●タイタニックの孤児
今年の2月、タレントの松本伊代さんと早見優さんが、
JR山陰線の踏切から線路内に立ち入ったとして、
京都府警右京署は2人を書類送検したというニュースが世間を騒がせた。
この踏切は、普段から沢山の観光客が来て写真を撮る人気スポットで、
彼女ら以外にも沢山の観光客が線路内に入って写真を撮っている所だった。
写真を見る限り、電車も来ていないから安全だからいいだろう。と思えるが、
こういう事を許していると、中にはこう考える人が出て来る。
どうせ写すなら、電車が映っていた方が記念になるとか、面白いと。
寸前で逃げれば大丈夫だと思っていたら、つまづいて転んだとか、
その前に電車の方が急ブレーキを踏んだとか。思わぬ混乱が生じたりする。
だから、皆が知っている芸能人を罰する機会を待っていたと言ってもいいだろう。
線路内に入ると、捕まるという事を世間に知らせるのには絶好の機会だったと言える。
こういうのを、【一罰百戒】いちばつひゃっかい と言う。
意味は、
一つの罪や過失を厳しく処罰して、大勢の人々の見せしめにすることで、
他の人達が同じ罪が起こらないように知らしめる事である。
つまり、一人に罰を与える事が、百人に知らしめる効果がある。という戒めだ。
アメリカの法廷では、よくこういう一罰百戒の判決を良く見る。
1992年、ニューメキシコ州アルバカーキで、
79歳の御婆さんが、孫とマクドナルドでテイクアウトで食事をした。
御婆さんは、注文したコーヒーを足の両膝の間にはさみ、
ミルクと砂糖をコーヒーに入れる為に、フタを開けようとした。
ところが、その時に誤ってコップが膝から倒れて、コーヒーが全部膝の上にこぼれてしまい、
直ぐに病院に行くと、第3度の火傷であると診察されたのである。
もちろん、これは御婆さんの完全なる不注意である。
日本なら、例え火傷したとしても、こぼした自分が悪いと思って泣き寝入りである。
しかし、ここはアメリカ。
御婆さんは、マクドナルドを訴えたのである。
すると、裁判所はマクドナルドに当時のレートで日本円にすると3億円を、
御婆さんに支払えという判決を言い渡しのである。
コーヒーをこぼしただけで、3億円だ!!
これは驚きの判決として、瞬時にアメリカ中はおろか、世界中のニュースとなった。
コーヒーをこぼした位大した事では無いと思っていたマクドナルドは、大慌て。
また他のハンバーグ店や、コーヒーを出している店も、大変だとこの判決を注視した。
実は、マクドナルド側にも多少の過失があったと裁判所は指摘していた。
というのは、過去10年間に700件の苦情があったのに、
何も対策を打たずにほっといたのを指摘されたのだ。
当時家庭でのコーヒーの温度は平均72度だったのだが、
マクドナルドで出されいたコーヒーの温度は平均85度だったのだ。
それと、御婆さんにコーヒーを渡す時に、「熱いですよ。」とも言ってなく、
またコーヒーのカップにも、「熱いので注意してお飲み下さい。」
という注意書きも無かったと指摘されてしまったのである。
また、最初の裁判では、たかがコーヒーこぼした位でと、
たかをくくって裁判に臨んでいたマクドナルド側は、
過去10年間に700件の苦情なんて、0件に等しい割合の苦情だと主張したのだが、
これが陪審員たちの怒りを買ってしまった。
そこで出た判決が、御婆さん(Stella Liebeck)に3億円払えというものだったのだ。
ちなみにその後、マクドナルドは大慌てで有能な弁護士をかき集めて、最終的に、
なんとか6300万円での和解という所までもっていたのである。
勿論、その後ほぼ全ての店で、コーヒーの温度を家庭と同じ位の72度以下にするとか、
コーヒーを渡す時には、「熱いですよ。」と一声かけたり、
コップに「熱いので注意してお飲み下さい。」と記入する様になったのである。
これぞアメリカ式、一罰百戒の判決と言えるのだ。
ただ、上の松本伊代さんと早見優さんの踏切事件は、
彼女達には、災難だったかもしれないが、
一罰百戒によって、違反する人が少なくなり事故が減ったなら、
自分の行ないが、多くの人の役に立ったとして、気を落とさないで欲しい。
こういう自分の災難が、多くの人の助けになるというケースは、
神様から任された仕事である事もあるからである。
一罰百戒という事では、みなが知っているタイタニック号の沈没事故もそれに当たる。
タイタニック号遭難事件は、犠牲者数は1,513人にも達し、
当時世界最悪の海難事故といわれ世界中を震撼させたものだった。
この事故をきっかけに船舶・航海の安全性について、
国際的に取り決めようという動きが起こり、特にアメリカでは、
船舶への無線装置配備の義務付けが強化され、
無線通信が世界中に普及するきっかけになったのである。
最後に、
この悲劇的なタイタニック号の事故の裏で、
1つの事件が起きていたのを皆さんはご存じだろうか。
1912年4月10日、タイタニックはイギリスのサウサンプトン港から、
ニューヨークへと処女航海に出航した。
ちなみに、当時タイタニック号への乗船を直前になって、
急きょキャンセルして乗らなかった人が、なんと50人いたという。
