●ウサギとカメ
1991年10月23日。
群馬県のふるさと切手として、
童謡の「ウサギとカメ」を描いた62円切手が発売された。
言わずと知れたイソップ童話である。
ある時、ウサギは歩みのノロい亀をバカにして、山の麓までの勝負を始めた。
予想通りウサギは圧倒的に強い。ノロい亀はとうとうウサギが見えないほど遅れてしまった。
余裕のあるウサギは途中で寝て亀を待とうとした。
その間、亀はゆっくりではあるが、着実に一歩一歩小さな足で前に進んでいた。
やがて、ウサギが目を覚ますと、亀は山の麓にゴールしていたのである。
この「ウサギとカメ」を童謡で「もしもし亀よ」と歌ったのが、石原和三郎である。
石原和三郎が生れた群馬県みどり市には彼の碑が建てられている。
その群馬県みどり市に、1946年4月24日。
1人の男の子(とみひろ)が生れた。
小さい頃から健康と体力だけは人一倍な子で、
中学生になると、陸上部に入って毎日走り、県大会で優勝したりもした。
高校にはると、器械体操部に入った。
進学校だったので、普通の授業はまるっきりダメだったが、
体育の時間と放課後のクラブ活動になると生き生きして飛び回った。
群馬大学に入ると体育を専攻し、体操の選手となり、体育の先生を目指した。
そして免許を取ると、1970年4月から高崎市の倉賀野中学に体育の先生として赴任した。
着任わずか2ヵ月目の6月17日の事だった。
部活動の指導で体育館に行くと、子供達が嬉しそうに「来たぞ!」と迎えてくれた。
そんな子供達の嬉しそうな顔を見ると、「やっぱり教師になって良かった。」と思った。
中学生の器械体操は、床と鉄棒と跳び箱の3種目だが、
鉄棒は危険なので、私が居ない時はやらない様にと言ってあったので、
みんな踏切板を使った練習をしていた。
子供達はうまく振切板を使えない様子だったので、
私が踏切りと、ジャンプ、空中での回転の3つの段階を極端に区切って手本を見せた。
ところが、その時、悲劇が起きる。
助走をつけて振切り板をけり、体が空中で回転した。
しかし、次の瞬間、頭から床に落ちたのだ。
首の骨が折れた。
頸髄(せきずい)損傷。 四肢完全麻痺。 胸骨上緑以下の知覚障害。
つまり、首から下はまったく動かなくなった。
それだけでは無い。
腹式呼吸だけで、極めて浅い呼吸。
発熱もあり、呼吸停止や心臓停止がいつ起きるか分からない。
そのままいつ死んでもおかしく無かったという。
それから3ヶ月間、生死の境を彷徨った。
人口呼吸器でやっと生きている状態。
病状が多少安定してからも、首から下はまったく動かなかった。
自分で食事をする事も出来なければ、
自分でトイレにも行けないから他人に下の世話もお願いしなければならない。
来る日も、来る日も、ベッドの上でただ天井を見つめるだけ。
ボクに出来るのは、ただ目を開けたり、閉じたりして、天井を見る事。
食事の時間がくれば、母に食事をたべさせてもらう。
そんな毎日。
寝たきりで、天井を見つめるだけの日々が、何ヶ月も続きました。
と言うか、
これからの一生、天井を見るだけの人生かもしれない。
生きる希望なんて何も無い。
生まれて来なければ良かった。
死にたい。
怪我をした当時は、なんとしても助かりたいと思ったのに、
人工呼吸器がとれ、助かる見込みが出てきたら、
今度は死にたいと思うようになってしまった。
眠っている間に、心臓が止まってくれないかなぁ。
舌を噛みきったら死ぬかな。
食事を食べないで餓死しようともした。
しかし、腹が減って死にそうだった。
腹が減って、次の食事を腹一杯食べてしまう。 情けない。
母に首を絞めてもらおうと思ったが・・・・
母を殺人犯にさせることは出来なかった。
ある時、
スキーで怪我をしたという男子中学生が同室になったんです。
その子は病院に来た時は、首から下がまったく動かなかったんです。
「こんな小さい子がこんなに苦しむなんて、本当に大変だなぁ」と思って、
「神様、ホントにいるんだったら、この子を治してあげて下さい。」とお願いしました。
そうしたら、その子がいつの間にか手がピクピク動き始めて、
今度は立ち上がれるようになったんですね。
そういうのを見て、最初は「わぁ、良かった。良かった。」と思っていたんですけど、
だんだん良かったという気持の裏に、妬み(ねたみ)みたいなものが出て来てしまうんですよね。
そんな自分がホントに嫌だったし、自分と比べてしまい辛かった。
食事は病院に寝泊まりしている母に、朝昼晩と毎回母に口に入れてもらった。
ただ、病院の食事は朝昼晩の感覚が短いので、なかなかお腹は減らなかった。
そんな時は仕方なく食べるのだが、
母の差し出したご飯が少しでも顔にこぼれると、
それを口実に私は食べるのを拒否して、母を困らせた。
動く事さえ出来ず、ただ上を向いて寝ているだけの人生。
口から食べ物を入れてもらい、尻から出すだけの人生。
こんな土管みたいな人間が、はたして生きていて良いのか。
私も普通の人間ですから、やっぱり腹を立てる事もあるんです。
どうしょうもないイライラがつのる事もあるんです。
そんな時、誰かにそのイライラのはけ口をぶつけてしまう。
そんなイライラをぶつける所が、母しかいなかったんです。
ある日の食事の時間、
母の手元が震えてスプーンの汁が僕の顔にこぼれた。
わずかな量だったのに、私はカッとなってしまいました。
その瞬間、今まで積もり積もっていたイライラが一気に爆発してしまいました。
僕は、口の中に入れてもらったご飯粒を母の顔に向けて吹き出し、怒鳴ってしまった。
「ちきしょう!! もう食わねぇ。 くそババア!」
散らかったご飯粒を拾い集めながら、母は泣いていた。
「こんなに一生懸命やっているのに、
くそババアなんて言われるんだから・・・。」
「うるせー!!
