●皆殺しの天使
1883年8月19日、
フランス中南部のオーヴェルニュ地方の小さな救済病院で、1人の女の子が生まれます。
名前をガブリエルといい、5人兄弟姉妹の次女として生を受けます。
父親は露天商や行商をしていて、地方を歩き回っていた男でしたが、
同時にあちこちで女を作り、家庭をかえりみない男でした。
その為、体の弱い母親は、体に鞭打って働き、5人の子供達を育てていたのです。
貧乏だった家族が、救済病院でなんとか出産した時も、父親はそこにいませんでした。
その病院の方が、父親の代わりに、
守護天使であるガブリエルの名前を彼女にと付けたのでした。
やがて、そんなガブリエルが、後に「皆殺しの天使」と呼ばれる様になるとは、
その時、誰が予想する事が出来たでしょうか。
ガブリエル11歳の時、
無理をして働いていた母親の喘息が悪化し亡くなりました。
父親が5人の子供達の面倒を見る事になりましたが、
彼にはその気がまったくありませんでした。
あちこちにいた女性達と戯れる方が、子供を育てるよりもずっと楽しかったのです。
父親は、すぐに子供5人を連れて親戚をまわります。
そして、子供が欲しいという家庭に、養子に出したのでした。
しかし、11歳と結構歳がいっていたガブリエルと1歳年上のお姉さんは、
養子に貰ってくれる所さえありません。
しかたなく父親は、
二人を田舎にあるサン・ティティエンヌ修道院付属の孤児院に連れていきました。
まだ小さな少女二人は、毎週日曜日になると、
他の子供を迎えにくる親御さんを見ながら、
決して迎えに来ることのない父親をずっと待ち続けたといいます。
しかし、父親が彼女達の前に現われる事は、二度と無かったのでした。
二人はていよく、孤児院に捨てられたのです。
修道院では、他の子達に「親無し子!」と言われると、いつもこうウソをつきました。
「違う、父ちゃんはワインの商人で、今アメリカに居るんだ。
戻って来たら、絶対迎えにきてくれるんだ。」
修道院では、皆将来仕事につけるようにと、女の子はお裁縫を習いました。
18歳になると、孤児院にも居られなくなり、ムーランにある修道女学校に進みます。
すると、そこには、孤児院の時以上の差別が待っていたのです。
修道女学校には、両親がお金持ちの寄宿生と、
彼女達の様に孤児院出身の貧乏な学生の両方がいたのです。
お金持ちグループの子と、貧乏グループのガブリエル達の間には、
常にお金の差別がついてまわりました。
貧乏グループの部屋には、暖房さえもありませんでした。
食事をするにも、テーブルは別で、常に貧乏テーブルで食べるだけでなく、
食べる食事も、明らかに粗末なものでした。
女学校で受けられる授業にも差があり、そのうえ貧乏グループの子は、
金持ちグループの子達の雑用をしなければならなかったのです。
それが、お金を取って預かった寄宿生と、慈悲で預かっている寄宿生の差だったのです。
お姉さんは、とてものんびりした性格で、ガブリエルとは違い、
言われた事を淡々と従ってやる普通の女性でした。
しかし、ガブリエルは寄宿舎での単調で差別的な生活が嫌でした。
朝起きて、お祈り。そしてお裁縫、お散歩。そしてまたお祈り。
当時、女性一人で成功するには、女優になるか、歌手になるしかありませんでした。
「よし、私は歌手になるんだ!」 「お金持ちになるんだ!」
そう目標を立てると、彼女はがむしゃらに働き始めました。
昼間は、お針子の仕事と売り子をし、
夜はクラブやキャバレーの様なカフェで歌を歌う様になりました。
しかし、芸能界はそんな簡単なものでは無かったのです。
彼女は何度も何度も色々なオーディションを受けましたが、落選ばかりだったのです。
周りの人達は、歌のレッスンなどを受けていたのですが、
彼女にはそんなお金も教えてくれる人も居ませんでした。
やがて、オーディションを受ける気力も無くなり、芸能界への道をあきらめました。
20歳になると、彼女は友人と一緒にムーランの婦人子供洋品店に住み込みで奉公に入り、
縫い仕事を覚える様になりました。
ところがある日、バルサンという男性と恋仲になります。
彼は父親を亡くしたばかりで、多額の遺産を相続したばかりの資産家で、
騎兵隊の将校でした。
思わぬ出会いから、彼女は突然、玉の輿に乗ったのです。
それは夢の様な生活でした。
大きなお屋敷と、大きな牧場、沢山のお手伝いさんに、乗馬もし放題。
また彼はとても優しく、ガブリエルに色々なプレゼントをしました。
乗馬がしたいと言えば、習わせ、欲しいという物は何でも買ってくれました。
彼女もそのお礼に、彼の乗馬ズボンに合せた上着や小さな帽子を作ってあげました。
すると、その小さな帽子が仲間内で大人気になり、こんなに注文が来るんなら、
帽子を専門に作るアトリエでも出してみるか。と言ってくれました。
すると案の定、彼女が作った小さい帽子は、
上流社会の女性達にうけ、帽子のアトリエは大繁盛。
彼女は幸せの絶頂にありました。
そんなある日の事、
彼の家に、母親と兄弟が遊びに来るいうのです。
ガブリエルは、緊張しました。どんな挨拶をしたらいいんだろう。
お母様に気に入られるかしら。
しかし、彼は彼女を母親に紹介するどころか、彼女を別室に閉じ込め、
母親と兄弟から彼女の存在を隠したのでした。
これって、何?
