●もう少し、生きていてくれたら・・
今週から始まった亡くなった小林麻央さんの息子、勸玄ちゃんの七月大歌舞伎。
ここで、勸玄ちゃんは、史上最年少での宙乗りを披露している。
それを見たお客様の声や、テレビのコメンテーターが、口にするのが、
「小林麻央さんに、見せたかったわねぇ。」という声。
「もう少し、生きていてくれたらね。」という声も。
でもね。
違うんです。
昭和22年。
岡山県の倉敷市に一人の男の子が生れた。
しかし、彼には生れた時から、父親が居なかった。
父親は、彼が生れる僅か3ヶ月前に脳腫瘍で天国に行っていたのだ。
時は戦後。
どこの家庭も苦しかった時代だったが、
彼の家は特に貧しかったという。
母子家庭な上に、子供が彼を含めて3人もいた。
その為、カアちゃんは、朝は豆腐屋で働き、昼からは工場の寮で働き、
夜は皿洗いをして寝る暇も無かったという。
彼は小さい頃から、自分の家が貧しい事を知っていた。
ある日、彼はテレビで阪神タイガースの野球を見ると、自分もやりたいと思ったが、
どうしても母親に、グローブを買って欲しいとは言えなかった。
毎日、クタクタになるまで働いても、働いても貧乏な家族なのに、
1000円もするグローブをおねだりするなど、とても口に出来なかったのだ。
そんな時、だった。
母ちゃんが、あちこち頭を下げて、草むしりの仕事を見つけて来たのだ。
そして、その賃金の1000円全てを彼にくれたという。
「グローブ欲しかったんだろ。買ってきな。」
嬉しかった、それまでの人生で一番嬉しかった。
彼は一目散に、1000円を握りしめて、スポーツ店に向ったという。
スポーツ店にあった一番安いグローグ。それが1000円だった。
しかし、ふと隣に置いてあった1200円のグローグも気になっていた。
材質が全然違う。
本当は1200円のが欲しかったのだが、そんな事、母には言えなかったのだ。
どのくらい経っただろうか。
彼が、1000円を握りしめたまま、1200円のグローブを見つめていると。
スポーツ用品店の店主が近寄って来て、
「ぼうず、いくら持ってるんだ。」と聞いて来たという。
彼が手の中の1000円を見せると、
店主は、黙ってその1000円を受け取ると、
だまって彼に、1200円のグローブを持たせてくれたという。
その時の嬉しかった気持ちと、感謝の気持ちは、今でも忘れないという。
父親が居ない家庭で育った彼が、人の優しさを感じた瞬間だった。
そんな事もあり、彼は自分の周りにいる人にも親切に接する様になった。
彼が小学5年生の時、同級生に定金正憲君という友達がいました。
正憲君は、1年前に筋ジストロフィーという重い障害が発症していて、
学校に行くのをいつも嫌がっていて、お母さんを悲しませていました。
そんなほとんど歩けない正憲君でしたが、次の日から毎日学校に行く様になったのです。
なぜなら、彼が正憲君を毎日背中におぶって、小学校に登校したからでした。
毎朝彼に家に行き、おぶって学校に登校。
そして、彼が野球の練習を終えると、またおぶって彼を家まで連れて行きました。
彼がつまらなそうな時は、おぶって公園や遊技場に連れて行ったといいます。
それが1日や2日なら、私でも出来るかもしれませんが、
彼は正憲君が卒業するまでずっと、背負って学校に登校したのです。
雨の日は、リヤカーを調達してきて、定金君が濡れない様に学校に連れて行きました。
また、放課後、正憲君が寂しくならない様にと、
彼が野球の練習を見たいという時は、練習場にも背負って連れてきました。
さすがに正憲君は、野球が出来ませんでしたが、
彼が野球している姿を見て喜んで応援していたといいます。
それはせめてもの、正憲君の恩返しだったのかもしれません。
その後、彼はみんなの善意で買ってもらったグローブを大切にし、
野球一筋で頑張り、中学・高校と野球部に籍を置くと、メキメキと力を出し始めました。
それは、一日でも早く、母親に楽してもらい。その一心だったといいます。
大学時代には通算23勝を挙げ、ノーヒット・ノーランも達成したのです。
