会津まつりから見えてくる日本史

 


今日、9月22日は、会津まつりが始まる日です。(3日間)

 

 

このお祭りは、当初は皇族の成婚を祝って行われたのが最初でしたが、

 

 

1868年に起きた会津戦争(戊辰戦争)で亡くなった

 

 

会津藩士や戦争で亡くなった人々の霊を慰める意味があるといいます。

 

 

だから、会津まつりは先人への感謝祭ですが、

 

 

会津まつりの最大のイベントは総勢約500名にもなる「会津藩公行列」です。

 

会津まつり協会

 

人々は武者姿で練り歩くのですが、その中には、

 

 

会津戦争(戊辰戦争)で亡くなった、あの白虎隊や、女子だけの娘子隊

 

 

子供だけの幼少隊なども見られます。

 


白虎隊とは、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊で、

 

 

中には白虎隊に入りたいが為に15歳なのに16歳だと言って参加した子供もいました。

 

 

特に飯盛山での戦いでは、町が焼けているのを見た白虎隊19名の少年達が、

 

 

城が落ちたと勘違いして、19名全員が腹を切る自刃した悲劇があった。

 

 

そして、少女や娘達だけで構成された娘子隊も戦闘に加わった。

 

 

政府軍の長州藩の軍勢は、当初戦闘に女子が混じって戦っているのを見て、

 

 

あざ笑って、生け捕りしてやろうとしたのだが、娘子隊の余りの勇敢さに驚く。

 

 

あわてて銃を持ち直し、彼女達に銃弾を浴びせたという。

 

 

銃に対して、女の子たちは薙刀(なぎなた)で対抗したので、結果は悲惨なものだった。

 

 

多くの少年少女達が、この戦いで散ったのである。

 

 

中には、絶世の美女と言われた中野竹子もいたが、額を銃を撃ち抜かれたという。

 

 

そして、明治元年9月22日、。孤立した会津藩はこの日、新政府軍に降伏した。

 

 

 


会津戦争じたいも悲惨だったが、

 

 

もっと悲惨だったのは、ここからだった。

 

 


明治政府(長州藩を中心とした)は、会津藩の戦死者は犯罪者であるという理由で、

 

 

墓に埋葬する事を禁じて、死体をいじってはならないとしたのである。

 

 

会津の為に戦った少年や少女達の遺体は、埋葬される事が許されず、

 

 

飯盛山で散った19名の白虎隊の少年や、娘子隊の少女達の遺体が、

 

 

亡くなったまま、そのまま放置され、野良犬やイタチや鳥などに食われたと言う。

 

 

当時、余りの死体から臭う死臭の為、会津は鼻をつまんでも臭って歩けなかったという。

 

 

 


その後、残された会津の志士が、何度も何度も明治政府と交渉して、

 

 

やっと埋葬出来る様になったのだが、

 

 

その頃には、誰がどの死体か判別出来ない程の遺体となっていたという。

 

 

 

 

 

では、どうして、この悲惨な会津戦争(戊辰戦争)が起きたのでしょうか?

 

 


実は、この会津戦争(戊辰戦争)の事を知ると、

 

 

日本の歴史が分かるのです。

 

 

それほど、この会津戦争(戊辰戦争)は日本の歴史を集約した様な戦争だったのです。

 

 


そもそも、会津藩(今の福島県)が、なぜ遠い国の長州藩(今の山口県)

 

 

と戦争になったのでしょうか?

 

 

 


それを知ると、今まで日本の歴史がよく分からなかった人にも、

 

 

日本の歴史が分かってしまう要点が含まれていたのです。

 

 

 

 

 

会津藩(今の福島県)と、長州藩(今の山口県)の確執は、

 

 

なんと、1600年に起きた関ヶ原の戦いにさかのぼるのです。

 

 

 


実は1600年に起きた関ヶ原の戦いの約2年前に

 

 

天下統一を果たした豊臣秀吉が亡くなっていました。

 

 

これによって、豊臣秀吉が行なった朝鮮出兵に不満を持つ派閥と、

 

 