お母様に紹介出来ないって、どうして?
家のメイドは彼女にこう言ったといいます。
「あなたは、彼にはふさわしくない女だから。」
それは彼女が、貧乏あがりの捨て子だと、言わんばかりでした。
今まで、「君は綺麗だよ。」とか、「愛しているよ。」という言葉はウソだったの?
母親が帰ると、彼に問いただしました。
すると彼は、きっぱりと、
「結婚を約束した事なんて無いだろ。」
「お互い好きなら、それでいいじゃないか。」
ガブリエルは、彼の愛人の一人に過ぎなかったのを知ったのです。
それでも、ここに居れば、貧乏な暮らしとは無縁の贅沢な暮らしが出来る。
彼女は我慢して、帽子を作る店を伸ばそうと力を入れようと思いました。
しかし、彼は会う時間も少なくなるし、
女は外で働くものでは無い。と帽子の店が大きくなるのを反対します。
彼女はバルサンとの別れを決意しました。
その後、ガブリエルは、バルサンの家で知り合った青年実業家のカペルと交際を始めます。
他の人は、みなガブリエルの事をバルサンの愛人だとしか思っていませんでしたが、
カペルだけは違いました。
彼は今でこそお金持ちの青年実業家ですが、
実は私生児(愛人の子)だったので、少年時代は愛人の子と差別され、
貧乏で苦労した過去を持っていたのです。
だから、ガブリエルの気持ちや境遇にも理解があり、
彼女を一人の女性として見てくれたのです。
彼はすぐにまた彼女が帽子を作れる様にと、店を出してくれました。
ガブリエル29歳の時です。
二人は心から愛し合いました。
彼女は彼から借りたお金を一日でも早く返そうと必死に頑張りました。
帽子だけでなく、洋服も売り出す様になると、それがまた大当たり。
恋人カペルは、彼女に全てを与えてくれました。働ける場所。贅沢な暮らし、そして愛。
彼女は順調な仕事と恋人との愛。その両方を手にし、幸せの絶頂でした。
ところが、彼は野心家な所があり、
彼はガブリエルの事を、とても愛していましたが、
同時に上流階級の仲間入りをしたいという気持ちがあったのです。
そして、結局彼が結婚に選んだのは、イギリスの上院議員の娘、ダイアナでした。
彼は愛するガブリエルを捨てて、好きでも無いダイアナとの結婚を選んだのです。
彼女はまたしても、自分の身分の無さに泣かされたのでした。
後に彼女は、雑誌のインタビューで、こう答えています。
「男が本当に女に贈り物をしたいと思ったら、結婚するものよ!」
カペルの結婚後、彼女はきっぱりと彼の事を忘れようと思いましたが、ダメでした。
彼を心から愛していたのです。
カペルの方も、すでに妻に飽きていました。
二人は別れてみて、改めて思ったのです。本当に愛しているのは誰かと言う事を。
その後、二人はちょくちょく会って愛を確かめ合いました。
そんなある日、待ち合わせ場所に彼がなかなかやって来ません。
すると、彼女の元に訃報が届きます。
彼は彼女の元に来る途中、自動車の事故で亡くなったのでした。
彼女はすぐに、現場に駆け付けましたが、
愛人である彼女は、彼の遺体と対面することすら許されませんでした。
彼女は悲しみ、何日も部屋に引きこもって泣き明かしたといいます。
彼は生前、彼女の腰まで届く長い黒髪が大好きでした。
彼女はその長い髪をばっさり切り、それ以後生涯独身を通す事になるのです。
愛する彼を失い、絶望の淵にあった彼女を立ち上がる事ができたのは、
自分が愛した人の代わりに、せいいっぱい生きなければいけない。
カペルと作った店を潰してはいけない。と気づいたからだといいます。
彼女はそれ以降、がむしゃらに働き始めます。
そんな時、一人のフランス人調香師を紹介されます。
調香師とは、香水などを作る職人です。
彼はロシア皇帝に父親と仕え、
皇室のお抱え調香師でしたがロシアから亡命していたのです。
彼女はこれも何かの縁だと感じ、彼と共同で香水を作る事にしました。
そして、ようやく出来上がった香水に名前をつける事になります。
通常、香水には美しい名前や響きの良い名前、
花の名前などをつけるのが当たり前になっていました。
しかし、彼女は普段から、「シンプル イズ ベスト」という考え方があり、