そして、4月14日23時40分、北大西洋のニューファンドランド沖に達した時、
見張りが巨大な氷山を目視で発見して、すぐに一等航海士に報告した。
しかし、氷山まで僅か450mで、舵を切り、22.5ノットの船を停止させるまでに、
1200mが必要だったので、船首を避けるのが精いっぱいで、
氷山は右舷をかすめ、タイタニック号は停止したという。
ちなみに、後の詳しい検証で、もしタイタニックが減速させていなければ、
氷山に衝突する事はなかったと専門家はいう。
速力を落とした為に、効きのよくない舵が余計に効力を発揮しなくなったというのだ。
こうして、氷山に当った右舷から浸水が始まった。
実は、このタイタニック号には、1人だけ日本人が乗船していたのである。
それはあの有名なYMOのメンバ-で、音楽家の細野晴臣さんの祖父だった。
細野正文さんである。奇跡的にあの事故で生き残った正文さんであったが、
その後、苦難の人生を送る事になる。
実は、あのタイタニックの事故で生き残った男性の大人はとても少なかったのだ。
だから、海外でも生還後、自国に帰国した後でみんなに卑怯者と罵られていたのだ。
それは日本でも同じだった。
細野正文は、女・子供を押しのけてボートに乗り込んだ卑怯者。
日本人の恥さらしだと、彼が死ぬまで周りに言われ続けたのだった。
それらの暴言に対して、細野正文は一言も言い訳しなかったという。
多くの人が亡くなったのに、自分だけ生き残ったのは事実だったからだ。
しかし、彼が亡くなってから、外国人の手記や他の人からの証言から、
細野正文さんは、全てのボートを甲板の上で見送った後、沈んで行くタイタニックの上で、
「このボートにはあと2人だけ空きがあるぞ。」という声を聞いて、
必死にそのボートに飛び移って、助かっていた事が証明されたのである。
細野正文さんが亡くなってから85年後の名誉回復だった。
彼は「恥ずべき日本人」では無かったのである。
人々は救命ボートに乗り移ってもまだ助かった訳では無かった。
北極海の冷たい海の上で、食べ物も水も無く、寒い夜中である。
この窮地に最初にこの現場に到着して人々を助けたのが、カルパチア号だった。
ニューヨークから出航したばかりだったが、すぐに針路を変更して全速力で救助に向かった。
夜中でしかも危険な氷山海域を抜けて遭難地点に到着し、706名を救助したのだった。
ただ、現場から58マイル(93キロ)も離れていたので、到着するまでに、
多くの男性が海で凍死して助ける事が出来なかった。
実は、その後の調査で、
このカルパチア号よりも近くにいた船が2隻いたことが分かっている。
「カリフォルニアン号」と「マウント・テンプル号」だと言われている。
もし、この最も近かった2隻がすぐに駆けつけていれば、多くの男性達も助かったのではと、
救助できるにも関わらず何もしなったと非難を浴びた。
やがて奇跡的に助かった生存者を、家族や親せきが迎えに来た。
ところが、いつまで経っても、2人の子供だけお迎えが来ないのだ。
当時、タイタニックの孤児として、ニュースになった。
下が新聞に載った当時の子供の写真である。
ルイ(Louis)とロラ(Lola)と搭乗名簿の名前を新聞に出しても、
誰も自分の親族だと名乗る人は出なかったのである。
二人は兄弟の様で、上のお兄ちゃんは3歳だった。
もう孤児院にでも預けるしか無いだろうと思われていた、その時だった。
イギリスで新聞の写真を見たお母さんが、名乗り出たのである。
名乗りでたのは、20歳のマルセル(Marcelle Caretto)だった。
では、なぜ彼女は3週間近くも名乗り出なかったのだろうか。
実は、2人の幼い兄弟の名前は、偽名だった。
なんと二人は誘拐されていのだ。
母親のマルセルは、15歳の時に、27歳のミシェルと結婚した。
ところが、二人の結婚生活は上手くいかず、5年後に別居。
裁判所は二人の息子の親権は、母親マルセルに権利を認めた。
しかし、父親はせめてイースターぐらいは息子達と一緒に居たいと主張し、
母親のマルセルは週末だけという約束で、息子達を父親に預けたのだ。
ところが、父親のミシェルは息子達をそのままタイタニックに乗せて、
アメリカに逃げてしまったのである。
子供達が手配されていると思い、乗船する時に偽名を名乗り、
3人で二等船室に乗船したのだった。
父親のミシェルは、必死の思い出二人を救命ボートに乗せると、力尽きたという。
子供達はタイタニックが沈没してから1ヵ月と1日ぶりに、
アメリカに迎えに来た母親マルセルと再会して抱き合った。
その時に母親にこう言ったという。
「ぼく、怖くなかったよ。
ボートも楽しかったよ。」
ちなみに、兄のナヴラティルは大学の先生となり、2001年1月30日に92歳の生涯を終えた。
タイタニック号の最後の男性生存者であった。
そして、兄のナヴラティルは、当時まだ3歳だったのに、
父が遺した最後の言葉を覚えていて、母親にこう言ったという。
「パパがね、ママは必ず迎えに来るからね。って。
そしたら、愛してる、今でも・・って伝えてって。
いつか4人でアメリカで幸せに暮らしたかったんだって。」
END
PS.
参考:wikipedia