石田三成を中心とする派閥の2つに、豊臣家は分裂していたのです。

 

 

そこで不満派をまとめた徳川家康を総大将とした東軍と、

 

 

石田三成を中心とした西軍とに別れて戦ったのが、関ヶ原の戦いだったのです。

 

 

この戦国時代最大の戦も、小早川秀秋の寝返りによって、

 

 

たった半日で勝敗を決するという結果になったのです。

 

 

後に、小早川秀秋は、日本の歴史史上最大の裏切り者と言われました。

 

 

こうして徳川家康が圧勝。江戸時代の始まりとなったのです。

 

 


この関ヶ原の戦いで、徳川家康の東軍に味方したのが、会津藩でした。

 

 

そして、石田三成の西軍に味方して負けたのが長州藩だったのです。

 

 

負けた長州藩には、厳しい罰が与えられたのです。

 

 

まず、山口県から岡山県・島根県にまで及んだ領地を、

 

 

ほぼ山口県だけに減らされてしまったのである。

 

 

つまりそれまであった所領の内、七ヶ国削られ、

 

 

石高は120万石から36万石へと大幅に減らされてしまったのでした。

 

 

 


徳川家康の長州藩いじめは、それだけに留まりませんでした。

 

 

次から次にと、大規模な工事を言い渡し、長州藩はあっという間に財政難に陥ります。

 

 

徳川家康は、あわよくば長州藩のお取り潰しを狙っていたのです。

 

 

ここで長州藩は思い切った策に出ます。

 

 

それは、武士のリストラでした。

 

 

約3万人の武士を、1万人にまでに減らしたのです。

 

 

リストラされた武士達は、農民になりましたが、それは普通の農民ではありませんでした。

 

 

字の読み書きが出来たり、剣術の達者な農民だったので、それを職業として、

 

 

長州藩のあちこちに小さな学校である塾や寺子屋が出来たのです。

 

 

幕末には、なんと長州藩には寺子屋や私塾が合計1400以上もあったといいます。

 

 

つまり、徳川家康の長州藩いじめは、結果的に、

 

 

長州藩に多くの頭の良い人材を作らせる事になったのです。

 

 

長州藩に出来た私塾の中の1つが、吉田松陰が作った松下村塾でした。

 

 

後にこの塾で学んだ高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋などの人々が活躍するのです。

 

 

吉田松陰は、ある時、日本が唯一外国と貿易をしていた長崎に行きます。

 

 

そこで中国人から、いかにアヘン戦争(1840年)で苦戦したかを聞きます。

 

 

イギリスの軍艦は大砲を撃つと、100発中100的中なの対して、

 

 

の大砲は10発撃って1発しか当たらなかったと言うのです。

 

 

あの強かった中国の清国が、イギリスの軍隊に僅か2年で破れたのに驚き、

 

 

いかに今の日本の兵法が西洋に遅れをとっているのかを知ったのでした。

 

 

こうして、長州藩は藩全体で塩やロウソク、紙を生産し、財政を立て直し、

 

 

密貿易によって、新しい武器を買う政策を積極的に行ったのでした。

 

 

 

 

 

やがて、徳川幕府がある江戸に、大事件が起きます。

 

 

1853年9月3日に浦賀沖に、4隻の黒船が来航したのです。ペリー率いる艦隊でした。

 

 


この瞬間より、日本の歴史は、幕末と言われる様になります。

 

 

圧倒的な艦隊と大砲に驚いた幕府は、度重なる貿易の開港の要求に屈してしまいます。

 

 

その結果、徳川幕府は、アメリカと日米修好通商条約を交わします。

 

 

しかし、この条約は日本にとって、圧倒的に不利なものでした。

 

 

治外法権(領事裁判権)を認めて、外人が日本で罪を犯しても罰せられなかったり、

 

 

関税の自主権が無く、輸入品に日本が関税率を決める権利が無いというものだったのです。

 

 

そして、同じ様な条約をオランダ・ロシヤ・イギリス・フランスとも結んでしまったのです。

 

 

 

 