「余計なものは一切排除する」という哲学が、例え名前であってもそれを適用したのです。
その香水は、試作品番号で言うと5番目に出来上がったものでした。
「じゃあ、私の名前を付けて、
シャネルの5番にしましょう。」
香水のボトルも、今まで丸みを帯びたものばかりだったのを、
力強くまた割れにくい、鋭角的なデザインにしたのも、今までにない異例のものでした。
香りもロシア皇帝お墨付きの調香師が作った優れたものだったのもあり、
この香水は大好評となり、後に世界的なベストセラーとなる伝説の香水になったのです。
シャネルは、その後も女性が社会進出出来るようにと、
女性が働きやすい商品ばかりを開発し始めます。
例えば、当時女性の帽子は、飾りばかりが沢山ついていて、
大きな帽子は、顔も動かしずらくて、隣の人と話をする時さえ邪魔になるしろものでした。
しかし、シャネルが作った帽子は、目や顔を隠さず、額まで見せるスタイルにしたのです。
普通の主婦だけでなく、働く女性にとって、それは歓迎すべき帽子でした。
シャネルは、いつもこう考えていました。
「どうしたら女性がより動きやすく、生き生きと暮らせるか。」
当時フランスでは、女性はコルセットでウェストを締め付け、
ウエストを少しでも細く見せ、バストとヒップを大きく見せるのが常識となっていました。
その為に、多くの女性が苦しくなり、女性が気絶するという事はしょちゅうあり、
その為の気付け薬を持ち歩くほどだったのです。
しかし、シャネルはこの事に、いつも疑問を持っていました。
「なんで、女性だけが、こんなに苦しい思いをしないといけないの?」
そこでシャネルが提案した服は、ウェストを締め付けない直線的な服でした。
これを着た女性達は、コルセットをしなくてもいいんだ。体を思いっきり動かせると大評判。
彼女は次々に、女性が動きやすい、働きやすい服を発表します。
ズボンを改良したキュロットスカートや、
当時男性の下着でしか使われたかった素材を使って、女性用ジャージーも作りました。
男性用は頭からかぶるだけのものでしたが、
シャネルは女性はかぶると髪型がくずれてしまうだろうからと、
ジャージーの前を切って、かぶらないで羽織れるタイプのジャージーにしたのです。
また、彼女は服の色の概念もぶち壊しました。
当時は、黒い服は喪服の時だけというのが常識でしたが、
1926年、シャネルが黒いミニドレスを「リトル・ブラック・ドレス」として発表すると、
それが、アメリカのファッション雑誌「ヴォーグ」で絶賛されると、
瞬く間に、世界中の女性が着る様になったのです。
また、当時、女性の服にはポケットは必要無いと言われてのを、
女性の服にもポケットをつけてのがシャネルでした。
彼女の功績は、帽子や洋服に留まりませんでした。
彼女は普段から、バックを手に持ち歩いているのは、不便だと感じていました。
そこで、両手が自由に使える様にと、当時の軍隊のバッグにヒントを得て、
紐を肩にかけるショルダーバッグを開発したのです。
また、片手でも口紅がぬれる様にと、リップスティック状の口紅を発明しました。
そして、靴でもパイカラーのパンプスを開発。

これは、女性が活発に動いたり、働いていると、どうしても靴の先だけ汚れてしまいます。
そこでシャネルは、靴の先だけ黒くしかもおしゃれにした靴を開発したのです。
また、当時宝石と言えば、お金持ちだけの楽しみでした。
宝石など、貧乏な女性には無縁のものだったのです。
しかし、シャネルは積極的に模造宝石を使ったジュエリーを発表しました。
お金の無い人達にも、宝石で飾る楽しみを教えたのです。
シャネルが作った洋服やファッションアイテムは、
当時のファッション業界に革命を起こしたと言っても過言ではないでしょう。
やがて、シャネルを着る人は、「仕事が出来る女」というシンボルにさえなっていったのです。
こうしてシャネルは、女性の生き方さえも変えたのでした。
小説家のポール・モランは、彼女の事を「皆殺しの天使」と表現しました。
なぜなら、それまで常識とされてきたデザインを全てぶち壊してしまったのです。
それは今までのファッションの常識を、彼女ひとりで皆殺しにしてしまったかの様でした。