俺なんかどうなったっていいんだ。
産んでくれなけりゃ良かったんだ!! ちきしょう!!」
母は涙を拭きながら、食事をしに部屋を出て行きました。
しばらく帰って来なかった母。
母がやっと帰って来ても、
一度開いてしまったイライラの出口は、容易に閉じる事は出来ず、
私は尚もトゲのある言葉で母に当ってしまいました。
きっと母もよほど悔しかったのでしょう。
しばらく口をきかなかった。
そんな時です。
一匹のハエがうるさく僕の頭の上を飛びまわって来ました。
まるで僕の手が動かないのを知っているかの様に、
いくら顔を振っても離れてはすぐに僕の顔にたかった。
黙りこくっていた母が、とうとうたまりかねてハエ叩きを握った。
足のへんで叩く音がして、一匹は母が取った様だったが、
少しするとまた別のハエが現れて、僕の顔に止まった。
母は、ハエ叩きを握って叩こうとしたが、さすがに顔だったので、
母の手は叩くというよりも、そっと触るように僕の顔を押さえた。
もちろんハエは逃げてしまったが、
ハエの止まっていた頬に、母のしめった手のぬくもりが残った。
ザラついていたけれど、柔らかな母の手だった。
母の感触は、僕の頬から、いつしか体中に広がっていった。
あれほどの言葉をあびせた僕を、母はきっと憎んだにちがいない。
しかし、その憎しみの中でも、
母は僕の顔につきまとうハエを見過ごしていられなかったばかりか、
ハエ叩きで私の顔を叩く事しないで、
母の顔にご飯粒を吐き掛けた僕の顔のハエを、母は手でそっと捕まえようとしたのだ。
僕は思った。
これが母なんだ。と。
僕を産んでくれた、たった一人の母なんだと。
この母なくして、僕は生きられないのだ・・・。
考えてみれば、母はズーッと病院に泊まり込み、
ベッドの横の狭いところで、寝起きして、
しかもボクが常に発熱したり、気管切開をしていて、
その吸引を二時間おきぐらいしていたので、
きっと、ほとんど眠れなかったと思うんですよね。
今まで機械なんかいじったことがなかった母が、
その吸引機を器用に操作して、 看護婦さんより上手くなっていました。
私が腹を立てて怒って、口をきかなくなったりする時も、
ズーッと変わらず看病し続けてくれたんです。
この時の気持ちを表した彼の詩がある。
神様がたった一度だけ
この腕を動かして下さるとしたら・・・・
母の肩を、たたかせてもらおう。
ある夏の日、人生を変える出来事が起きる。
以前、同室だった中学生の高久君のお母さんが久しぶりに病室を訪れてくれたのだ。
高久君は命に関わる重い病気の為、東京の病院に移ったのだが、
知らない人の中でずいぶん淋しい日を送っていたらしい。
ここに居た時は、僕らの人気者だった高久君。
高久君のお母さんは、僕らの声をテープにおさめ、
高久君の愛用のチューリップハットに寄せ書きをして、持ってくるように頼まれて来たのだった。
テープにはみんなで思い切りにぎやかな歌を吹き込んだが、
寄せ書きの注文に僕はハタと困ってしまった。
看護婦さんや部屋の人たちが、思い思いの言葉を書いた帽子が最後に僕に回ってきた。
悔しいけれど僕にはどうにもならなかった。
「ああ、書ける手が欲しい!」
僕が直接書いた文字を帽子のどこかで発見したら、
高久君はどんなにか喜んでくれるだろう。
そう思うと「よしっ。高久君を驚かせてみたい。うんと喜ばせてあげたい。」
そしてせき立てられるように、今までやってみた事も無いことをすることにした。
サインペンを口に咥えてみたのだ。
母が帽子を私の顔の上におそるおそる広げてくれた。
僕は全身の力を首に集中して頭を持ち上げると、ペン先がわずかに帽子に触れた。
しかし、ペン先は、帽子の白い生地に、
ゴマ粒ほどの黒い点をひとつ付けるのが限界だった。
首を持ち上げただけで、僕の全身の力はすべて出し尽くしてしまった。
マラソンをした直後のように呼吸は乱れ、前歯はペンを強く噛んでいたために、
まるで感覚がなくなってしまった。
なかば硬直したような唇のまわりには、よだれがぶざまに流れていた。
結局、僕が咥えたサインペンに、母が帽子を上から押しつけて
左右に少しずつ動かしながら「お富」という字を書いた。
幾日か経ったある日、高久君から電話がかかってきた。