この幕府の弱腰に多くの藩が、失望しました。

 

 

そして、失望した一人が、当時の孝明天皇だったのです。

 

 

孝明天皇は、外国を嫌い攘夷を唱えます。

 

 

攘夷とは、外国との貿易を止めて、日本から外人を追い出す事です。

 

 

それと同じ意見だったのが、長州藩の吉田松陰でした。

 

 

吉田松陰は、日本の独立を守るためには、今の幕府に任せてはいけないと論じたのです。

 

 

長州藩は、孝明天皇の意志も幕府と正反対と知ると、公家達と相談して、

 

 

京都の孝明天皇の元にはせ参じます。

 

 

公家とは、天皇に仕える貴族・上級官人の事で、

 

 

当時の公家の一人が後に100円札の肖像になる岩倉具視でした。

 

 

 


徳川幕府も、この長州藩と孝明天皇との結びつきに危機感を抱きます。

 

 

そこで徳川幕府がとったのが、会津藩への京都守護職の命令です。

 

 

京都では、幕府に反対する攘夷派によるテロが横行していて治安が悪くなっていました。

 

 

その治安維持の為に、会津藩を京都に行かせたのでした。

 

 

しかし、会津藩にはもう1つ幕府から密命が与えられていました。

 

 

それは、孝明天皇の攘夷の考えを説得し、今の徳川幕府の子孫と結婚させて、

 

 

天皇家と幕府を婚姻関係にして天皇を幕府よりに取り込もうという策です。

 

 


こうして、会津藩は、長州藩と対じする事になったのです。

 

 

当初、孝明天皇は長州藩と攘夷の密約を交わしていました。

 

 

ところが、1863年5月、

 

 

長州藩は下関を通ったアメリカとフランスの船めがけて攻撃したのです。

 

 

なかなか判断しない幕府をしびれを切らし、単独で攘夷を決行したのでした。

 

 

この行動に驚いたのが、意外にも孝明天皇でした。

 

 

天皇は長州藩と攘夷の約束を交わしたのだが、余りの長州藩の過激な行動に脅え、

 

 

会津藩が幕府の代表として来ると、孝明天皇は会津藩に助けを求めたのです。

 

 

今までの事は、長州藩と公家達の考えで、そちは攘夷など考えていない。と言ったのです。

 

 

 

 


日本の歴史における戦争は、この様に、

 

 

天皇の気持ちが、行ったり来たりとフラフラしている事で起きている戦が多いのです。

 

 

 


こうして天皇の後ろ盾を得た会津藩は、長州藩を京都から追い出したのです。

 

 

長州藩は、会津藩を怨むと言って、京都から去って行きました。

 

 

 


山口に帰った長州藩士達は、納得がいきません。

 

 

一時は天皇の同意があって行動したのに、なんで会津藩に京都を追い出されるのか!

 

 


翌年、長州藩は名誉回復の為に、再び京都に向います。

 

 

そしてとうとう長州藩と、会津藩は直接武力衝突になるのです。

 

 

禁門の変です。

 

 

この時に、幕府軍と一緒になり長州藩と戦ったのが、西郷隆盛の薩摩藩でした。

 

 

結果は、長州藩の惨敗。

 

 

長州藩の死者400名に対し幕府側の死者60名というものでした。

 

 

禁門の変後、長州藩は朝敵となったのです。

 

 

 


朝敵となれば、幕府がせいせい堂々と長州藩を潰す理由が出来たというもの。

 

 

徳川幕府は、全国の大名に命令し、長州藩を滅ぼす為に兵を出します。

 

 

これが世に言う、長州征討です

 

 

その兵数、15万人。

 

 

それに対して、長州藩はわずか3000人

 

 

闘えば、結果は明らかでした。

 

 

 


そこで長州藩がやったのが、あちこに散っていた農民になった武士達への

 

 

志願兵へのお願いでした。

 

 

各地にお願いのビラを36万部も配りました。

 

 

さらに、長州藩はこの時の為に、コツコツ貯めたお金で、

 

 

イギリスから最新の兵器を大量に買っていました。

 