シャネルには、もう1つ見えない見方がいました。
それは時代です。
時代が彼女を後押ししたのです。
当時、4年続いた第一次世界大戦で、多くの男性が戦場に駆り出されたり
死んだりした為に、女性達はいやおうなしに社会進出しなければならなかったのです。
今までの様に、コルセットして自転車で走り回るなんて事も出来なければ、
活発に働く事も出来ません。
そんな女性達は、実用性が高かったシャネルの服や靴、
バックや口紅は、みんなが待ち望んでいたものだったのです。
後に彼女は、こう語っています。
「人生のスタートが不幸だったことなんて、
私はまったく恨んでいません。」
「翼を持たずに生まれてきたのなら、
翼を生やすために、
どんな障害も乗り越えてやる。」
「人生が分かるのは、
逆境の時なのよ。」
シャネルは生前、「白と黒が一番のエレガンス」と言っていて、
香水の箱も、商品の紙袋も、シャネルのロゴも、
全て白と黒に統一し続けました。



それは彼女の貧しい生い立ちが関係していたのかもしれません。
彼女が育った孤児院や修道院の暮らしの中で、
シスターの白と黒の服は、彼女にとって救いであり、
希望であり、美徳だったのかもしれません。
聖メリーの鐘より
また、彼女がいつもこだわったという「余計なものは一切排除する」という哲学も、
修道院で育った「簡素な美」というものが根底にあったと言われています。
そして、
1926年、シャネルが黒いミニドレスとして、
「リトル・ブラック・ドレス」を発表し、世界中のセレブや女性達に絶賛された服も、
実は、修道院の貧しい孤児たちが着用していた
黒のスカートの制服が基本だったという事は、
余り知られていない。
END
PS.余談ですが、
彼女の本名は、ガブリエル・シャネルですが、
社会進出する頃から、彼女は自分の事をココ・シャネルと言う様になります。
世界中のどの本やコメントを読んでも、その理由はこう書かれています。
歌手になりたかった頃、ココリコなどココが出て来る歌をよく歌っていたので、
その頃、みんなから愛称として、「ココ」と呼ばれる様になった。と。
でも、それって、皆から呼ばれていた事で、
自分が気に入って、自分の名前を改名する程の理由でしょうか。
私は彼女を調べていて、占い師として1つ感じるものあったんですよね。
でも、世界中の誰も指摘していない事だし、誰も書いていないし、
私だけが感じただけなので、
ここからは、ただの私のたわ言だと思って聞いてください。
彼女は父親に、12歳の時に孤児院に捨てられました。
でも彼女は父親を生涯愛していたのです。
彼女はずっと父親が、いつか孤児院に私を迎えに来てくれる。
きっと来てくれる。と信じていたと思います。
だから、親無し子とヤユされても、
父ちゃんはアメリカに行っていて、戻って来たら迎えに来るんだ。
と決してその信念と希望だけは、持ち続けたのです。
孤児院に捨てられる前、彼女は父親を深く愛し、
どんなに帰って来なくても、いつも父親の帰宅を待ち望んでいた子だったのです。
そんなガブリエルは、父親の前でもココリコの歌を歌い、
父親からは、彼女の事をガブリエルではなく、
「ココ」「ココ」と可愛がられたといいます。
それは、まるでガブリエルという名前はオレがつけたものじゃないから、
「ココ」と呼ばせて欲しいと言っているかのようです。
つまり、父親は彼女の事を「ココ」と呼んでいたのです。
彼女は孤児院に捨てられた後も、父親の実家まで行き、そこで暮らし、
なんとか再び父親に会えないかという行動を起こしています。
そして、決定的なのは、
彼女が亡くなる前に受けたインタビューで、
「私が生涯愛したのは、カペルと父親だけでした。」と語っているのです。
彼女は自分を捨てた父親をまだ愛していたのです。
そして、いつかまた会いたい。いつか私を迎えに来てくれる。
そう信じて、父親が自分を呼んでいた「ココ」を使えば、
どこかで父さんが、この名前に気づいてくれるかもしれない。
そんな願いを込めて、
「ココ・シャネル」を名乗ったのではないでしょうか。
「父さん、私は今、ここにいます。」
「ココは、こんなに活躍しているんですよ。」
一目でいいから、会いに来てください。