の牛丼屋はおじさんばかりで、女性の姿がありません。
昼食になると、オジサン達が一心不乱に牛丼を食べている姿を見て、
女性が入れない雰囲気が、何か違うなと思いました。
妻が家で作るカレーは、とても美味しかったので、これは皆にも食べてもらいたいと、
カレーライスを出す事は決めていました。後は味をどうするかでした。
そこで妻と相談し、カレーライスを出す事にして、
東京で有名なカレーのお店を10軒位食べ歩きました。
しかし、その時改めて感じたのです。
「妻が作るカレーが一番や!」
帰りの新幹線の中で、「カレーなら、ココが一番や!」という思いから、
3店目の店名を「カレーハウスCoCo壱番屋」にしました。
こうして私が29歳の時に「カレーハウスCoCo壱番屋」一号店をオープンしたのです。
アンケートはがきを導入し、お客様の声はクレームであっても、ファンレターだと思って、
どんなお客様の声も無視せず、なるべく改良する様にしました。
ただ、最初から順調だった訳ではありませんでした。
「CoCo壱番屋」4店目を出した時、二つの喫茶店を処分しても、
給料を含めた70万円が不足して払えない状況でした。
そこで尾西信用金庫さんへ行って、無理を承知でお金を貸して下さいとお願いしに行ったのです。
すると、70万不足の所、100万円を貸してくれのです。
良かった。10万円もあれば私達夫婦も新年を迎える事が出来る。そう思いました。
会社に帰るとさっそく給料袋に70万円を詰め、従業員に渡しました。
すると20万円が残りました。
その20万円を見て、夫婦はこう感じた。
「ああ、残りのお金。これは自分たちのお金じゃない。」
すると、せっかく頭を下げて借りたお金を、
10万円を、尾西市の社会福祉協議会さんに寄付。
もう10万円を、一号店のある所の社会福祉協議会さんに寄付しました。
すると、不思議な事が・・・
4店舗でアップアップだったのに、
それからというもの、次々とやる事が当たり、
あっという間に、50店舗、100店舗と増えて行ったのです。
「CoCo壱番屋」がこれほど多くの店舗に増えたのには理由もあった。
それは、宗次德二氏が美味しいカレーを多くの人に食べてもらいたいと、
ルウは提供するが、ロイヤリティは取らないのである。
また、いい加減なカレーを出さない為に、各店舗のオーナーさんは、
一般募集ではなく、まずは社員になってもらいよく知ってもらってから
暖簾分けという制度をとっているからだ。
その後、「CoCo壱番屋」は2000年に株式を公開。
宗次德二氏は、株式をハウス食品に譲渡する形で引退した。
その時の夫婦の株式の譲渡額は、220億円だったという。
その時、すごい金額が振り込まれていて、その通帳を見ながらこう思ったという。
「これは自分たちのお金じゃないぞ」
「これは社会から一時的に預かったものだから、
社会にお返ししないといけないね。」と、夫婦で話したんです。
その時にこう思ったのだそうです。
私が貧乏で苦しかった時、テレビから流れて来たクラシック音楽が、
どんなにか私の心を癒してくれたか。と。
名古屋に恩返しする意味でも、栄駅にクラシック様の音楽ホール「宗次ホール」
を建て、そこ通じて数々の運動を行なっている。
東北被災地に音楽を贈る運動。
青少年に楽器を贈る運動。
また、若手演奏家の支援の為、
例えば、約2億円するストラディバリウスなどバイオリンの名器を、有望な演奏家に無償貸与している。
宮本笑里さんや三浦文彰さん葉加瀬太郎さんら著名なバイオリニストに加え、
25歳以下の若手を対象に2年に1度開く「宗次エンジェルヴァイオリンコンクール」の
上位入賞者にも、2年間の期限付きで名器が貸与されている。
他にも、一人でも多くの演奏家に世界で活躍して欲しい為の奨学金制度。
楽器が不足し購入が困難な小・中・高校のブラスバンド・オーケストラ部への楽器の贈呈。
社会福祉施設や団体あるいは個人に向けての楽器の贈呈。
また、NPO法人イエロー・エンジェルを立ち上げ、
児童養護施設への寄付。
授産施設への給食サービス。
被災地などへの移動販売車でのカレー提供。
フードバンクへの食材提供などを行なっている。
夫婦が共に健康で商売できた「感謝」の気持ちとして。
END
参考:東京カレンダーhttps://tokyo-calendar.jp/article/9380?
「おしえて!アミタさん」http://www.amita-oshiete.jp/column/entry/014532.php
WORKPORThttps://www.workport.co.jp/column/2017/01/25/05%e5%ae%97%e6%ac%a1%e5%be%b3%e4%ba%8c%e3%80%80%e8%aa%b0%e3%82%82%e3%81%8c%e6%9c%80%e5%88%9d%e3%81%af%e6%96%b0%e4%ba%ba%e3%81%a0%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%80%82%e3%81%82%e3%81%ae%e4%ba%ba%e3%81%ae/
企業家倶楽部http://kigyoka.com/news/magazine/magazine_20150213_5.html
B-BOYが発信する生活ニュースhttp://b-boynositennews.blog.so-net.ne.jp/2016-03-14
野菜ソムリエ ぱるとよ https://internal-reform.com/2017/11/11/food-769/
三浦文彰さんの画像:出典spice.eplus.jp




