●プロフェッショナル
昨日、11月23日(木)は、勤労感謝の日で休みでした。
仕事をしている人達に、感謝をする日。です。
もっと大きく言えば、日本国民お互いに、感謝しあいましょう。という日です。
さて、今日は何を書こうかと、今月の新聞、特に仕事関係で見ていると、
今月の6日、
人気テレビ番組「クイズダービー」で活躍した学習院大名誉教授の篠沢秀夫さんの、
の通夜が東京・護国寺で営まれた。(享年84)という。
篠沢教授はこの番組で、教授なのに珍解答を答えたりして、
お茶の間の人達に愛されたキャラクターとなり有名になった。
普通の大学教授がバラエティに出演する走りとなった人ではないだろうか。
大体、大学教授がクイズ番組に出るのは珍しかった。
人の上に立つ教授ともあろう人が、こんなクイズにも答えられないのかと、
言われるので、教授や大先生と呼ばれる人はクイズ番組には出なかった。
実際、篠沢教授は珍解答連発で、赤っ恥をかく事も頻繁にあったし、
司会の大橋巨泉さんからも、番組中に、
「よくそれで大学の先生が務まりますよね。」とからかわれたが、
篠沢教授は満面の笑顔で応じて、逆にそれが視聴者の好感度を上げた。
では、なぜ篠沢教授は、クイズダービーの出演を引き受けたのだろうか。
実は当時、
可愛がっていた最愛の長男を、海の事故で亡くしていた。
それで悲しい悶々とした日々を送っていて気分転換したらという奥さんの同意もあり、
また、彼はこうも言ったという。
「ボクはクイズが出来ない。でも・・・
それでもいいんだという事を見せたいんだ。」
篠沢教授は、自分の恥をさらす事に余って、
これを見ている人達が、私でもこういう教養番組やクイズ番組に出てもいいんだと、
勇気をもってもらいたいと、教えていたのではないだろうか。
私はその後にやってきたおバカ回答者番組のはしりだった人だと思っている。
そんな彼が、2009年、筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病になった。
ALSとは、運動神経細胞が侵される病気で、主に50代での発症が多く、
筋肉がやせ細っていき、段々手足に力が入らなくなってくる難病で、
日本には、約8000人の患者がいるという。
奥さんいわく、2008年末頃に、取材でうまく話せなかったので、
歯の病気を疑い、色々な所で検査を重ねたという。
すると、2009年1月にALSの診断を告げられたという。
2009年4月には呼吸器を着けることになり、口での会話がままならなくなった。
退院できたが、すぐに壁をつたってしか歩けなくなった。
トイレで倒れて救急車で運ばれた時には、人工呼吸器無しでは生きられない状態に。
医師から余命3年~5年だと宣告される。
そこからは戦いだったという。
その日から、夫の喉に詰まった痰を吸引するのが、礼子さんの日課となった。
呼吸器をつける毎日となりましたが、夫は「つらい、嫌になった。」
など悲観的な事は一切言わず、
いつも、ニコニコとしていて、私にも怒るような事は一切ありませんでした。
発症後も笑顔を絶やさず、神様のようでした」と声を震わせながら明かした。
2010年、介護保険以外に障害者自立支援法で定められたサービスを自宅がある
新宿区役所に申請したところ、65歳以上であることを理由に却下された。
担当職員の対応も不適切で、冷たかったという。
これに対して、教授は立ち上がった。
そんな規定があるのはおかしい。私が言わないで誰が言う。
障害者自立支援法の趣旨に反している。
その後、新宿区は「65歳以上は、障害給付の新規は受け付けない」との内規を廃止。
篠沢側に謝罪して、65歳以上で難病になった人への道を開いたのである。
また、篠沢教授は闘病中、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の根本治癒の為に、
ノーベル賞受賞者の山中教授に直筆の手紙でALS研究の依頼した。
山中教授はいう。「先生の強い願いに心が奮い立ちました」と。
篠沢教授は「パソコンのキーが打てなくなりましたが、
ブザーのパソコンで書き続けています」と直筆の手紙を何度か書いていたのである。
山中伸弥所長率いる京都大学iPS細胞研究所の研究チームは、2012年8月、
全身が動かなくなる不治の病、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の原因の一端を、
様々な細胞に成長できるiPS細胞を使い解明していた。
また、治療につながる薬の候補物質も突き止めたといい、治療薬の実現には
10年程度かかるとみられるが、難病克服の道がiPS研究によって切り開かれたのである。
篠沢教授は難病発症後も、教授として5冊の本を書き上げている。
(●篠沢教授とALS ~患者を生きる~
●命尽くるとも―「古代の心」で難病ALSと闘う など)
指の筋肉も衰え、ろれつもまわらくなり、筆談も困難になっていったが、
妻の礼子さんが代筆をするなどして支えた。
また、筆談や音声合成装置を使い、自宅療養しながら講演や執筆活動を続けた。
それはまるで、ALSになったのも何かのご縁。
多くの人にそれを伝えたいという教授というプロとしての使命だと思ったのかもしれない。
「主人は必死で書いているんです。
1時間で21文字ぐらいと、すごい時間をかけて。
読み取るのも大変ですが」と奥さんは言う。
ALSの症状は次第に進行し、2年前からは意思表示もできなくなった。
呼び掛けたらに対して、瞬(まばた)いたりして返答したという。
そんな時、教授に安楽死について聞いたという。
すると、教授は、すごく悲しい顔をしたという。
最後の執筆は今年2月。
ALSの団体から依頼されたテーマは皮肉にも「安楽死」だったという。
「その言葉を聞いて、主人は悲しい顔をしていました。自分は病と闘う覚悟で
呼吸器をつけたわけですから“途中で安楽死”なんて負けたことになっちゃうと。
だから安楽死には絶対反対。私も一日でも長く、どんな形でも生きていてほしいと
思っていました」
容体が悪化したのは、今年6月に肺炎を起こしてから。
「肺にも水が溜まり、顔もむくんでかわいそうでした。
でも、最後まで“弱音を吐かない人”でした。」
そう言えば、霊能者が、
筋ジストロフィーで、ほとんど会話が出来ない人を霊視した事がある。
すると、彼の亡くなった父親が出て来て、
「お前が筋ジストロフィーという難病になったのは、
周りの人々に、無条件の愛を教える為だったんだよ。」と告げたと言う。
篠沢教授も、きっと自分を含めたALSの人達の為に本を書いたり、研究をお願いする以外に、
私達に「普通に動ける、普通に筋肉が動かせるという常識が、
どんなにありがたい事なのか。」教えてくれている私達の先生でもあるのかもしれない。
彼は最後の一瞬まで、教授というプロフェッショナルだったのだ。
礼子さんは旅立って行く夫にこう声をかけたという。
「パパは病気(ALS)に負けたんじゃないのよ!
これだけ頑張ったんだから、もう十分。」
(医者から余命3年の難病と告げられたが、8年になっていた。)
山中伸弥教授は弔辞で、
「先生のお言葉、お姿を胸に、病気と闘っておられる皆さんの元へ
iPS細胞研究の成果を一日も早く先生の御霊前にご報告できるよう、
より一層努めさせていただきます」と誓った。
きっと、篠沢教授は、それを聞いてこう言うだろう。
「ボクには間に合わなかったけど、
ほかの多くのALS患者たちの為に、あとは頼んだぞ! 山中教授!」
まるで、篠沢教授から、こんな最後の一言が聞こえてきそうだ。
「山中教授に、全部!」
https://www.youtube.com/watch?v=cAdpzhIQQbU
END
参考:女性自身11/06