 

すると、そんな長州藩の周到な準備が功を奏し、あちこちで幕府軍を破ったのです。

 

 

そして、わずか3000人の長州藩に志願兵が加わり、

 

 

なんと幕府軍15万人の大軍を破ったのです。

 

 

 

ちなみに、この時、坂本竜馬も戦艦に乗って幕府軍と戦い、

 

 

この時から長州藩の信用を得たのでした。

 

 

 


この戦いの敗戦によって、徳川幕府なんてした事無いんじゃないの思われる様になり、

 

 

幕府の権威は、あっという間に地に失墜したのです。

 

 

 


この期に、長州藩は幕府を倒そうとしますが、手負いの長州藩だけでは、

 

 

今の幕府を倒す事は出来ません。

 

 

そこで立ち上がったのが、坂本竜馬でした。

 

 

1866年1月、坂本龍馬の仲介で、

 

 

今まで仲が悪かった薩摩藩と長州藩が同盟を組んだのです。

 

 

 

これがいわゆる薩長同盟です。

 

 

 

薩摩藩が武器を提供し、それに対して長州藩が米を交換したのです。

 

 

そして、その輸送を担当したのが、坂本龍馬率いる海援隊でした。

 

 

 


当時最強の長州藩と薩摩藩が結びついたので、徳川幕府は恐怖を抱きます。

 

 

そこで徳川幕府がとった奇策が、1867年10月14日に起きた大政奉還でした。

 

 

政権を朝廷に帰してしまえば、徳川家はただの一大名に過ぎません。

 

 

つまり、薩長同盟が徳川家を攻撃する理由が無くなるのです。

 

 

この大政奉還という奇策の原案とされたのが、坂本龍馬が考えた船中八策でした。

 

 

坂本竜馬という男は、面白い人物ですね。敵味方両方に肩入れするというか、

 

 

一方では、新政府軍を強くし、一方では幕府側の生きる道を作っていたのです。

 

 

 

 


大政奉還されたものの、孝明天皇が急死していて、

 

 

まだたった10歳の明治天皇が即位したので、朝廷は公家の岩倉具視や、

 

 

過激的な三条実美の自由となっていたのです。(この時より日本は明治時代。)

 

 

 


長州藩にとっては、思わぬ形で幕府打倒が実現してしまいました。

 

 

あとは新政府をどうやって作るのかが問題となりました。

 

 

新しい政府は、合議制にして、全ての藩で新しい日本を作ろうとします。

 

 

そこで問題になったのが、新しい政府に徳川を入れるかどうかという事でした。

 

 

陰でここまで活躍していた坂本竜馬は、勝者も敗者もいない新体制という意見でした。

 

 

ところが1867年12月10日その坂本竜馬が京都の近江屋で暗殺されてしまいます。

 

 

大政奉還の2ヵ月後、大政奉還は、徳川家延命の策略だとして、

 

 

長州藩のリーダー木戸孝允は、徳川を排除する事を決めたのです。

 

 

なぜなら、徳川家は政権を手放したとはいえ、まだ全国に腐るほどの土地と権利

 

 

持っていたので、いつそれらを元手にまた息を吹き返すか分からないというのです。

 

 

よって、王政復古を実施すると言い。

 

 

徳川家の官位と領地の没収を宣言したのです。

 

 

当然、この長州藩の決断を聞いた徳川軍は激怒

 

 

政権を返上したのにもかかわらず、徳川家を潰そうとするとは何事ぞ!!