そして、昭和43年のドラフト会議で「中日ドラゴンズ」の1位指名を受け、
小さい頃からの憧れであったプロ野球選手という夢を掴んだのでした。
彼の契約金は1800万円にも上りましたが、
まずは、母親・敏子さんへの今までの恩返しをと、
貧乏な中、毎月毎月仕送りをしてくれた母親に400万円を送りました。
残りをお世話になった人や、高校、大学への寄付などに使い、
星野仙一さんの手元にはほとんど残らなかったといいます。
彼のプロ入りを、もう一人の母親も喜んでいたといいます。
それは彼が小学生の時に背負って登校した筋ジストロフィーの正憲君の母親でした。
「20歳までは生きられないと宣言されていた息子が、
41歳まで生きられたのは、星野さんのおかげです。
息子はいつも星野さんの活躍を見て、夢と希望をもらっていたんです。
息子にとって星野さんは、同級生で、神様だったんです。
息子は幸せだったと思います。 ありがとう。」
なんと、星野さんと正憲君は、小学校を卒業したあとも、
ずっと交流を続けていて、正憲君を励まし続けていたのでした。
平成13年の暮れ、星野さんはある大きな決断をします。
私が小さい頃、野球に導いてくれた阪神タイガースに恩返しがしたい。
阪神タイガースの監督に就任する決心をしたのでした。
それまで4年連続最下位に沈んでいたチームでした。
ところが、監督を引き受けて迎えたシーズン2年目の事です。
開幕直後から、なんと首位の座をキープし快進撃。
大阪中が、まさか、まさかです。
阪神ファンでもある母親・敏子さんは、試合を観戦する際には、
テレビの前で正座して観戦するというルールを作って見ていました。
息子が戦っているときに姿勢を正すのは当たり前や。
ところが、優勝までのマジック30が点灯した日、
敏子さんは、体調を崩し入院してしまいます。
母親に阪神の優勝を見せてあげたい。その一心だったといいます。
母親も、自分の唯一の夢は、阪神が勝った翌日のスポーツ新聞を見る事だと言ってました。
しかし、優勝を目前にした阪神は、9月に入ると、急に足踏みが続きます。
一方、母親の敏子さんは段々と衰弱が進み危ない時も。
星野さんは、大事な試合の合間を縫って、母を見舞いました。
こうして野球が出来るのも、母親が苦労したお蔭。
だから、最後にもう一度、
最後にもう一度、阪神の優勝と自分の胴上げを見せてやりたい。
そして9月15日、阪神タイガースは、18年ぶりに優勝したのでした。
しかし、星野さんがこの胴上げを一番見せたかった母・敏子さんは、
優勝を決めるわずか2日前の9月13日に、永遠の眠りについていたのです。
多くのタイガースファンや選手達の喜びに、水を差してはいけない。と
阪神タイガース優勝の胴上げと歓喜の中、
星野さんは、そのことを誰にも明かすことなく、
母の死の悲しみを、胸の中で押し殺していたのでした。
試合を終えた星野さんは、ひとり通夜に駆けつけ、
母の棺の前で、こうつぶやいたといいます。
「どうして、
どうして優勝まで待っててくれなかったんや!! かあさん」。
でもね。
違うんです。
家の中で、ほとんど目も見えない状態で、
息子の晴れ舞台を迎えたくなかったんですよね。
それよりは、一緒に球場で、息子の胴上げに参加したかったんですよね。
だからね。
お母さん、死んだんじゃないの。
会いに行ったんだよ。球場に。
一緒にその場に居たかったんだよ。仙一。
時々、魂は息子の晴れ舞台に一緒に居たいが為、
大事な場面に参加する為、少し早く亡くなる事があるのです。
それは一緒に、その場に居たいため。
だからね。
小林麻央さんも、勸玄ちゃんの晴れ舞台に行きたかったの。
市川海老蔵さんの7月3日のブログでは、
その日行われた息子・勸玄ちゃんとの宙乗りの感想として、
こんな事を書かれています。
よくやった。
そばに、ママいたね。
と互いに話しました、、涙
END
参考:テレビ朝日 | SmaSTATION!!星野仙一特集
参考:ひとりごとhttp://blog.inte-grate.jp/?eid=64763