彼は例の帽子の「お富」のサインを、ことのほか喜んでくれた。
僕は喜ぶ彼に「俺はサインペンをただ咥えていただけだったんだよ」
とは、最後までどうしても言うことができなかったが、
僕は高久君の喜ぶ声を受話器から聞きながら、「こんなに喜んでくれて良かった。」
と思うと同時に、「口で字を書きたい。」と痛烈に思うようになった。
高久君への精一杯の元気づけが、彼の人生をも助けるのである。
自分にもできることがあった。
死にたいとまで思っていた彼は、字を書く事で生きる喜びを見つけたのでした。
この日から、星野さんの努力の日々が始まります。
最初は、一日10分書くのが精一杯。
長時間書くと、熱が出てしまうのです。
鉛筆がのどにあたって吐き気がします。
強く噛みしめて血がにじみます。それでも、やめません。
字を書けたことが嬉しくて、嬉しくて仕方なかったのです。
それは、ウサギとカメなら、今は亀の様にのろ間で、
何分もかけてやっと一字が書けるというものでした。
でも、彼は言います。
今は0.1かもしれません。
でも、0(ゼロ)ではありません。
例え0.1でも沢山集めれば、やがて1にもなるし、いずれ100にもなるんです。
いつも励ましてくれている人に手紙を書くようになり、やがて絵にも挑戦しました。
いつも見ている病院の窓の外に春が来れば、花が咲いて、葉っぱが出て、秋に散っていく。
そういった自然というものに強く惹かれました。
また、お見舞いの人がよく持って来てくれた花瓶の花がベッドの横にいつもあったんですが、
それまで弱い花で、綺麗だけどすぐしおれてしまう。と思っていた花が、
ある時ユリのつぼみが静かに開いていく光景を見て、その強さに感動したという。
そして、苦労して育てた花を根元からスッパリ切って私にくれた
Nさんの気持と共にいつまでも心の中に咲かせておきたい。
そんな花を描いて残しておきたい。
やがて、彼、星野富弘氏が描いた花の詩画が人々の評判を呼ぶようになり、
個展を開いてみないかという話になるのです。
星野氏は言う。
「辛いという字があるが、
もう少しで
幸せになれそうな字である。」
そして、1991年には、
星野富弘氏の全作品寄付により、みどり市立富弘美術館が開館する。
美術館の隣には草木湖があり、かつて鉱毒事件で知られる足尾銅山から
渡良瀬川が流れ込んでいて、私も以前ブログに書いた悲惨な事件があった場所でもある。
(●渡良瀬川に消えた村 https://ameblo.jp/hirosu/entry-12311080822.html)
こんな田舎にある美術館なのに、
2010年2月には、入場者数が600万人を突破したというから凄い!
それと同時に、冒頭で紹介した
星野富弘氏が描いた絵「ウサギとカメ」が、郵政省より切手として発行されたのである。
そしてブラジル各都市で「花の詩画展」を開催する。
これを皮切りに、ニューヨーク、ハワイ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ポーランドでも開催した。
勿論日本各地で、詩画展は今もどこかで開かれている。
そんな彼の詩画展を見た人が、手紙をくれた。
「死のうと思っていましたが、もう一度頑張ろうと思いました。」
「私も身体が不自由です。今まで悲観して何もしていませんでしたが、
貴方の本を見て、私も何か一生懸命やってみようと思いました。ありがとう。」
彼の言葉や絵、彼の生きる姿勢は多くの人の勇気となっている。
星野氏は言う、
「私に出来る事は
小さな事。
でも、
それを感謝してできたら、
きっと、大きな事だ。」
END
参考:平成16年5月23日NHK教育テレビ「こころの時代」
星野富弘朗読集https://www.youtube.com/watch?v=7LHuzRDDcHQ
Tossランド 星野富弘の生涯に学ぶhttp://www.tos-land.net/teaching_plan/contents/2760
神の愛を描くhttp://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-87.htm
https://www.youtube.com/watch?v=Fm3Me3RSb8U