 

 


これによって、歴史は悲劇の会津戦争(戊辰戦争)へと突き進んでいくのです。

 

 

もし、坂本竜馬が生きていれば、

 

 

戊辰戦争や西南戦争は起きなかったのではないかとも言われています。

 

 

 


こうして薩長同盟を中心とした新政府軍と徳川家を中心とした旧幕府軍が睨み合う事に。

 

 

この時、旧幕府軍の総大将、勝海舟は薩長同盟との戦いを反対しました。

 

 

しかし、徳川慶喜は、勝海舟の忠告を聞かず鳥羽伏見にて兵を上げたのです。

 

 

1868年1月3日。これが鳥羽・伏見の戦いです。(戊辰戦争の始まり

 

 

兵力は薩長同盟が5000人に対して、徳川慶喜の軍は15000人と3倍だったので、

 

 

徳川慶喜には絶対の自信があった戦いでした。

 

 

当初は、一進一退で、どちらが優勢か分かりませんでした。

 

 

ところが、その時に岩倉具視が官軍の証である「錦の御旗」を制作して配ったのです。

 

 

実際は、天皇は幼く判断出来ないのに、岩倉具視が勝手に作ったのでした。

 

 

すると、天皇の「錦の御旗」を見た諸藩たちは段々と新政府軍に寝返る様になり、

 

 

徳川慶喜の軍は薩長同盟の前に大敗してしまったのである。

 

 


これに勢いを得て、西郷隆盛率いる薩摩軍が江戸城に迫った。

 

 

ここで江戸を戦火にしたくない勝海舟が、西郷隆盛と話し合い、

 

 

1868年4月11日。江戸城の無血開城が実現したのだった。

 

 

江戸城を戦う事無く手に入れた新政府軍であったが、

 

 

本来なら、そんな手柄をとった西郷隆盛を称える所だが、

 

 

京都の朝廷や公家達は不満を漏らした。

 

 

西郷ドンは、勝海舟に騙されている。西郷ドンのやり方は甘い!!と。

 

 

京都の朝廷や公家は、人情派の西郷隆盛ではダメだと引き揚げさせ、

 

 

代わりに長州藩を、残る勢力の東北の会津藩を討伐に向かわせたのだった。

 

 

こうして、長州藩と会津藩は、

 

 

最後の戦いである会津戦争(戊辰戦争)に突き進み、

 

 

多くの少年少女達が死んだ先の悲劇の戦いとなったのである。

 

 

 


会津の人々が、長く長州藩に対して良く思っていないのは、

 

 

会津戦争(戊辰戦争)で降伏した後の事が、余りにも残虐だった事である。

 

 

それは冒頭で挙げた、会津の為に戦った少年や少女達の遺体を、

 

 

埋葬される事が許されなかった事もそうですが、

 

 

戦いが終わった後も、長州藩は略奪の限りを尽くしたという。

 

 

 

江戸からは、多くの古物商が会津に乗り込んできて、

 

 

あらゆる価値がある物を、ここぞとばかりに盗んでいったという。

 

 

それは骨董品や刀剣に留まらず、女性も対象になったという。

 

 

 


それに対して、会津の人達は偉かった。

 

 

東明寺で、会津の犠牲者だけでは無く、長州藩の死者も分け隔てなく弔ったのである。

 

 

 


その後、正しい歴史を学ぶにつれ、

 

 

徐々に会津に申し訳ない事をしたと認識する長州の人が増えてきた。

 

 


2007年4月14日。当時総理在任中

 

 

山口県出身(長州藩)の安倍晋三が、会津若松市を訪れた時に、

 

 

会津戦争(戊辰戦争)では、

 

 

「長州の先輩が、会津の人々にご迷惑をかけた」と謝罪した。

 

 

しかし、その時は、会津の人達も正直複雑だったという。

 

 

会津戦争での戦死者が眠る飯盛山や天寧寺にお参りしてくれて、

 

 

焼香でもしてくれれば別だが、

 

 

遊説したついでに、付け足しで詫びたんでは、受け入れらないと言うのである。

 

 

 

 

 


そんななか、2011年3月11日。

 

 

東日本大震災が起きる。

 

 

 


その22日後だった。

 

 

 

会津若松市は2日。

 

 

山口県の萩市から、震災の義援金2200万円と、

 

 

ランドセルや保存食などを支援物資として受け取った事を発表した。

 

 

 

 

その後、山口県は、福島県の被災者10人を受け入れ、

 

 

多くの企業や市民が、

 

 

「東日本地震災害を救援する萩市の会」を結成して

 

 

今も会津を助けるべく募金活動などを続けている。


END